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2話 平穏

 孤児院の扉を開けた瞬間、建物の中から年少組の子供たちが弾かれたように飛び出してきた。

 

「あ、シスター! おかえりなさーい!」

 

 わらわらと群がる子供たちに、シスターは「はいはい、ただいま。危ないですよ」と苦笑しながら、一人ひとりの頭を優しく撫でていく。


「いい匂い。今日はシチュー?」


「ええ。さあ、みんな手を洗ってきなさい。今日はみんなが大好きなシチューですよ」


「やったあ!」


 シオンたち四人も、その輪に混ざるようにして中に入る。    

 中はすでにシチューの温かい香りで満たされている。

 

「いただきます!」

 

 一斉に響く元気な声。

 木のスプーンですくうスープは、驚くほど温かくて、喉を通るたびに今日一日の疲れを溶かしていく。

 

「おいしい……。やっぱりシスターのシチューが一番だね」


 シオンが思わずこぼすと、向かいに座ったノルアが「ちょっと、私のジャガイモの方が小さい気がするんだけど!」と、いつものように自分の皿とシオンの皿を見比べて唇を尖らせた。

 

「そんなこと言ったって、シスターがよそってくれたんだから同じだろ」

 

「シオン兄ちゃん。僕のが一番大きいよ!」

 

 ニコが、口の周りに白いソースをつけながら得意げに胸を張る。

 

「こら、ニコ。食べながら喋るとこぼすわよ」

 

 ルルが甲斐甲斐しくニコの口元を拭いてやり、ベルは騒がしい食卓の中でも、器用に本を片手にスプーンを動かしている。


 シスターは、そんな子供たちのやり取りを背景に、ただ静かに、聖母のような穏やかさで佇んでいた。

 

「シスターは食べないの?」

 

 シオンがふと尋ねると、彼女は細く白い指先を組み、静かに首を振った。

 

「私は、あなたたちが美味しそうに食べている姿を見るだけで、十分にお腹が満たされるのですよ」

 

 その言葉は、どこまでも慈愛に満ちていた。


 食後の賑やかな喧騒が一段落し、子供たちはそれぞれ寝支度を始めた。

 

「ほらニコ、パジャマのボタンが一個ずれてるわよ。じっとしてて」

 

 ルルに世話を焼かれながら、ニコは眠たそうに目をこすっている。

 

「ねえ、シオン兄ちゃん……。明日も晴れるかな?」

 

「ああ、きっと晴れるよ。そしたらみんなで遊ぼうな」

 

「うん……約束だよ……」

 

 ニコは満足げに小さく欠伸をして、シスターに抱き上げられるようにして寝室へと運ばれていった。


 シオンもまた、ノルアたちと一緒に洗面台へ並んで歯を磨く。

 使い込まれた踏み台に登り、肩を寄せ合って鏡に向かうのは毎晩の習慣だ。

 ふと鏡越しに目が合うと、ノルアが可笑しそうに目を細めて笑った。

 口の端に少しだけ白い泡をつけたまま、彼女は「なによ」と、声にならない口の動きでシオンをからかう。

 つられてシオンも口元を緩め、二人で顔を見合わせて小さく肩を揺らした。

 そんな、言葉にしなくても通じ合うような、静かで穏やかな時間。


「じゃあね、シオン。おやすみ。また明日」


 寝室の入り口で、ノルアが小さく手を振る。

 シオンも「ああ、おやすみ」と短く返し、それぞれのベッドに潜り込んだ。


 明かりが落とされ、寝室は柔らかな闇に包まれた。

 寝息が、あちこちから聞こえてくる。

 ベッドに横になったシオンは、毛布を胸元まで引き寄せ、天井を見上げる。

 古い木材の染み。何度も見慣れたその模様が、今日はやけにくっきりと目に入った。

 

 ――今日も、楽しかったな。


 やがて、意識はゆっくりと沈んでいく。


 そのころ、子供たちの寝息が届かない場所で。

 シスターは一人、窓辺に立っていた。

 月明かりに照らされ、修道服の影が床に長く伸びている。

 彼女は静かに視線を外へ向けた。

 

「……今夜も、異常はありません」

 

 誰にともなく、そう囁く。

 その声には、昼間のような柔らかさはなかった。

 ただ静かに、祈るように。

 孤児院の夜は、今日も穏やかに更けていく。


 鐘の音が鳴るより少し早く、シオンは目を覚ました。

 

「……朝か」

 

 小さく呟いて身を起こすと、子どもたちが毛布を蹴飛ばし、気持ちよさそうに寝息を立てている。


 着替えを済ませ、静かに寝室を出る。

 廊下はまだ薄暗く、窓から差し込む朝の光が床に細長い影を落としていた。


「シオン?」

 

 背後から声がした。

 振り返ると、ベルが立っていた。

 すでに身支度を整え、いつもの落ち着いた表情でこちらを見ている。

 

「どうした。珍しいな、こんな時間に」

 

「なんか目が覚めちゃってな」


「そういや、ベル。昨日のことなんだけどさ」


「なんだ?」


「なんであんな……森の向こうに結界なんか張ってあるんだろうな?」

 

 シオンの問いに、ベルは歩みを止め、窓の外をじっと見つめる。

 

「……僕たちを、外に出さないため。あるいは、外にあるおぞましい何かをここに入れないためだろうね」


 ベルの声は、朝の空気に溶けてしまいそうなほど静かだった。


「お前も、この模様のことは知っているだろう?」

 

