第2話 前に出る役(エルネスト)
――前に出る役は、
いつの間にか決まっていた。――
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夜明け前の川は、姿より先に音が来る。
霧が低く垂れ、湿った空気が肺に残った。
霧の向こうに、橋の輪郭だけが滲んでいる。
太い梁を二本渡し、その上に板を並べただけの木橋。
欄干は片側が欠け、代わりに縄が張られていた。
人が二人並ぶのは難しい。荷車なら、ぎりぎりだ。
中央だけ、白い石が敷かれている。
補強だと分かる。そこだけ足裏の感触が変わる。
落ちたら川が拾う。
拾ったあと、返してはくれない。
剣の柄が、まだ手に馴染まない。
それでも俺は、列の先頭に立っている。
俺たちは正規の軍じゃない。
補給は切れ、矢筒は軽い。
刃の欠けた剣、糸のほつれた弓。
革鎧は雨を吸って、重い。
回り道は塞がれている。時間もない。
ここで止まれば追いつかれる。
反転した瞬間、先頭と後続は噛み合わない。
荷車が一度でも横を向けば、道が閉じる。
選択肢は二つあるようで、
成立するのは前進だけだ。
背後で荷車が軋んだ。
避難民だ。姿は見えない。
だが気配だけで十分だった。
兵は二十四名。
術者は二人。
荷車は四台――避難民は百人を超える。
荷車の上には、歩けない者が乗せられている。
子どもと、目を閉じた大人。
揺れに合わせて、体がわずかに傾く。
咳が一つ。布で押さえた音。
咳き込まないように、必死に堪えている。
泣き声はない。
泣けば目立つ。だから泣かせない。
泣けないまま運ばれる命が、列の中にある。
俺たちがここを抜けられなければ、
背後の荷車と避難民は、この川を越えられない。
地図を畳む音がした。
乾いていて、無駄がない。
夜が明ければ隠れ場所が消える。
追いつかれれば、この入口で列が詰まる。
詰まった列は、前と後ろから削られる。
レオナは俺を見なかった。
霧の向こうに滲む橋だけを見ている。
橋の向こうは、すぐ地面が持ち上がっている。
渡り切った瞬間から短い登りだ。
登り切ったところで道が二つに割れる。
右は森に呑まれる細道。
左は身を隠すもののない斜面。
どちらを選んでも、
出口で足が止まれば矢の的になる。
俺は奥歯を噛む。
声が裏返らないようにする癖だ。
「……本当に、やるんですか」
視線はレオナに向けない。
橋と、その先の地形だけを見る。
橋は狭い。
荷車を守るために盾を固めれば、荷車が止まる。
止まれば追撃が追いつく。
だが動けば、霧の向こうで待つ正規軍に撃たれる。
反対したいわけじゃない。
ただ――勝ち目が薄いのに踏み切る、その事実を飲み込む時間が欲しかった。
レオナは頷かない。
地図をもう一度きれいに畳み、角を揃えて革袋にしまう。
「夜が明ける」
それだけだった。
敵の動き。風向き。時間。
事実だけが並ぶ。
やれとも戻れとも言わない。
代わりに、逃げ道がないことだけを示す。
その沈黙が、命令より重い。
霧が少し流れた。
川面が見える。黒い。
流れが速く、反射が歪む。
見ていると足元が引かれる気がする。
視線が集まる。
盾持ち、術者、後列の兵。
誰も何も言わない。
賢いからじゃない。
言った瞬間、自分が前に出ることになる。
誰もがそれを知っている。
俺は足元を見る。
列の間隔。詰まれば終わる。
「詰めるな」
――俺の声は、命令というより癖だった。
それでも列が、わずかに開く。
荷車の縄がきしんだ。
前の男が肩をずらし、通路を作る。
避難民が“こちらを見ないまま”従うのが、いちばん怖い。
期待も責任も、前に押し付けられる。
列の形が、はっきり見える。
先頭に盾持ちと前衛が薄く張り、その後ろに術者が散る。
荷車は中央を通り、脇を避難民が細く沿う。
最後尾を数人の兵が固め、追撃に備える。
どこか一箇所が止まれば、全部が詰まる並びだ。
レオナが一瞬だけ列を見る。数を数える目だ。
そして息を吸い、声量ではなく手順で押し切る声を置いた。
「荷車は二台ずつ。間を空けろ。
橋の上で止まるな――落ちた奴は拾うな。
拾いに戻ったら、全滅だ」
誰も言い返せない言い方だった。
冷たい規則じゃない。生き残る順番の切り分けだ。
術者の一人が喉を鳴らす。
咳払いじゃない。詠唱の前の音。
俺は煙幕の袋を確かめる。
手順は短い。失敗しても死ににくい。
矢避けの詠唱を、頭の中でなぞる。
一撃だけ。完璧じゃない。
霧の中で、乾いた音がした。
一拍遅れて、踏み固めた地面に何かが刺さる。
矢だ。一本だけ。
撃ち合いじゃない。止めるための一本。
撃った位置は見えない。
だが“見えない距離から届く”という事実だけが、喉を締める。
避難民の足が止まりかける。
荷車の車輪が、嫌な音で鳴る。
「前だ」
低い声が落ちた。
誰の声かは分からない。
霧と川音が、言葉の輪郭を削る。
次の瞬間、もう一本。
今度は矢が、先頭で荷車を押す男の足元に刺さった。
男が反射で止まる。
荷車がつんのめり、車輪が呻く。
その一瞬で列が詰まりかける。
荷車の上の影が揺れた。
毛布の端から、子どもの指が一瞬だけ覗く。
すぐに誰かの手が覆い、声になる前に押さえ込む。
レオナが短く手を上げた。合図。
盾持ちが二人、前へ出る。
木と鉄の寄せ集めの盾でも、正面からの矢なら受けられる。
矢避けの準備が、声にならずに共有される。
術者は頷く。
だが盾は“守る”ためのものだ。
“動かす”ためのものじゃない。
橋は狭い。
盾で固めれば、避難民が通れなくなる。
止まれば、全部が詰まる。
結局――前に出る役は、別にいる。
俺は列の先頭に出た。
「俺が行く」
背後の気配が、少し遠ざかった。
守られる側の温度が薄れていく。
前に立つということは、
守られる側に戻れなくなるということだ。
川の音が、少し大きくなった気がした。
俺は橋へ踏み出す。
板が鳴る。湿っている。滑る。
足裏が“ここで転ぶな”と言ってくる。
霧の粒が頬に当たる。冷たい。
目の端が白く滲み、距離感がずれる。
一歩。二歩。
橋の中央に近づくにつれ、川音が腹に響く。
霧の向こう、橋の出口に影が動いた。
人か、木か、霧か。まだ判別できない。
だが近づくほど、輪郭が少しずつ増えていく。
それでも、矢だけは嘘をつかない。
三本目が来る。
板に刺さる音じゃない。
空を裂く音だ。
耳の横を何かが抜ける。風圧。
肩が遅れて熱くなる。
布が裂けた。皮膚までは届いていない。
俺は息を吐く。短く。
橋の板を踏み鳴らした。
前に出る役は、
いつの間にか決まっていた。
立てる人間が、
俺しかいなかったからだ。




