第10話 並び立つ夜(エルネスト)
幕舎の中は、まだ暗かった。
火は入れていない。外の風が布を押し、言葉はそこで折れていく。
聞かせたい相手にだけ届く場所だ。
卓の隅に、覆いの付いた小さな灯りが一つだけ置かれている。
卓の上のものを見るには十分な明るさだった。
俺は密使と向かい合い、レオナは一歩引いた位置に立っている。
話を聞く距離だが、割り込む気配はない。
「提案は受け入れる」
俺は先に言った。
「条件も、名目も理解した。――北方自治軍として動く」
密使は表情を変えずにうなずいた。
外套の内側から、畳まれた地図を取り出す。
音を立てないように卓へ置き、指先で端を押さえて広げた。
描かれているのは、北方の谷筋だ。
「ここだ」
指が示した名は、ハルミ谷。
谷底を通る街道。
深くはないが両側が斜面で、横へ逃げにくい。
追う側に都合がいい谷筋だ。
俺たちは北へ向かう。追撃は南から来る。
ハルミ谷は、その二つが同じ一本の道に乗る場所だった。
密使は、谷の途中を指でなぞる。爪が紙を軽く擦った。
「ここが東の浅瀬。川沿いに抜けられる」
言い終えると、指は反対側の線へ移る。
谷の縁を一度だけ確かめる仕草だ。
「こちらが西の岩道。細いが、歩兵は通れる」
二つの逃げ口。
さらに、谷の奥――山側を指で叩いた。
「北の獣道だ。
正規の道が塞がれると、兵は必ず“地図に載らない道”を探す。
だから、最後にここを見る」
地図を見下ろしながら、俺は口を開いた。
「狙いは理解した。正規軍を谷に入れたら、道から外へ逃がさない。
外へ漏れなければ、村へ逃げ込まれて荒らされることもない――そういうことだな」
密使は、肯定も否定もせず続ける。説明ではなく、手順の読み上げになる。
「動きは単純だ」
そう言って、谷の入口から奥へ、指が一本の線を引いた。
「反乱軍が先に谷へ入る。追われている形を作る」
芝居じゃない。
正規軍は実際にすぐ後ろまで来ている。
谷に入れば、横へ逃げられない。
密使の指は、谷の中央で止まった。そこで一度だけ、こちらを見上げる。
「正規軍が入り切ったところで、合図を出す」
「合図は?」
「角笛を一度」
短い言葉が、釘のように打ち込まれる。
密使は、東の浅瀬と西の岩道を交互に指した。どちらも同じ重さで触れる。
「合図が上がったら、こちらが東の浅瀬と西の岩道を同時に塞ぐ」
一拍置き、最後に“横”を示すように指を払う。
「北方軍が横を閉じる」
それから密使は、獣道の細い線の上へ棒切れを置いた。
紙の上に置かれた木片が、出口の代わりになったみたいに見えた。
「北の獣道は、お前たちが押さえる」
棒切れを指で押し、逃げ口を“潰す”動きにしてから、言葉を落とす。
「動くな。押し返されても下がるな」
俺は一つ、確認を入れた。声を整えたまま、余計な感情を混ぜない。
「どの位置で止める?」
密使は迷わない。
「谷の奥だ。浅い場所で止めるな」
指が奥へ寄り、そこで止まる。止める場所を、紙の上で固定する。
「押されて、下がって、奥で受け止めろ」
喉の奥で、息を飲む。
最初に刃を受ける位置だ。
俺は「分かった」とだけ返した。
それ以上言えば、誰かの手が止まる。
密使は棒切れを拾い、地図を畳み、立ち上がった。
「出口を一つでも残せば、終わらない」
言い切って、灯りの方を見ない。
「だから残さない」
短い言葉だった。
「詳細は夜明け前にもう一度確認する。――窓口は、引き続き君だ」
俺はうなずいた。
密使が出て行くと、幕舎の中は静かになった。
布の揺れが戻り、灯りの小ささが目立つ。
レオナが一歩、前に出る。
「要点は把握した」
声は低い。
「部隊への伝達は、私がやる。
お前は、前に立つ準備だけしていろ」
俺は短く息を吐く。
「頼む」
それだけで、十分だった。
夜は、まだ終わっていない。
だが――
並び立つ場所は、もう決まっていた。




