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4話 死の音

 ……え?

 

 シオンの思考が、真っ白に停止した。

 ニコが、今は動かない肉の塊になって転がっている。

 その事実があまりにも重すぎて、脳が現実を拒絶していた。心臓が嫌な音を立てて脈打ち、指先から血の気が引いていく。

 

「ニコォォォォ!!」

 

 シスターの絶叫が広場に響き渡る。

 だが、その悲鳴さえも、直後に重なった無数の「音」にかき消された。

 

「ぎゃあああっ!」

「痛い、痛いよぉ!!」

 

 逃げ惑う子供たちの背中に、外套を翻した男たちが肉薄する。

 一人の男が、逃げ遅れた幼い少年の首筋を、まるで雑草でも刈り取るかのような無造作な手つきで横に薙いだ。噴き出した鮮血が月光を浴びて黒く舞い、少年の体は言葉を失ったまま地面に叩きつけられる。

 別の場所では、必死に建物の影に隠れようとした少女の髪を、男が冷酷に掴み上げた。

 そして、幅広の刃が少女の胸を深く貫く。ドサリ、という重い音が響くたび、広場の白いパジャマが一つ、また一つと赤黒い花を咲かせていく。

 血の匂い。他の子供たちの悲鳴。それらすべてが、遠くの出来事のように、どこか現実味を欠いて聞こえた。


「お前ら、油断するなよ。普通の子供だと思って相手したら返り討ちに合うぞ」

 

 男は刃についた血を無造作に振り払い、まるで汚れたゴミを片付けたあとのような冷徹な瞳で、次の獲物――シオンへと視線を移した。

 

「次だ」

 

 シオンは動けない。

 足が震え、呼吸の仕方も忘れたように喉がヒューヒューと鳴る。

 ただ、男がゆっくりとこちらへ歩を進めてくるのが、酷く鮮明に見えていた。

 そのとき。

 

「シオン! 動け、死ぬぞ!!」

 

 ベルの叫び声が、凍りついたシオンの鼓膜を叩いた。


 ベルがシオンの肩を強く突き飛ばすと同時に、男の刃が空を切り、石畳に火花を散らした。

 

「……ッ、このガキ!」

 

 狙いを外した男が忌々しげに舌打ちをする。その金属音で、シオンの意識はようやく現実へと引き戻された。




「でも、みんなが……! まだあそこにみんなが残ってるんだよ!」

 シオンは血の海と化した広場を指差し、声を絞り出した。逃げ惑い、絶望に顔を歪めながら命を散らしていく家族たち。

 彼らを置いていくことなど、できるはずがなかった。

 しかし、ベルの瞳には、すでに非情なまでの覚悟が宿っていた。

 

「……俺たちじゃ、みんなを助けられないんだ」

 

 ベルの悲鳴に近い絞り出すような叫びが、シオンの胸に突き刺さる。

 

「今ここで俺たちが動かなきゃ、あいつらの死はただの無駄死にになる……! 俺たちだけでも生き残るんだ! それが今、俺たちにできる唯一のことなんだよ!!」


 シオンの視界が、溢れ出した涙で赤く歪む。

 ごめん、みんな。俺じゃ、誰も……。

 心の中で繰り返しながら、シオンは腰を抜かしているノルアとルルの腕を掴み、無理やり立たせた。


「逃げるぞ、シオン! ルルとノルアを連れて建物の中へ戻るぞ!」

 

 ベルが叫びながら、近くにあった重い薪を男の足元へ投げつけ、時間を稼ぐ。

 

「でも、中に戻ったって……」

 

「いいから来い!」

 

 ベルの必死な形相に、シオンはノルアとルルの腕を強く引き寄せた。

 

「逃がさん!」

 

 リーダー格の男が叫ぶ。それを遮ったのは、男の一人の足に必死にしがみついたシスターだった。

 

「行きなさい!」

 

「シスター!!」

 

 シオンが叫んだ瞬間、シスターの背中に非情な蹴りが叩き込まれた。

 シスターの体が地面に叩きつけられ、鈍い音が響く。それでも彼女の指は、まるで鉄の枷のように男の足首を締め上げたまま離さない。


「邪魔をするなら、お前も殺すぞ」


 男が苛立ちに任せ、自由な方の足でシスターの頭を無造作に踏みつける。だが、彼女は口から溢れる鮮血を泥にまき散らしながらも、瞳の奥に宿した執念の光を消さなかった。


「……行かせ、ない……っ!」


 男が逆上し、シスターの背中に何度も何度も凶刃を突き立てる。グチャリ、という嫌な音が響くたび、彼女の背中から赤黒い噴水が上がる。


「――っ、走れ!!」

 

