未練のない人生
「私、妊娠したわ」
——カラーン
気付けば、手にしていた一口サイズのステーキを、フォークごと落としていた。何故なら、驚いて固まってしまったからだ。
いかんな祝福の言葉をかけねば。
「凄いじゃないか、幸運なことだ」
これがなんとか口に出来た精一杯。
自分の語彙力にこれ程やるせなさを感じたのは、後にも先にもこの瞬間だけだ。にしたって、なぜだ?避妊はきちんとしていたはずだ。
「それなのですけど……」
言いにくそうにしているが……?
え、ちょっと待った、嫌な予感がしている。心臓がドクンと跳ね上がる音が聞こえて。
「私は、最低な女です。ごめんなさい」
長い沈黙で満たされる夕食の時間。
茫然自失とはこのこと。……これはあれだ、不倫だ。そうだけど、頭では分かっているけど。ただ、心が拒んでいる。何かの間違いであってくれと、そう必死に訴えている。けど、いつだって現実は残酷なのだ。
「ナ、なんでだよ、約束した、だろ」
そうだ、約束したじゃないか、俺と幸せに暮らしていこうってさ。なあ、くそつまんない冗談なんだろ。
「もしかしてあれか?俺がこの前コスプレプレイをお願いした事で怒ってんだろ、でも、その時にちゃんと謝っただろう!!?」
「離婚させて下さい」
問答無用で、シャーロッテに、離婚届けを突きつけられた。その瞬間、俺は目の前が真っ暗になり、もうどうにでもなれ、そんな投げやりな気持ちになった。
吹き荒れる嵐の中、隙間風がビュービュー鳴り続ける十一月一日の夜更けのことだった。
☆☆☆☆☆
「ぅっぷ、ヴォェえぇ」
さっきから、ずっと吐き続けて腹はスッカラカンである。だというのに、吐き気は納まらない。あの、思い出すだけで死にたくなる日、全てが壊れた日。あの日からどれくらいたったのか、もう日付も分からない。
「く……っそがぁっ!」
ムカムカして、碌に考ることすら出来ない。
「寝よう」
ベッドへ這いずるように向かう。もう何日もベッドから排泄と飯以外で出ていない。ただ何もしたく無い、そんな気分で毎日ベッドの中で過ごしている。
「チクショおぉ……俺が何したってんだよぉぉあぁぁ」
何度目か分からない似たような愚痴を、性懲りも無く言う。言ってるうちに涙が止まらなくなることだって、何度目かわからないぐらい繰り返した。
——ピンポーン
——ピンポーン
うるさい、何もしたくない、ほっといてくれ。全然眠れてないからな!頭の中でそんな言葉がこだましている。
「ダン坊!居留守すんじゃないよ!!」
心の中で舌打ちしてうるせえ!とロザンナ婆さんへ当たり散らしたくなる。
ノロノロ、グデグデと、気だるさ全開で扉まで向かう。大方家賃を取り立てにきたのだろう。
「あー婆さん、悪い、今しんどいからまたにしてくれ」
ロザンナ婆さんは、俺の小さい頃から面倒を見てくれていたので俺と気安い間柄である。そして、近所の姉御肌な婆さんでもある。
俺の身体を上から下までゆっくり見ていくほどに婆さんの眉間の皺が増えていく。
今、クタクタのパジャマ、ギトギトの髪、無精髭というホームレススタイルだ。
おまけに、臭いのだろう。
あいにく、俺は鼻が慣れてしまい、何も感じないのだ。
「いい加減家に引きこもってないで、外に出な」 見かねたのだろう、婆さんが言う。
「そのうち、立ち直るつもりだから、俺は、大丈夫だから」
婆さんよ、そこまで大袈裟に頭を左右に振らなくても、いいだろう?
それにこんなでも今年で俺は二八だし、坊を外してもらえるかな。
「その様子じゃ碌に食ってないだろうからね、これ食べな」
——グゥ〜
人の手で作られたと分かるシチューだ。
最近は、冷凍食品かジャンクフードのみ。
「助かるよ」
俺の腹減り虫さん、耐えてくれ!
