3話 訪問者
食堂の扉を開けた瞬間、香ばしい小麦の香りと、野菜を煮込んだ甘い湯気が全身を包み込む。
「いただきます!!」
長い木製のテーブルを囲み、一斉に響き渡る合掌の声。
大きなバスケットに山盛りにされた焼きたてのパンは、見るからにふわふわで、こんがりとした焼き色が猛烈に食欲をそそった。
「おいしーい! やっぱりシスターの焼きたてパンが世界で一番だね!」
子供たちが顔と同じくらいの大きさがあるパンを両手で掴み、口の周りを粉だらけにして頬張る。
「ちょっと、落ち着いて食べてね。ほら、スープも飲まないと喉に詰まるよ」
隣に座ったルルが、まるでお母さんのような手つきで隣の子の口元を拭いてやる。
そんな喧騒を微笑ましく眺めながら、ノルアは手際よくサラダを取り分け、ベルは器用に本を読みながらスープを口に運んでいた。
「シスター、今日のパン、いつもより甘い気がする!」
その声に、同じテーブルでパンをちぎっていたシスターが一瞬だけ手を止め、どこか楽しそうに目を細めた。
「ふふ、正解です。隠し味に、少しだけ蜂蜜を入れたのですよ」
そんな他愛もない会話と、温かい食事。
ベルが言っていた不穏な推測など、朝日と一緒に溶けて消えてしまいそうなほど、そこには完璧な家族の風景があった。
それから数日の間、孤児院には穏やかな時が流れた。
ある日は、みんなで庭の草むしりをした。
作業が終わったあとにシスターが配ってくれた、よく冷えたミルクは、まろやかな甘さで、泥だらけになった疲れを一気に和らげてくれた。
またある日は、探検に出かけた。
ニコは「よーし、次は伝説の盾を見つけるぞー!」と、勇者の剣(ただの木の枝)を振り回して茂みの奥へと突っ込んでいく。
「ルル、ちょっとじっとしてて。……ほら、完成!」
「わあ、可愛い……。ノルア、ありがとう」
編み上げられた花の冠を頭に乗せてもらい、ルルが照れくさそうに微笑む。
夜になれば、シスターが読み聞かせてくれる物語に耳を傾けながら、みんなで身を寄せ合って眠りにつく。
危険な森に近づかなくても、ここにはすべてがあった。
シスターとの約束を破る必要なんてどこにもない。
この温かな庭の中で、みんなで笑い合っていられる今が、何よりも大切で、確かな真実だった。
その日の夜。
みんなが心地よい眠りに落ちていたときのことだ。
――ジーーーーーッ。
――ジーーーーーッ。
静まり返った孤児院に、古ぼけた玄関チャイムの音が低く鳴り響いた。
……こんな時間に、誰だ?
シオンはふと目を覚ました。
隣のベッドではニコがすやすやと寝息を立てているが、ベルのベッドはすでに空だった。窓際を見ると、ベルが音もなくカーテンの隙間から下を覗き込んでいる。
ガチャリと扉が開く。そこには、灰色の外套を纏った数人の男たちが、冷たい月明かりを背にして立っていた。
「……何のご用でしょうか。こんな時間に」
「上からの命令です。今すぐ全員を外に集めてください」
「命令……? 理由をお聞かせ願えますか」
「詳細は、後ほど」
男が淡々と答えると、シスターは怪訝そうに眉をひそめ、納得のいかない様子で男たちを見つめた。
しかし、相手の頑なな態度を見て、これ以上ここで問答をしても拉致があかないと判断したのか、彼女は一度深呼吸をしてから、階段の上に潜んでいたシオンたちの気配に気づき、顔を上げた。
「シオン、ベル。起きているのでしょう?」
ドキリとして、二人は影から這い出した。
「……みんなを起こして、外の広場に集めてちょうだい」
「え……? でも、シスター、こんな夜中に何を……」
「いいから。急いでちょうだい」
シスターの声は静かだったが、逆らうことのできない絶対的な響きがあった。
シオンは戸惑いながらも、隣に立つベルの表情を見た。ベルは驚いている様子はなく、ただ、予測していた最悪の事態が現実になったことを確信したような、暗い瞳をしていた。
「行くぞ、シオン。……みんなを起こさないと」
ベルに腕を引かれ、シオンは慌ただしく寝室へと戻った。
「みんな、起きてくれ!」
