1-12 第一幕ラスト
部屋に入った彩音は、ピアノを見ないように意識して、ベッドへと腰を下ろした。そこから跳ね返ってくる弾力も、彩音が愛用するベッドと全く同じに感じる。
「……っ」
目線がピアノへと向きそうになるのを、彩音は必死で堪えた。
(――私にはもう、必要ない物よ。見たくもないって、だから捨てたのに――)
ぎりっ、と歯噛みした自分に気付くと、彩音は慌てて口元を左手で押さえたが、ここには自分以外に誰もいないことを思い出し、小さなため息を吐いた。
「……はぁ」
沈んだ気分で彩音が俯いていると、扉を、コン、コン、とノックする音が響く。
「あ……そうだったわ」
ナナシがまだ部屋の前にいることを思い出し、彩音が扉の前まで歩み寄る。ゆっくりと扉を開くと、そこにはやはりナナシが立っていた。
「どう? おねえちゃん、落ち着いた?」
「……さっきよりはね」
どうにも気分は沈んだままで、短い返事しか出来なかった彩音に、それでもナナシは初めて会った時とまるで変わらぬ笑顔を見せる。
「そっかぁ、よかった。あ、ところでさ、おねえちゃんの部屋、入ってみてもいい?」
「えっ、あの……え、ええ、いいわよ」
何となく躊躇った彩音だが、とりあえず了承の返事をする。ナナシはそれを聞いてから、ゆっくりと室内に足を踏み入れようとした、が――
「それじゃ、お邪魔しま――すびっ」
見えない壁で阻まれたように、ナナシの身体が途中で止まる。驚いたのはナナシより、むしろ彩音のほうだった。
「えっ? な、ナナシくん、何してるの? ……パントマイム?」
「えっ? パントマイム? なにそれ、なにそれ?」
見えない壁に阻まれたことより、彩音の発した単語のほうが、ナナシにとっては興味の対象となるようだった。しかし彩音には、なぜナナシが入ってこないのか、本気でパントマイムだとは思っていないし、今しがた起こった現象のほうが気にかかる。
「あの、ナナシくん、どうして」
「パントマイムって、なんかパンデモニウムと似てるよね。親戚みたいなの? パン……もしかして、食べ物だったりして。ねえねえ、教えてよ~、おねえちゃ~ん」
「ちょ、ちょっとパントマイムのことは、一回だけ置いておいてもらっていい?」
そう言われて、ナナシは渋々ながら質問を中断し、彩音の疑問に答えた。
「う~、しょうがないなぁ……えっとね、僕がおねえちゃんの部屋に入れないのは、おねえちゃんが僕を部屋に入れたくない、って思ったからだよ」
「えっ、ええっ? 私、そんなこと思ってないわ。現に、入ってもいい、って言ったじゃない。ナナシくんだって、聞いてたでしょ?」
「あ、うーん、そういうことじゃなくってねぇ。えーと、深層意識? っていうのかな。意識のコンテ……根底? で、少しでもそういう部分があったらね、入れなくなるんだ」
そう言われて彩音は、了承はしたものの、何となく躊躇った自分を思い出した。今しがた出来たばかりの自分の部屋とはいえ、更にこんな小さな子が相手といっても、家族以外の男性を自分の部屋に上げた経験など、今まで一度たりとも無かったのだ。
「……ご、ごめんね」
何となく申し訳なくなって謝った彩音に、ナナシはきょとんとした表情を見せる。
「えっ? 謝る必要なんてないよ? だって、多分こうなるって思ってたしさ。おねえちゃんくらいの女の子の部屋だと、いきなり入れることなんて滅多にないもん」
「……え、ええ~っ……? じゃあ、何で入ろうとしたのよぅ……」
「確認だよ、確認~。その部屋が、ちゃんとおねえちゃんの部屋になってるかどうかさ」
部屋の中で不満顔をする彩音に、ナナシは部屋の外から説明を続ける。
「まあ、これでこの部屋はおねえちゃんの物、ってこと。今度からは空き部屋に入っても、何にも無い部屋になってるはずだよ。ここだけが、おねえちゃんの部屋なんだから」
「そ、そう……わかったわ」
今も部屋の隅にあるピアノの存在を背中に感じながら、彩音は躊躇いがちに頷いた。
と、ナナシが部屋の外から見えない壁に飛びつく勢いで、彩音に向けて目を輝かせる。
「で、で、パントマイムって、なんなの? どういうの? 僕、さっきそれやってた? どんなのか、おねえちゃん、やってみてよぉ」
「えっ? えっ、と……でも、あの」
「早く早く! パントマイムー!」
「あの、えっと、恥ずかしいし……今日は疲れてるから、また明日じゃ……ダメ、かな?」
頬を僅かに赤らめて俯く彩音に、ナナシが少しだけ残念そうに頬を膨らませる。
「ええ~っ……明日、っていうのが正しいのか微妙だけど……うん、疲れてるっていうなら仕方ないかなぁ。うん、それじゃ、寝て起きたら、今度こそ教えてね!」
「えっ? 正しいかどうか微妙って、どういう……あっ、ナナシくんっ?」
彩音の問いかけが届くよりも先に、ナナシは自分の部屋へと戻っていった。彩音は自室の扉を閉めながら、少しだけ申し訳ないという気分に陥ってしまう。
「……あんなに案内してくれたのに、悪いことしちゃったかな……私ばっかり質問攻めにしちゃったし、少しくらい教えてあげたらよかったのかしら……」
多少の罪悪感に囚われながら、彩音はベッドに腰を下ろす。ピアノのほうへは視線を向けないよう注意しながらベッドへ勢いよく寝転ぶと、スカートのポケットから太ももの外側へと異物感が伝わった。
「あっ……スマホ」
そこでようやく携帯の存在を思い出した彩音が、スカートのポケットから取り出す。画面をタップしながら、表示される内容を確認した。
「圏外か……当たり前よね」
こんな場所にまで、電波が届いているはずもないだろう。明らかに外界から切り離されたようなこの場所で、期待していたわけでもないが、何となく溜め息を吐いてしまう。
「……お母さん、心配してるかな……」
今まで家出すらしたこともない彩音にとって、それは確かに残された気がかりではある。
けれど、それでも彩音は、この万魔殿に住むことを決めた。元いた世界への執着など、完全に失ったと思っていたのだ。
「…………」
携帯をスカートのポケットに入れ直した彩音が、ピアノからは背を向けるようにして寝転ぶ。よほど疲れていたのだろうか、目を閉じてから意識が落ちていくまで、時などほとんど要さなかった。




