第16話 名を待つ場所(エルネスト)
――答えがないほど、
俺の前に人が並ぶ。――
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境界の内側は、夜になると匂いが変わった。
焚き火の煙。煮た麦の湯気。薬草の渋い匂い。
昼は血と汗の匂いだったのに、夜は「暮らし」の匂いがする。
ありがたいはずなのに、胸の奥が落ち着かない。
受け入れ所の灯りは揃えられていた。
机が三つ。札を持った腕章の係が二人。
列が一本。列の端に水桶。
「次、二十八番」
番号を呼ぶ声は静かだ。
静かなのに、止めようのない強さがある。
呼ばれた。
――それでも、誰も出てこない。
腕章の係が同じ調子で、もう一度言う。
「二十八番。……いませんか」
返事がない。
列の中ほどで札を握った男が、こちらを見たまま立ち尽くしている。
男は列から抜け、俺の方へ歩いてきた。
鍬を抱えている。畑へ回された組だ。
「……あんた、エルネストだろ」
「そうだ」
男は俺の腰の剣を一度だけ見て、すぐ目を戻した。
「血の橋で、前にいたのを見た」
胸の奥が少し硬くなる。
見えていて当たり前だ。見られていて当たり前だ。
男は続けた。
「さっき係に言われた。女と子どもは宿舎。男は畑だって」
「……聞いた」
男は息を吐いた。
「それ、いつまでだ。今日だけか。明日もか。来月もか」
「分からない」
男の顔が固まる。
「分からないのに、帳面に書かれるのか」
「書かれる」
男は鍬の柄を握り直した。
「書かれたら、あとで『違う』って言っても聞き入れてもらえなかった」
返す言葉がない。
そこへ、別の人影が近づいた。
子どもを抱えた母親だ。森で俺に礼を言った女。
「すみません……エルネストさん」
「どうした」
母親は子どもの頬を撫でながら言った。
「さっき係に言われました。子どもは宿舎へ先に入れるって」
「……そうだな」
母親は俺を見た。
「私、どうしたらいいですか。子どもを置いていくのが、怖いです」
軽い言葉を返せば、母親はその言葉に縋る。
縋られた言葉は、列を止める。
俺は短く答えた。
「今夜は、子どもを温かい場所に入れた方がいい。それは正しい」
母親の目が揺れた。
「じゃあ私は」
「残るなら、まず食え。食って、寝て、明日また考えろ」
母親は何度もうなずいた。
それでも列には戻らず、俺の後ろに残った。
鍬の男も残る。
そこにまた一人、また一人と増えていく。
列が止まった理由が変わる。
「二十八番が出てこない」から、
「みんなが答えを聞きに来る」へ。
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腕章の係が困った顔で近づいてきた。帳面を抱えている。
「……連絡役の方。列が動きません。番号を呼んでも、前に出ない方がいます」
「理由は?」
係は言いにくそうに目を伏せた。
「……前に出ると、帳面に“決まったこと”を書かれるって。
畑に回すとか、宿舎へ分けるとか……そういうのが残るのが怖いそうです」
列の中から声が上がった。
「前に出たら、畑だって書かれる!」
「子どもは宿舎だって書かれる!」
別の声が重なる。
「一回書かれたら、あとで『違う』って言っても聞き入れてもらえない!」
係は言い返さない。
言い返せば揉める。揉めれば飯と薬が回らず、夜に倒れる者が出る。
俺は木箱に乗った。
大きく見せるためじゃない。声を届かせるためだ。
「今、止まるな」
それだけだと反発が来る。
だから、順番を置く。
「まず、配給を受け取れ。今ここで決まる話じゃない。今夜を越えるために食え」
列の中から、鍬の男が言った。
「受け取ったら、従ったことになるんじゃないのか」
俺は首を振る。
「食うのは、従うのと違う。倒れないために食う」
言葉を足さない。増やすと議論になる。
俺は係に向けて言った。
「番号を呼べ。ここで配れ」
俺のいる場所で配れば、列は動く。
皆は腕章の係じゃなく、俺の顔を見て前に出る。
係はうなずき、声を張り直した。
「二十八番。前へ」
鍬の男が前に出た。
袋を受け取る。手が震えている。
男は袋を抱えたまま俺を見た。
「……あんたは、明日もここにいるのか」
「いる」
「じゃあ、明日また聞く。いつまで畑か。子どもはいつ戻るか」
「分かる範囲で答える」
男はそれで引いた。
袋を抱えて焚き火の方へ歩いた。
それを見て、列が少しずつ進み始めた。
次の番号が前に出る。
列が「配るための列」に戻っていく。
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夜が深くなる。
焚き火のそばで、人が立ち止まる。
立ち止まった足が、次に向くのは火じゃない。
俺の名の方だ。
列じゃなく、俺を探して来る。
「畑はどこだ」
「宿舎はどこだ」
「武器は返るのか」
「明日も麦は出るのか」
答えられるものだけ答える。
答えられないものは、はっきり言う。
「それは、今は分からない」
その代わり、今夜の動きだけは決める。
「今夜は揉めるな」
「配給は受け取れ」
「子どもを寒い方へ戻す話は、今ここでするな」
母親が、子どもを抱えたまま聞いた。
「明日も……ここにいればいいですか」
俺は短く、順番だけを渡す。
「配るのは明日もここだ。子どもは宿舎だ。あったかい所に入れてやれ。
――お前も今夜は寝ろ。明日、また来い」
母親はうなずいた。
そのうなずきが周りへ伝わる。
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俺は焚き火を見ていた。
戦は終わった。
それでも眠れない。
俺の声がないと、列が進まないからだ。
名前を呼ばれる回数が増える。
「エルネスト」
「ちょっと、こっち」
「さっきの話、もう一回」
俺は立ち上がって、同じ順番で言う。
「今夜食え」
「今夜は揉めるな」
「明日、また聞け」
それを繰り返しながら、火の周りを回る。
夜の匂いは、暮らしの匂いだった。
暮らしの匂いは、人を止める。
止まった人は、頼れる場所を探す。
その先に、俺の名前が置かれていく。