さすがに頂いたもの全部吐いてしまっては申し訳ない。
そういえば、久しぶりに人と話したのだったか。
どうしてだろうか、無性にあの日についての話を聞いてもらいたい。
だというのに話そうとした段で、《馬鹿なことはよせ!これ以上自分の醜態を晒すなんてとんでもない!!》、と自分の内からどこからともなく、喚きたてる声が聞こえてくるではないか。
とまあ、そんな感じで俺が葛藤していると。
「話な、聞いてやる」
婆さんはそう言ってくれたのだ。
この言葉に力を貰った俺は、藁をも掴む気持ちで話し始めたのだった。
☆☆☆☆☆
まだ、日が昇るか昇らないかという時間の二月一日。
俺は日課の目覚めの水を飲んでいる。
「プハーッ」
寝起きの、水分不足の体に染み渡る。
今いるここは新居だ。
婆さんに話を聞いてもらった後しばらくして、引っ越したのだ。
理由は二つあって、一つは、あの家にいる間、あの日と、シャーロッテの顔が、無限再生されて、頭がおかしくなりそうな事。
二つは、その事について婆さんに相談したところ、婆さん曰く、しみったれた思い出はさっさと捨てて、引っ越した方が良いとのこと。
俺はそのアドバイスに従い、引っ越したのだ。
そんなわけで俺は、引っ越しを終え、無事仕事にも復帰を果たし、健全な生活を取り戻すに至ったのである。
俺が今までの出来事の感慨に耽っている間、辺りには油の跳ねる音と、何かが焼ける匂いが漂っている。
料理をしているのは俺ではない。最近、再婚をする事ができた。名前は、ルクレーシア。
親しみを込めてルクと、俺はそう呼んでる。
そのルクは、華奢ではあるものの、程良く脂肪と筋肉のついた健康的な身体、輝くピンクゴールドの髪、白いエプロンを着て、ご機嫌で料理を作っている。
「ふふ〜ん♪」
「朝からご機嫌ですね、お嬢さん」
「ヒャンッ」
ルクのあまりの可愛さに、後ろから抱きついて、身体をまさぐってしまった。
可愛らしい声も、聞けた。耳が幸せだ。
「あつっ、わわっ」
ルクは不意に飛びずさり背から倒れそうにバランスを崩したので慌てて支える。
見やるとフライパンの先に、指を少しつけてしまった様で、ルクは、指を押さえて困った顔で俺を見ている。
すかさず謝る。
こういった行動の積み重ねが、悲劇を生み出してしまうのだ。
同じ轍を踏んではならないのだ。
「す、すまん!痛くはないかい?」
「ふふ、大丈夫だけど、料理中は危ないからおとなしくしてね」
「もちろんだとも!」
俺はこれでもかと大きく頷いて、ルクの気分を害さない様、大人しくリビングで待つことにした。料理中は余計な事しない、料理中は余計な事しない、心で何度も反芻しておく。
ふぅ、これでよし。
そんな事していると、朝ごはんが運ばれてきた。なんとも食欲をそそる香りが漂い、拘りと技術が伺える素晴らしい盛り付け。
「いただきまーす」
「はい、召し上がれ」
うん、料理が美味しいと感じられる、ルクと一緒に食べられる、それだけで美味しいと。
「どうかな?」
「ルクの料理なら消し炭でも美味いといってみせるさ!」
「もう!消し炭なんてするわけないよ」
頬を膨らませた顔もとても可愛いので、ついルクの柔らかな頬をツンツンしてしまう。
あ!ルクの口元が微妙にふにゃけている。ああ、なんて愛おしいのだろうか!
俺のルクへの愛がタンクから溢れ出した。抗えずキス、すると鼻の奥まで甘い香りが突き抜けたものだからそのまま押し倒してしまいそうにもなる。だが、俺の理性は待ったをかけたのですんでのところで踏みとどまれた。
危ない危ない、お楽しみは最後までとっておく主義だ。
「俺と出かけてみたいところあるかい?」
「ん〜〜、なら、旅して色々な所行ってみたいな」
旅か、良さそうだ。じゃあ連れて行ってやりたい。
旅行代理店で色々調べてみるか。
ワクワクしてきたぞ。
そうと決まれば、長期休暇をとらなければなるまい。
よーーし、やるぞ!
