第5話 血路を開いた後(エルネスト)
――橋を渡ると決めた時点で、
もう戻れない予感があった。――
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夜明け前。
橋を渡り切ったあと、俺たちは森に入り、短い休止を取っていた。
誰も「助かった」とは言わなかった。
ここが安全じゃないことを、全員が分かっている。
焚き火は小さい。
煙を立てないため、枝を選び、火を絞っている。
その手際の良さが、どれだけ追われてきたかを物語っていた。
子どもを抱えた母親が振り返り、こちらを見た。
目の下の影が濃い。眠れていない顔だ。
子の口元には布が当てられている。
泣かせない工夫じゃない。見つからないための工夫だ。
慣れた手つきが、胸に刺さる。
「……ありがとう」
礼は言える。
けれど次の言葉が、出てこない。
母親は抱え直しもしない。
子どもの重みを腕で受けたまま、こちらを見ていた。
「でも、あなたは――大丈夫なの?」
俺は頷く。
頷きの速さだけで、話を終わらせるつもりだった。
「大丈夫だよ。心配しなくていい」
それ以上は言わない。
説明は不安を増やす。
ここで増えた不安は、足を止める。
母親は唇を噛み、ようやく視線を外した。
抱えた子の背を、指が何度も撫でる。
落ち着かせるためじゃない。自分の震えを隠すためだ。
「王国の徴発が、年々重くなって……」
言葉は、そこで一度細る。
「冬を越せない村が増えたって……もう、ここでは――」
俺は相槌を打たない。
打てば、続きを促すことになる。
母親は息を吸って、言いかけた。
「教国なら……」
そして口を閉じた。
希望の形を、言葉にしなかった。
言葉にした瞬間、壊れると知っている目だった。
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簡易幕舎の中は、静かだった。
地図は広げられている。
だが指は置かれていない。
すでに大枠は共有されている空気だ。
淡々と、事実だけが置かれる。
「王国軍が深追いしてこない」
別の声が続けた。
「追撃の形は作っているが、距離を保っている」
レオナが、地図から目を離さずに言う。
「北方で起きたことを、教国の白印庁に残したくないんだろう。
ここは教国に近い。追撃も、殺すより“道を塞ぐ”動きが目立つ」
誰も否定しない。
否定できないからだ。
そのとき、幕舎の外で足音が止まった。
哨戒の声が、布越しに落ちてくる。
声は小さい。だが、芯がある。
「接近一名。白布掲げ。速度一定」
「随員なし。武具なし。両手は空」
「……使者を名乗っています」
幕舎の空気が、一段だけ変わった。
驚きが走る。だが声にはならない。
驚いたと見せた瞬間、主導権が相手に移る。
ここにいる全員が、それを知っている。
誰かが息を整える音だけがした。
誰かが、無意識に椅子の脚を鳴らしそうになって止める。
「罠か?」
「単独だ。距離も近い」
レオナは顔を上げない。
「通せ」
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入ってきたのは、教国の使者だった。
剣も弓も持っていない。
腰にも、袖にも、刃物の影がない。
完全な非武装。
敵意を見せないための装いだ。
「交渉の場を持ちたい。」
誰と、とは言わない。
代わりに、言い切る。
「これまでの王国正規軍との衝突で常に前に立っていたものがいると聞きました。
その方を――エルネスト・ヴァルドを、連絡の窓口としてお願いしたい」
相談じゃない。
要求だ。
俺は、何も言わない。
否定できない。
肯定する必要もない。
レオナが、こちらを見る。
短い視線。
評価でも、命令でもない。
「……どうする」
選択肢を渡す言い方だ。
だが、選択肢は残っていない。
俺は息を吐く。
名は知られていない。
だが、役は見られている。
前に出続けた結果が、
今、こうして形になった。
「……行きます」
声は静かだった。
それでも分かった。
ここから先、俺はもう「前に出る兵」ではいられない。
前に出続けた者として、
見られる場所に立つことになる。
焚き火が、ぱちりと鳴った。
夜はまだ終わっていない。
だが、戻れない予感だけは――
はっきりと形になっていた。




