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第29話 制度側の善意(エルネスト)

――善意は、断りにくい形で来る。

断れなくなった時、物事があちらの都合で通り進んでいく。――



声をかけられたのは、夕方だった。


訓練区画の外れ。

資材置き場と通路の間、風が抜ける場所だ。

乾いた布と油の匂いが、土の匂いに混じって流れる。


北方軍の外套は着ていない。

代わりに簡素な上着を羽織っている。

学院の訓練服に似ているが、学生のそれとは微妙に違う。

飾りのない留め具。

手入れは行き届いているのに、磨きすぎてはいない靴。


声は柔らかい。

目線は合うのに、圧がない。

こちらの間合いだけは、崩してこない。


「エルネストだったよね」


呼び止める声に、ためらいはない。


「少し、いいかな」


断る理由はない。

エルネストは頷いた。


「ロウェン・ベルクレイだ」


名乗り方は簡潔だった。

学院生の言い方ではない。

若い王国軍士官の略章が、留め具の脇に見えた。

黒に近い髪は短く整えられ、前髪が少し跳ねている。口元だけ固い。


ロウェンは隣に立つ。

隣と言っても、半歩ぶん外だ。

前線の話を振らない。

戦果も武勇も聞かない。


代わりに、乾いた調子で言う。


「ここ、勘違いされやすいんだ」


エルネストは返さず、続きを待つ。


「学校じゃない。訓練はあるけど、教育じゃない」


一拍。


「――直す場所だ。正しくするために」


言い方は穏やかだ。

だが言葉は、机の上の欄みたいに硬い。


「剣も、魔術も、隊の動かし方も。

 全部、正解が決まってる」


ロウェンは続けた。


「正解に近いか、遠いか。

 それを揃える場所だ」


少し肩をすくめる。


「……善意でね」


その言い方が、いちばん断りにくい。

エルネストはわずかに視線を動かした。


「善意?」


ロウェンは頷く。


「前線で死なせないための善意だ。

 属人的な判断を減らす。

 運に左右されない型に均す」


少し間を置いてから、続ける。


「理屈としては、正しい」


――理屈としては。

その一言だけが、喉の奥に残る。


「君たちみたいな前線帰りは、特にそう扱われる。

 危ないから。

 前に出る癖があるから」


一度、言葉を選ぶ。


「正しく直してから戻したい」


責めでも命令でもない。

制度側の、誠実な整理だった。


だからこそ、エルネストは言う。


「……正しくされると、前線で死ぬこともある」


ロウェンは驚かない。

だが、すぐには返さなかった。


「どういう意味?」


短く言えば乱暴になる。

長く言えば、言い訳になる。

エルネストは言葉を削って出す。


「正しい動きは、間に合わないことがある。

 型を揃える前に、誰かが立たないと隊列に穴が開く時がある」


少し間を置く。


「その“誰か”を、ここでは減らそうとしている」


ロウェンは眉をひそめた。

反論ではない。理解しようとしている顔だ。


「でも、それは危険だ。

 前に出る人間が、判断まで背負うことになる。

 そこが倒れたら、全部崩れる」


視線を落とし、続ける。


「だから、均す」


正しい。全部、正しい。


エルネストは頷いた。


「分かってる。否定はしない。

 だから、厄介なんだ」


ロウェンは少し笑った。

困った時に逃げない笑い方だ。


「……君、変わってるな」


「よく言われる」


「いや、悪い意味じゃない」


ロウェンは視線を訓練区画の奥へ向けた。

剣の音が遠くで鳴り、短い号が飛ぶ。

誰かが「戻れ」と言われ、足の位置を直されている。


「ここは、生き残った人間を“同じ型に揃える”場所だ。

 でも、同じ型に揃えた人間が、次の前線で生き残るかは別だ」


その言葉を、エルネストは噛む。

否定も肯定もできない。


ロウェンは淡々と続けた。


「だから摩擦は起きる。

 揃えられた人間と、揃えきれない人間の間で」


一拍。


「悪意じゃない。

 全部、善意だ」


風が通り抜ける。

上着の端が鳴り、留め具が小さく揺れた。


ロウェンは、エルネストを見た。


「君は、前に出る側だ。

 だから、たぶんここでは浮く」


断定ではない。観測だ。


「それでも、ここを通らないと力は得られない。

 従うしかない時期もある」


エルネストは、静かに息を吐いた。


「……分かってる」


ロウェンは、わずかに安堵した顔をした。


「なら、いい」


一拍置いてから、言う。


「忠告じゃない。予告だ。

 ここで起きることを、個人の善悪で受け取らないでくれ」


ロウェンは、それ以上言わなかった。


戻る背中は軽い。

決める側に近い場所にいる者の軽さだ。

まだ、背負わされていない。


エルネストはその背中を見送りながら思う。


ここは、学校じゃない。

揃えられる場所だ。


揃えば守られる。

同時に、前線で生き残ってきた癖は削られる。


分かっていても、通らなければ次がない。


だから、従う。


今は。

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