第3話 血の橋(エルネスト)
橋の板が足の下で細く鳴る。湿って滑る。
霧は低く、夜が抜けきらない明るさが、出口の輪郭だけを滲ませていた。
振り返らない。
振り返れば列が見える。列が見えた瞬間、足が止まる。
足が止まれば、橋の上で全員が詰まる。
前だけを見る。
出口に盾を前に出した歩兵がいる。
横に広がる隊形じゃない。橋の終わりに貼りついた“栓”だ。
ここで止めて、橋の上に溜めて、その上から矢で削る。
やり方が露骨で、だから厄介だ。
上から矢が落ちてきた。
飛んでくる音じゃない。降ってくる音だ。
板を叩く乾いた連打が、腹の底に響く。
短い詠唱。
矢避けの感触が、皮膚の外側に薄く貼りつく――はずだった。
だが、膜の気配が来ない。
盾が受ける音が混ざり、何本かが板を跳ねて川へ消える。
それでも矢は止まらない。橋そのものが的だ。
止まれば、同じ場所に矢が重なる。
止まらない。
俺は出口の盾歩兵の間合いに入る。
視界の半分が盾で塞がれ、木と鉄の匂いが近い。
相手は前に出ない。押し返す準備だけをしている。
斬らない。
盾の縁を、横から叩く。
刃が木に噛み、盾が跳ねる。
男の重心がずれ、半歩下がる。
それでいい。塞ぐ形の“一枚”がずれる。
二人目が盾を寄せて押してくる。
盾と盾がぶつかる音が、橋に反響した。
橋が揺れた。
背後の足音と荷の重みが板に伝わる。
足元が滑る。板の隙間に靴底が引っかかる。
ここで転べば、後ろが詰まり、矢が落ちる。
俺は正面で受けない。
半歩、斜めにずらす。
盾が重なる角度を外し、縁を横から押せる位置を取る。
盾の隙間から短剣が伸びる。距離が近い。息がかかる。
刃を合わせない。
柄で手首を打つ。骨に当たる鈍い音。短剣が引っ込む。
引っ込んだ瞬間、膝を入れる。
革鎧の端が擦れ、脚が硬いものに当たる。
相手が呻き、盾が少し下がる。
盾が下がると、隣との重なりが外れる。
盾歩兵の目の前にいる敵は、俺一人だ。
けれど背後では板が鳴り、霧が揺れ、矢が降っている。
呼吸は揃えられない。
揃わない押し返しは、ただの押し合いになる。
三人目が盾を寄せてくる前に、剣先を滑り込ませる。
狙いは喉じゃない。盾を構えたまま守れない位置――肩口の留め具。
深く突かない。
盾の縁の下へ剣先を通し、留め具に刃を引っかける。
手首を返して、横に引く。
金具が鳴り、鎖帷子が引き攣れる。
男の肩が引かれ、重心が後ろへ逃げる。
体勢を保とうとして盾が下がった。
その瞬間、隣との距離が崩れる。
盾と盾の重なりが外れ、出口に貼りついていた形が一拍だけ壊れた。
――今だ。
腰の煙幕袋を裂き、盾の手前へ叩きつける。
白い粒が弾け、霧に混ざる。厚くはならない。無いよりましの白だ。
だが霧がある。
霧の上に薄い白を重ねると、境目が汚れる。
見えなくはならない。
だが“確信”が持てなくなる。
矢は降る。降り続ける。
それでも狙った矢が減る。
当たり方が散り、板に刺さる音が増えた。
「前へ! 今だ!」
声を後ろへ投げる。
振り返らない。振り返れば足が止まる。
止まれば出口はまた栓になる。
橋が大きく揺れた。
足音が増えた振動だ。
荷車の車輪がどこかで一度跳ね、軸が鳴く。
避難民の息を呑む気配が、霧の向こうで固まっている。
盾歩兵が慌てて形を作り直そうとする。
盾を重ね、押し返しの角度を揃える動き。
それが完成すれば、俺たちは橋に貼りついたまま削られる。
――させない。
俺は正面に張りつかない。
半歩ずらし、盾の縁へ回り込む。
剣は振り回さない。柄で叩く。刃で押す。
重ねる前に、縁を跳ね上げる。