 ベルがシオンの襟首を掴み、強引に前へと引きずった。

 シオンは奥歯が砕けるほどに噛み締め、翻した背中にシスターの、そして絶命していく家族の断末魔を浴びながら、建物の玄関へと飛び込んだ。


 建物の中へ飛び込んだ瞬間、冷たい静寂が四人を包み込んだ。

 外の喧騒が嘘のように静まり返った廊下。だが、それがかえって恐怖を煽る。暗がりの向こうから、いつあの男たちが現れるか分からない。

 

「……ッ、こっちだ。隠れるぞ!」

 

 ベルが声を潜め、シオンたちの腕を引く。

 そのまま走れば、長い廊下で格好の標的になる。ベルは近くにあった配膳室の重い木扉を音を立てずに開け、三人を中へと押し込んだ。

 湿った埃と、微かな銀食器の匂い。

 四人は狭い棚の隙間に身を潜め、互いの体温だけを頼りに息を殺した。

 直後。

 廊下を叩く、規則的で重いブーツの音が響いてきた。

 

「…………っ」

 

 シオンとベルは隣にいるノルアとルルの肩を強く抱き寄せた。

 ノルアは恐怖のあまり声を上げそうになり、シオンは反射的に彼女の口を掌で塞ぐ。

 カツン、カツン、と足音が近づく。

 扉のすぐ外で、その音は止まった。

 隙間から見えるのは、血に汚れた外套の裾と、鋭く光る剣の先。男がそこに立っている。

 

「……ネズミどもが、どこへ消えた」

 

 男の低い声が、薄い扉を隔てて鼓膜に届く。鉄錆のような匂いが、隙間から流れ込んでくる。シオンの心臓は、今にも肋骨を突き破らんばかりに暴れ狂っていた。

 

 来るな……来るな、来るな……!

 

 男の手が扉にかけられた、その時だった。

 

「おい、そっちは空だ! 二階へ向かった個体がいる、追え!」

 

 廊下の先から別の男の怒鳴り声が響いた。

 扉の前の男はチッと舌打ちをすると、未練がましげに一度だけ扉を蹴りつけ、そのまま足音を遠ざけていった。

 完全に静寂が戻るまで、四人は石像のように動けなかった。

 いなくなったことを確認して、シオンが塞いでいた手をゆっくりと離した。

 

「……今だ。今のうちに抜けるぞ」


 ベルの掠れた声が、沈黙を切り裂いた。

 シオンは頷き、震える足に力を込める。

 扉を細く開けると、そこには無惨に転がる物言わぬ肉塊があった。

 シオンは反射的に胃の奥から込み上げるものを飲み込み、咄嗟に視線を逸らした。

 見たくない。見てはいけない。

 けれど、鼻を突く熱い血の匂いと、廊下の絨毯をじわじわと侵食していく赤黒い染みが、嫌でも現実を突きつけてくる。

 

「……行くぞ」

 

 ベルが先頭に立ち、影を縫うようにして廊下を駆け出す。

 シオンはノルアとルルの手を引き、死神たちが徘徊する迷宮のような廊下をひた走った。


「……ここだ」

 

 ベルが囁き、扉の前で足を止めた。


「……図書室?」


 シオンが戸惑い混じりに呟くと、ベルは振り返らずに答えた。

 

「ああ、ここにあるんだ」

 

「……なにが?」

 

 問い返す間も与えず、ベルは取っ手に手をかけ、ゆっくりと力を込める。

 古い蝶番が、かすかに鳴った。

 ベルは一瞬だけ動きを止め、耳を澄ませる。

 

 ――反応、なし。

 彼はそのまま、扉を押し開けた。

 図書室の中に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。

 ひんやりとした静寂。

 

 ベルは、必死に本棚の列を目で追う。

 

「見つけた! あそこだ!」

 

 ベルが指差した瞬間、図書室の扉が凄まじい勢いで蹴破られた。

 

「ネズミどもめ……やはりここに隠れていたか」

 

 そこに立っていたのは、血濡れた外套を翻した男。追っ手の先鋒だ。男は、他の追っ手を待たず、にじり寄るように一歩、また一歩とシオンたちに迫る。その手には、月明かりを反射して鈍く光る長剣が握られていた。

 

「来るな……!」

 

 ベルがルルとノルアを庇うように前に出る。だが、男は躊躇なく剣を振り上げた。


 ベルが震える手で薪を構え、男の前に立ちはだかる。

 だが、男は鼻で笑い、無造作に剣を振り上げた。

 