ベルが袖を少しだけ捲り上げると、そこには肌に直接彫り込まれたような、奇妙な幾何学模様が浮かんでいた。

 それは刺青とも、痣とも違う。

 皮膚の内側から滲み出たような、不自然に整った線。

 シオンは自分の腕にも、無意識に視線を落とした。


「知ってるけど……それがどうしたんだ?」

 

 シオンがそう返すと、ベルは一瞬だけ言葉を探すように視線を伏せた。

 

「いや。大したことじゃない。ただ……」

 

 ベルは袖を戻しながら、低く続ける。


「この印、孤児院の子供には全員ある。物心ついたときには、もう最初からね」

 

「そうだな。俺も、ノルアも、ルルも」

 

「……でもさ」

 

 ベルは廊下の奥、食堂の方をちらりと見る。


「シスターにはない」


「いや、でも。大人になったら、消えるんだろ?」

 

 ベルの足が、わずかに止まる。

 

「……そう聞かされてはいる」


 ベルの含みのある言い方を受け、シオンは胸に湧いた疑問をそのまま言葉に乗せて継いだ。

 

「そういえばさ。この前の夜なんだけど……」


 ベルの視線が、鋭くシオンを射抜いた。

 

「シスターがさ……誰かと話してるの、聞いたんだ」

 

 その言葉に、ベルの足が完全に止まった。

 

「聞いた?」

 

「ああ。窓の近くでさ。シスターの声、いつもより低くて……相手の声はよく聞こえなかったんだけど。たまたま喉が渇いて、水を飲みに行ったらさ」

 

 廊下の静けさが、少しだけ重くなる。

 

「……何を話していた?」

 

 ベルの声は、さっきよりも低かった。

 

「『異常はありません』って」

 

 シオンは、記憶をなぞるように続ける。

 

「それから……『まだ大丈夫』とか、『今夜も』とか。そんな感じだったと思う」

 

 ベルは、無言で考え込む。

 窓の外、結界の向こうに目をやったまま。

 

「……誰かと、定期的に報告しているんだろうね」

 

「やっぱそう思う?」

 

「僕たちは、様子を見られている側なんだろう」

 

「見張りってこと?」

 

「監視、管理、保護。呼び方はいくらでもある」

 

 シオンは一瞬だけ黙る。

 そして、ぽつりと。


「お前の考えすぎだろ、ベル。難しいことはよくわかんないけどさ」


 軽く笑って、いつもの調子に戻す。

 

「シスターは優しいし、みんな幸せなんだ。それでいいじゃん」


「……だと、いいんだけどね」

 

 それから、ぽつりと付け加える。

 

「僕もさ。ここにいるみんなが、幸せならそれでいい」

 

 そのとき、廊下の奥から足音が聞こえた。

 

「おはようございます。二人とも、早いですね」

 

 シスターだった。


「おはよう、シスター」


「ええ、おはようございます。鐘が鳴る前に起きているなんて、感心ですね」


 二人のそばまで歩み寄ってきた彼女は、眩しそうに窓の外を眺めた。

 

「今日はいい天気になりそうですね」

 

 シスターの言葉に、シオンは小さく頷いた。

 

「ニコが喜びそうだな。昨日、晴れたら遊ぶって約束したから」


「あの子ったら、昨日も寝る直前までそのお話をしていましたよ。よほど楽しみなのでしょうね」

 

 そう言って、シスターは廊下の先、まだ眠る子供たちのいる寝室の方へ目を向けた。

 その視線は穏やかで、優しかった。

 

「朝の支度ができたら、食堂に来てください。今日はパンが焼きたてですよ」

 

「やった」

 

 シオンは思わず声を弾ませる。

 シスターは二人を残し、静かな足取りで階段を下りていった。

 その背中を見送りながら、シオンは伸びをする。

 

「よし。起こしてくるか」


 シオンは弾む足取りで寝室の扉を開け放った。

 

「おーい、みんな朝だぞ! 寝坊助のままだと、みんなのパンも全部食べちゃうからな!」


 あちこちのベッドから「シオンにいちゃんだ!」「おはよー!」と元気な声が弾け、小さな子供たちが一斉に布団を蹴飛ばして飛び出してきた。

 

「わっ、こら、一度に飛びつくなって!」

 

 足元にわらわらと群がる年少組の子たち。三歳や四歳の小さな手がシオンの服を掴み、我先にと抱っこをせがむ。シオンは笑いながら、一人ひとりの体をひょいと持ち上げてはベッドから降ろしてやった。

 

「シオン兄ちゃん、みてみて! 上手にボタンできた!」

 

「お、すごいじゃん。偉いぞ」

 

「私は髪の毛結んでほしいの!」

 

「それはルルかノルアに頼んでくれ。俺がやると爆発しちゃうからな」


「シオン兄ちゃん、パン! 焼きたてだって!」

 

 ニコがシオンの腕を引っ張って、キラキラした瞳で見上げてくる。

 

「ああ、わかってるって。さあ、みんなで行くぞ。一番乗りのやつには、一番大きいパンを譲ってやる!」


「やったぁぁーー!!」


 一斉に上がる歓声と、廊下を駆けていく小さな足音。

 

「ほらほら、顔を洗った人から食堂に行くわよ!」

 

 横から凛とした声を飛ばしたのは、ノルアだった。


「ノルア姉ちゃん、おはよー!」

 

「はい、おはよう。ほら、列になって!」


「はーい!」という元気な返事の合唱とともに、子供たちが一斉に階段を駆け下りていく。

 その後ろ姿を追いかけるようにして、シオンたちも一階の食堂へと向かった。

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