突然のことに混乱し、目をこすりながら起き上がる子供たち。
「どうしたの?」「まだ夜だよ?」と不安げな声が上がる中、シオンは必死に彼らを促した。
「……なんなのよ、一体。こんな時間に、眠いんだけど……」
ノルアが不機嫌そうに髪をかき上げながら、シオンを睨みつけた。
「シスターの指示なんだ。いいから、早く外へ」
そして、パジャマ姿のまま、身を寄せ合うようにして玄関を出る子供たち。
そして広場には、シスターと五人の男たちが待っていた。
男たちは互いに口を聞くこともなく、闇に溶け込むような暗い色の外套を纏っている。
「全員揃いましたか」
リーダー格の男が、感情を排した声で問う。
「……それで、話というのは何なのですか。こんな時間に、全員を集めてまで」
「上からの命令です。施設の全個体を処分する」
「……処分? 何を言っているのですか。この子たちが、一体何をしたというのです!」
シスターが激昂して叫ぶ。しかし、男は表情ひとつ変えず、突き放すように言い放った。
「第3施設にて、収容個体の一名が変異した。……甚大な被害が確認された」
「嘘でしょう……?」
シスターが呆然と呟く。男の視線は、シスターではなく、彼女の背後に隠れる子供たちへと向けられた。
「自覚がないのか? その異常な身体能力も、傷の治りの早さも、すべては人間を捕食し、滅ぼすための種へと変異した証拠だ。これらはもはや子供ではない。人間に擬態しただけの、人類の脅威となる怪物だ」
男の言葉に、シオンは自分の手を見つめた。
高いところから落ちても、平気だった。
切り傷が、いつの間にか消えていた。
それが普通だと思っていた。
比べたことなんて、なかったから。
なのに今、その当たり前を、異常だと呼ばれている。
シスターの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「脅威……? そんな、バカな……! この子たちが、人間に害をなすなんてあり得ません! 毎日一緒に過ごしている私が一番よく知っています!」
「その情が判断を鈍らせる。全個体を即刻処分する。これは人類の安全を守るための決定だ……処分しろ」
男が短く合図をすると、後ろに控えていた四人の男たちが、一斉に外套の中から無機質な武器を取り出した。
「この人たちだあれ? 処分って、なあに?」
ニコが、シオンの服の裾から手を離し、とてとてと無邪気な足取りで男たちの前へと歩み出た。
まだ幼い彼は、目の前の大人たちが放つ刺すような殺気も、その手に握られた刃の意味も、何も理解できていない。
ただ、純粋な疑問をぶつけただけだった。
「ねえ、おじさん。ニコたち、なにか悪いことしたの?」
ニコが、一番近くにいた男を見上げて、その外套の端をちょんと掴んだ。
その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
「ニコ、だめだ! 戻れ!」
シオンが叫び、手を伸ばす。しかし、それよりも早く、男が冷酷な手つきでニコを突き飛ばした。
「……近寄るな、化け物が」
尻餅をついたニコの喉元に、男は容赦なく、幅広の鋭い刃を突きつけた。
「シスター……おじさん、怖いよ……」
その小さな震える声が、静寂を切り裂く合図になった。
「やめて!!」
シスターが狂ったように叫び、ニコを守ろうと男たちへ向かって飛び出した。
だが、リーダー格の男が冷淡に右手を上げる。
「ためらうな。一匹残らず、ここで終わらせろ」
次の瞬間、振り上げられた刃が、月明かりを切り裂いて振り下ろされた。
肉を断つ嫌な音が、夜の静寂を無残に踏みにじった。
ニコの小さな体が、まるではじき飛ばされたように地面を転がる。白いパジャマの胸元が瞬く間に赤黒く染まり、広場の土にどろりとした液体が広がっていく。
「あ……」
ニコの口から漏れたのは、言葉にならない掠れた吐息だった。
小さな指先が、力なく痙攣し、やがて動かなくなった。
大きく見開かれた瞳からは、急速に光が失われていく。




