第6話 交渉という幻想(エルネスト)
――交渉は血を流さない。
代わりに、流す血の順番を決める。――
⸻
教国の使者は、静かな場所を選んだ。
森の端。
道が二つに割れる少し手前。
焚き火はない。周囲の兵も距離を取っている。
「交渉は、あなた方が教国へ誘導している避難民についてです」
使者は、最初にそう言った。
こちらの警戒を、先に片づけるように。
「教国は、人命を軽んじていません」
声は低く、整っている。
慰める声じゃない。手順を通す声だ。
「現在、避難民は教国の境へ向かって流れています。
それ自体を、止める意思はありません」
止めない。
その言葉に、胸の奥がわずかに緩む。
だが――続きがある。
「ただし、数です」
使者は地図を広げない。
数字も出さない。
代わりに、現実だけを置く。
「短期間に大量の避難民が流れ込めば、
受け入れの準備が整いません」
「住居、医療、配給、治安――
いずれも“間に合わない”」
間に合わない。
その言葉のあとに、何も続かない。
祈りも、約束も、次の手も――そこには置かれていない。
「教国が崩れれば、
救える命も救えなくなる」
否定しようとして、言葉が見つからない。
理屈として、正しい。
使者は一拍置いて、続けた。
「そこで、提案があります」
ここからが本題だ。
「教国は食糧を出します。
薬も、布も、必要量を支援します。」
一瞬、希望が形を持つ。
「代わりに――」
その形が、次の言葉で削られる。
「あなた方で配給の管理を担っていただきたい」
管理。
その言葉が、耳に残る。
「避難民を、教国側の受け入れ態勢が整うまで、
国境付近で待って下さい。」
王国北方で待つ。
その間に何が起きるかは、言わない。
だが、俺は知っている。
寒さ。
病。
飢え。
「それは……」
言いかけて、止める。
使者は、俺の言葉を待たない。
「強制ではありません」
声は穏やかだ。
「ただ、現在王国軍が追撃を緩めているのは、
教国の使者がいるため――という点は、理解して下さい」
脅しでも条件でもない。
ただ、“そういう状態”だと言っているだけだ。
使者は、俺の顔を見た。
初めて、目がこちらを定める。
「エルネスト・ヴァルド」
名を呼ばれる。
「あなたは、人命を優先する」
断定。
褒めでも非難でもない。分類だ。
「……そうありたいとは、思っています」
「あなたは戦場で前に立ち、
避難民を直接見てきた」
「彼らが、何を信じて動いているかを知っている」
胸の奥で、何かが重くなる。
「あなたの言葉なら、彼らは待つ」
信頼みたいな形をしている。
でも、その中身は別だ。
――待たせるための楔だ。
「交渉は、血を流しません」
使者は最後に、そう言った。
「少なくとも、今日ここでは」
⸻
その夜、焚き火の前で一人になった。
剣は抜いていない。
抜く相手が、いない。
今日の話に、悪意はなかった。
教国は、人を助けようとしている。
ただ――
助け方を選んでいる。
数を。
順番を。
場所を。
選ばれなかった者がどうなるかは、考えたくもなかった。
俺は焚き火を見つめる。
前に立つ理由が、また一つ増えた。
剣を抜く理由じゃない。
判断を引き受ける理由だ。
直接、人を殺さない。
代わりに、殺される順番を静かに決める。
交渉という言葉には、
どこか「血が流れない」という手触りがあった。
だが今は分かる。
それは、ただ言葉が与える安心にすぎなかった。
ぼんやりと信じていたものが、
幻想だったことに――
もう、気づいてしまった。