矢がまた落ちてくる。
煙の上を抜け、板に刺さる。
狙いは散っている。だが数は減らない。
詠唱――と思った瞬間、気づく。
呼吸が短い。押し合いの重さで息が切れている。
それでも手順だけはなぞる。
指を組む。言葉を短く切る。
息を吐き、次に吸う。
だが――何も起きない。
空気が張られない。膜の感触が来ない。
理解が一瞬遅れる。
発動していない。
次の矢が、落ちてきた。
上からだ。
板に当たる音じゃない。
右肩に鈍い衝撃。
矢尻が革の上を滑り、熱い線だけを残した。
血が一滴、足元の板に落ちた。
湿った木がすぐ吸い、赤い点だけが残る。
息が抜ける。視界が細くなる。
矢避けは――発動していない。
倒れたら終わる。
咄嗟に盾へ体を預ける。敵の盾だ。
押し合いの板に体重を掛け、立て直す。
盾歩兵が押す。
“栓”を作る動きが戻る。
作らせない。
近すぎて剣は振れない。
柄で殴る。縁を押す。
重ねさせない。揃えさせない。
揃わない押し返しは、形にならない。
背中に重みが来る。
後ろが来た。列が出口まで押し上がっている。
背中が押される。止まれない。
次の瞬間、押しが増す。
荷車の重みと兵の肩が、背中からまっすぐ伝わってくる。
俺はその勢いに合わせ、肩ごと前へ預けた。
盾に胸を当て、体全体で押す。
盾がきしむ。
相手の踵が濡れた板の上で滑る。
踏み直そうとする。
だが背中から押されている。
踏み直すための半歩が作れない。
盾が横に逃げる。
横に逃げた盾は、もう重ならない。
その隙間へ肩を差し込み、縁をこじるように押し上げた。
木が鳴り、金具が噛む。
出口が、指一本ぶん開く。
すぐに、肩幅ぶん開く。
「来い!」
声を投げる。背後の足音が一気に近づき、押しが増す。
開いた穴に、味方の肩と盾が流れ込む。
盾歩兵は押し返せない。押し返すには足場が要る。
だが板は濡れて滑る。
踏ん張った瞬間、踵が滑り、盾歩兵の膝が落ちた。
膝が落ちた分だけ盾が下がる。
下がった盾は、もう“栓”じゃない。
俺は半身で出口に貼りつき、橋の外へ形を作らせない。
倒すより先に、追い出す。
矢は降り続ける。
煙は薄い。霧は残っている。
それでも――出口は開いた。
列が橋の外へ流れ出る。
俺は外へは出きらない。
片足を土に掛け、もう片足は板に残す。
完全に抜ければ、また塞がれる。
ここは通路だ。門じゃない。
開き続けていなければ意味がない。
盾歩兵が立て直そうとする。
倒れた男の脇を埋め、盾を起こす。
だが一拍遅い。
俺は盾の縁を踏む。位置を奪うためだ。
踏まれた盾は上げられない。
柄で殴る。刃で押す。
斬らない。
倒すより、前へ出さない。
出口の外で、味方の足音が増える。
橋を渡り切った音だ。
荷車の車輪が板から地面へ落ちる音がする。
その一つ一つが、橋の重みを減らしていく。
矢はまだ落ちる。
だが角度が変わる。
橋の上を狙う矢から、散った矢へ変わる。
盾歩兵の一人が足場を探して横にずれる。
板の端。
白い霧の下は黒い。
躊躇した瞬間、押しが止まる。
止まった盾は形を作れない。
俺は肩で押す。
押された盾が橋の外へ逃げる。
逃げた盾は戻れない。
出口に、もう“栓”はない。
ただ、通り抜ける流れだけが残る。
最後の荷車が渡り切る。
列の最後尾が橋を離れる気配がする。
俺は板へ退き、そのまま霧の方へ抜ける。
戻ることで終わらせる。
これ以上ここで踏ん張る理由はない。
矢が一本、板に刺さる。乾いた音だ。
夜は終わりきっていない。
朝もまだ来ていない。
それでも――渡り切った。