「ガキが。そんな木屑で何ができる」

 

 閃光のような一撃が振り下ろされる。

 

「危ないっ!!」

 

 シオンが叫ぶのと同時、ベルは最短の動きで半身をかわし、薪の側面で剣を滑らせるようにして受け流した。火花が散り、削られた木片が月光に舞う。

 

「シオン、早くしろ! 三段目の棚だ、そこになにかあるはずだ!」

 

 ベルの必死の声に、シオンは弾かれたように動き出し、ベルが指し示した場所へと駆け寄る。

 

「……くそっ、このガキ!」

 

 男が再び剣を引く。ベルは間髪入れず、手近な椅子を男の足元へ蹴り飛ばした。

 

「邪魔だッ!」

 

 男が椅子を一刀両断にするその一瞬。ベルは懐に潜り込み、鋭く尖った薪の先端を男の腹部めがけて突き出した。

 

「ぐっ……!?」

 

 わずかに反応が遅れた男の脇腹を、硬い木先が抉る。

 

「ベル、これか……!?」

 

 シオンは三段目の棚に並ぶ重厚な百科事典の一冊が、不自然に固定されているのに気づいた。それを力任せに手前へと引き倒す。

 

 ――ゴゴ、ゴゴゴ。

 

 地鳴りのような音と共に、巨大な本棚がゆっくりとスライドを始める。その背後に現れたのは、暗く湿った土の匂いが漂う、地下へと続く未知の階段だった。

 

「開いた! ノルア、早く入れ!!」

 

 シオンがノルアを暗闇へと押し込む。続いて、肩で息をするルルが、ベルの元へ駆け寄ろうとした。

 

「……逃すか!!」

 

 男の手から放たれた短刀が、空を裂いて飛ぶ。

 月光を反射して銀色に煌めく凶刃は、シオンの胸元を正確に狙っていた。

 

「あ――」

 

 シオンの視界が、スローモーションのように引き延ばされる。避ける暇も、腕を上げる猶予もない。死の予感に体が凍りついた、その時。

 横から飛び込んできた影が、シオンの視界を真っ黒に塗りつぶした。

 鈍い衝撃音。肉を貫く、嫌な音がすぐ耳元で響く。

 

「……が、はっ……!」

 

 シオンの目の前に立ち塞がったのは、ベルだった。

 ベルの右肩に、柄まで深く短刀が突き刺さっている。鮮血がシオンの頬に飛び散り、鉄の匂いが鼻腔を突いた。

 

「ベル!!」

 

 シオンが叫び、崩れ落ちそうになるベルの体を咄嗟に支える。ベルは激痛に顔を歪めながらも、残った左手でシオンの胸倉を強く掴み、無理やり引き寄せた。

 

「……ぐ、っ……。ガタガタ抜かすな……行けって、言ってるだろ……!」

 

 ベルが吠える。その肩からは、ドクドクと赤黒い血が溢れ出していた。

 そこへ、ルルが駆け寄ってくる。彼女はベルの反対側の肩を支えると、一度だけベルと視線を交わした。

 

「ベル……」

 

 ルルの静かな、けれど芯の通った声が図書室に響いた。

 言葉を介さずとも、二人の間には鉄のような決意が共有されていた。一拍置いて、二人は鏡合わせのように、深く、力強く頷き合った。

 

「シオン、ノルアをお願い」


 ルルは優しく微笑むと、呆然とするシオンの手へ、泣きじゃくるノルアの手をそっと重ね直した。

 

「シオン! 先に行けッ!!」

 

 ベルの、魂を削り出すような絶叫が図書室の空気を震わせた。

 

「なに言ってるんだよ、ベルとルルも一緒に――!」

 

 駆け寄ろうとするシオン。だが、それを制したのはベルの裂帛の気合だった。

 

「いいから行け!」

 

 食いしばったベルの歯の隙間から、血の混じった唾液が飛ぶ。

 シオンは奥歯が砕けるほどに噛み締め、視界が涙で真っ赤に歪む中、逃げようとするノルアを強引に抱きかかえて、真っ暗な地下通路へと身を投じた。

 背後で、本棚がスライドし、世界を切り離していく音が響く。

 ――ガコンッ。

 

 完全に通路が遮断されるその直前。

 シオンの網膜に焼き付いたのは、迫りくる死神を前に、互いの手を固く握りしめて立ち塞がる、ベルとルルの、あまりにも気高い後ろ姿だった。

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