第一話:灰色の街と禁書
人々は、忘れるために生きていた。
ここ、灰礫の都アムネジアでは、過去を語ることは美徳であり、同時に重罪でもあった。
奇妙な矛盾だが、それがこの都の現実だった。
「昨日、何をなさいましたかな?」
「さあ? 覚えておりません。きっと、良き日だったのでしょう」
市場の片隅で交わされるそんな会話は、日常の風景だ。彼らは忘れることを強いられている。人々は昨日食べた食事も、去年愛した人の名も、おぼろげにしか覚えていない。いや、覚えていても、覚えていないふりをしなくてはならなかった。
世界は「大忘却」と呼ばれる災厄によって、その記憶の大部分を失っていた。
いつ、どのようにしてそれが起きたのか。それすらも、人々の記憶からは抜け落ちている。ただ、確かなのは、記憶を持つことは「力」を持つことであり、その力は「忘却の使徒」によって厳しく管理されているということだ。
アムネジアは、その名の通り「忘却」を体現したような街だった。
建物はすべて煤けた灰色。かつては鮮やかな色彩があったのかもしれないが、今ではすべてが風化し、色褪せている。街路を行く人々の顔もまた、表情という色を失っていた。
彼らが恐れるのは、統治者である「忘却の使徒」。そして、その実働部隊である「サイレンサー」だ。
銀色の滑らかな仮面で顔を覆ったサイレンサーたちは、街の至る所を巡回している。彼らは感情を持たず、ただ記憶の「澱み」を探している。誰かがふと過去の歌を口ずさめば、彼らは現れる。誰かが古い祭りの名を口にすれば、彼らは現れる。そして、その者の「過ぎた記憶」をその場で吸い上げ、対象者は抜け殻のようになってしまうのだ。
都の片隅、埃っぽい裏通り。迷路のように入り組んだ路地の奥、崩れかけた古い時計塔の地下に、マキナは住んでいた。
彼女は、この街では異端だった。
彼女は、覚えていた。
マキナは「影織り」だった。
モノが落とす影に触れ、その形を変え、時には影そのものを実体化させる。それは、使徒たちが最も忌み嫌う「禁忌の力」。光あるところに必ず生まれる闇を操るその力は、「大忘却」以前の旧世界の遺物だとされていた。
彼女の足元で、小さな影が揺らめいた。
それは一見すると、マキナ自身の影が伸び縮みしているようにしか見えない。だが、注意深く見れば、それが二つの緑色の光を宿した、黒猫のような輪郭を持っていることがわかる。
影獣の「クロ」。マキナが自身の影から生み出した、彼女だけの家族であり、相棒だった。
「クロ、静かに。……戻ったよ、テオ」
マキナは地下書庫へ続く重い鉄の扉を、軋ませないよう慎重に開いた。
中は、黴と古い紙の匂いで満ちていた。天井から吊るされたいくつものカンテラが、迷宮のような書架をぼんやりと照らしている。
ここは、養父であり師である老学者、テオの聖域。
そして、このアムネジアで唯一、「禁書」――「大忘却」以前の歴史書――が密かに集められている場所だった。
「おお、マキナか。早かったな」
書架の山に埋もれるようにして、テオが顔を上げた。羊皮紙のように乾いた肌。しかし、その瞳だけは、サイレンサーたちが血眼になって探す「記憶」の光に満ちていた。
「今日の収穫は?」
「パンと、干し肉が少し。それと、これ」
マキナは外套の内ポケットから、油紙に包まれた小さな冊子を差し出した。市場の老婦人が、サイレンサーの目を盗んでこっそり握らせてくれたものだ。
「……詩集だ。『涙の海と月の船』。なんと、これは『失われた吟遊詩人』の…!」
テオは震える手でそれを受け取ると、愛おしそうに埃を払った。
「こんなもののために、あの人が危険を冒すなんて。サイレンサーに見つかったら…」
マキナは眉をひそめた。
「だからこそだ、マキナ」テオは厳かな声で言った。「彼らは記憶を奪う。だが、奪われれば奪われるほど、人は記憶を渇望する。この詩集に書かれた言葉が、かつて人々の心をどれほど揺さぶったか。その『事実』こそが、我々が失ってはならないものなのだ」
テオは立ち上がると、書庫の最も奥、厳重に施錠された鉄の箱へと向かった。
「お前には、酷な役目を負わせている。わかっている」
「……いいよ、テオ。私は、テオが集めた物語が好きだから。それに、私は『影織り』だ。いざとなったら、クロが助けてくれる」
マキナが手を差し伸べると、影獣のクロが床からスルスルと壁を伝い、マキナの腕に絡みついた。影は実体を持ち、マキナは確かにその毛並みの感触を感じ取ることができる。
「そうだ。お前のその力…」
テオは何かを言いかけたが、やめた。
彼は鍵束から一番古い鍵を取り出し、鉄の箱を開けた。中から取り出されたのは、マキナが今まで見たこともないほど古く、分厚い本だった。
表紙は黒い革で装丁され、何の文字も書かれていない。ただ、中央に、複雑に絡み合った大樹の紋様が型押しされているだけだ。
それは、他の禁書とは明らかに違う空気を放っていた。まるで、それ自体が呼吸をしているかのように、マキナの持つカンテラの光を鈍く吸い込んでいる。
「マキナ。これを、お前に託す」
「テオ? これは…?」
マキナが本に触れようとした瞬間、彼女の指先が、影でもない「闇」に触れたような奇妙な感覚に襲われた。
クロが「ニャア」とも「キィ」ともつかない警戒の声を上げ、マキナの肩に後ずさった。
「恐れるな。それは『鍵』だ」
テオの声は、いつになく切迫していた。
「世界から奪われた記憶が、その始まりから終わりまで、すべて眠る場所…。『忘却の図書館』への、唯一の鍵だ」
「図書館…? あの、テオがいつも話していたおとぎ話の?」
「おとぎ話ではない!」
テオはマキナの肩を掴んだ。老学者のものとは思えない、強い力だった。
「大忘却は、自然災害などではない。何者かが、意図的にこの世界から『歴史』を奪ったのだ。そして、そのすべてを、あの図書館に封じ込めた。我々が何者で、どこから来て、どこへ行こうとしていたのか。その答えのすべてが、そこにある」
その時だった。
ゴオォォン……!
地下書庫全体が、低い地響きと共に揺れた。地上から響く、重く、冷たい鉄の音。
扉を叩く音ではない。
破城槌が、時計塔の入り口を打ち破る音だ。
「……来たか」
テオはマキナを突き放すように離した。その顔には絶望ではなく、むしろ「ついに来た」という覚悟が浮かんでいた。
「テオ!」
「早すぎた…。だが、もはや猶予はない」
マキナの足元で、クロが影から完全に実体化し、牙を剥いて唸っていた。
地上の扉が完全に破壊され、複数の重い足音が階段を駆け下りてくる。規則正しく、一切の感情を排した、鉄の足音。
「マキナ、行け!」
テオは壁に隠された古い地図を剥ぎ取り、マキナに無銘の本と共に押し付けた。
「この書庫の裏には、古い水路が通じている。そこから北へ向かえ」
「嫌だ! テオも一緒に!」
「わしは囮だ!」
テオは、書架から何冊もの禁書を掴むと、マキナが逃げるべき通路とは反対の方向へ走り出した。
「わしが時間を稼ぐ! お前という『希望』と、その『鍵』を逃がすためのな!」
バンッ!!
書庫の入り口の扉が、内側から吹き飛んだ。
飛び込んできたのは、銀色の甲冑に身を包んだ「忘却の使徒」の兵士たち――「サイレンサー」だった。その数は五人。彼らの顔は滑らかな仮面で覆われ、その手には、青白い光を放つ槍が握られていた。記憶を「狩る」ための魔導具だ。
「禁書所持の容疑で、老学者テオを拘束する!」
リーダー格のサイレンサーが、抑揚のない合成音声のような声で告げた。
「愚かな! 記憶は拘束できん!」
テオは叫び、集めた禁書を彼らに向かって投げつけた。
「歴史は、お前たちごときに消させはしない!」
サイレンサーたちは、紙の雪崩にも動じず、テオに殺到する。
マキナは動けなかった。恐怖と、養父を失う悲しみで、足が床に縫い付けられたようだった。
「マキナ! 何をしている!」
テオの叱咤が飛ぶ。
彼はサイレンサーの一人の槍を掴み、もみ合いになりながら、最後の力を振り絞って叫んだ。
「北だ! 『始まりの樹』が守る、忘却の図書館へ! 行けぇー!」
その瞬間、サイレンサーの槍がテオの胸を貫いた。
青白い光が走り、テオの体はけいれんした。彼の瞳から、急速に「記憶」の光が失われていく。彼が必死に守ってきた知識も、マキナと過ごした日々も、すべてが今、吸い上げられていく。
「テオオオオオオ!!」
マキナは叫び、本能的に「力」を使った。
彼女の影が、巨大な獣の顎のように膨れ上がり、残りのサイレンサーたちに襲いかかった。
「グッ!?」
「影織りだと!?」
サイレンサーたちが動揺する。影は実体を持って彼らの鎧を掴み、壁に叩きつけた。
だが、それはほんの一瞬の時間稼ぎにしかならない。
「クロ!」
マキナの叫びに、影獣のクロが呼応する。クロはマキナの服を鋭く引っ張り、裏口へと導いた。
涙があふれて視界が滲む。だが、立ち止まることは許されない。
テオが命をかけて託した、あの無銘の本。
マキナはそれを地図と共に固く胸に抱きしめ、テオの最期の言葉を胸に刻みつけ、裏口の冷たい闇へと身を躍らせた。
「追え! 禁忌の力だ! 絶対に逃がすな!」
背後でサイレンサーたちの怒声が響く。
マキナは振り返らなかった。
養父の温もりも、慣れ親しんだ書庫の匂いも、すべてが過去になっていく。
灰色の街に、冷たい夜風が吹き抜けていく。
失われた記憶への「鍵」を握りしめた一人の少女が、今、その運命の旅を始めた。