☆☆☆☆☆
真っ暗でぐちゃぐちゃに物が散乱している。
深く記憶を探る必要もない。
何故か、ここは俺の【部屋】だからだ。
今も時々思い出して自己嫌悪に陥るその部屋の奥、呻き声ともつかない怨恨がこもった掠れた声を出す男。
過去の俺はベッドに横になっていた。
クシャクシャにされたティッシュが、ベッドの周りに転がっている。
不衛生で異臭を放ち血走った目をしていて、
無気力さが全身から溢れ出ている。
——醜い
男は奇妙な笑い声を立ててベッドの上でモゾモゾ動きだした。そして、ベッドから出て、這う様にトイレへと向かった。生気のない声と共にビチャビチャと音を立てて嘔吐している。
——醜い
リビングへ這うようにして向かい、ファストフードを貪る様に食べ、また、ベッドに戻り愚痴を吐く。
——醜い
「……ン!ダ……ン!」
呼び掛ける声を聞いた、加えてその声はとても焦っているし身体も揺れている。その声へ向かって全力で意識を集中していった。
俺は少しづつ光を見ると、朝で目覚めが近いと直観で分かった。
「……ルク?」
「ダンは……すっごいうなされてたんだよ」
ルクの顔で俺の視界はいっぱいになっている。眉間に皺を作つくっていてルクの心配が見てとれた。ルクが冷たい俺の手を握れば、冷え切った心にも火が灯っていくよう。そこまできてひとまず落ち着けたので、ルクの背中へ手を回し、胸に顔を埋めて縋りついた。
「ルクは一生、俺の元から去らないでくれると誓ってくれるか?」
「私はダンのそばに居るよ」
「……そうじゃ、ないんだよ!」
俺は安心が欲しいから、絶対に必ず俺を一人にしない保証が欲しい。
世の中絶対はないとか勝手に言ってろ。
俺の気もしらないで、そう咽まで出掛かって、すんでのところで飲み込んだ。とたんに先の物言いで幻滅されると思い、顔をあげて訂正しようとした。けれど、ルクの力のこもった手で控えめな谷間から抜け出せなくて叶うことはなかった。
「大丈夫、大丈夫だよ」
ルクは、子供をあやすように俺へ言い聞かせる。頭を優しい手つきで撫でられている間ずっとルクの鼓動を聞いていた。
一定のリズムを刻む鼓動の音は、俺の緊張をときほぐしていった。心の穏やかな自分を、高い地点から見下ろす感覚を、十秒たった頃には持つことができていた。
冷静になればこの子を悲しませてはいけない、そんな使命感が湧き上がってくる。
だって、ルクは俺の事になると自己犠牲を厭わないから。
常日頃から、誰より自分より俺を優先している。
何故そこまで俺に尽くしてくれるのか、それはまだ聞いた事がないけど。
「俺は一生をかけてでも、最高に幸せな人生をルクへ贈ると誓う」
俺は顔をあげて、ルクの目を見て言う。
少しでも、この感謝が伝わってくれればいいと思う。
「ソ、そんな急に、うぅぅ」
ルクは頬を真っ赤に染め、慌てふためいてから、手を太ももの間に入れてモジモジし始める。
「突然、ごめん」
「!――違うよ!嫌じゃないよ、むしろ嬉しい」
ルクは、背を向けてブツブツ何か言った後、寝室から出て行った。
生理だろうか、なら触れない方がいいか、俺はそう思ってそっとしておくことにした。
☆☆☆☆☆
五月一日の、窓から燦々と太陽の光降り注ぐ昼下がり。
カウチに腰掛けて、ルクと俺はうたた寝をしていた――――
「あなた、紅茶が冷めてしまいます」
「ん?アァッちち」
めちゃくちゃ熱い、もうちょっとぬるい紅茶が好みなのだが…。ルクのいつもの淹れ方と違う。
ん?ルクって誰だ?
「その指輪……」
シャーロッテは俺の左手薬指をじっと見ている事に気付いた。勿論、シャーロッテとお揃いの結婚指輪を嵌めているのだ。しかし、違っていた。
「ん?ああん?」
見た事の無い結婚指輪を俺は嵌めている。
なぜなのか俺にも分からない。ただし、不思議なことだが、不愉快ではないのだ。
シャーロッテからは言いあぐねている様に見えるだろうけど、それでもこの指輪は外したく無いのだ。
流石に無理があると自分でも思う。しかし、予想は裏切られた。
「ふふっ……、あなたったら」
冷えている、この反応は普通ではないし見限ってすらいるように感じられた。
シャーロッテの受け答えに違和感を覚える。
——プルル
その場から逃げる様に電話へ向かい手に取った。途中で見た日付には去年の四月三十日とあった。
ん?去年とは?
一瞬の疑問を挟んだ後、懐かしい上司の声を電話で聞けて、嬉しくなる。
ん?懐かしい?
また、違和感を覚える。だがしかし、今は仕事の話だ、後で考えよう。
上司から出張を求められた俺は、頷いた。
仕事の支度を整え、玄関まで見送りにきたシャーロッテに向き直る。
「一週間で帰ってこられる、その間、シャーロッテには寂しい思いをさせてしまう」
「いつものことですから、いってらっしゃいあなた」
「お土産、楽しみにして待っていてくれ」
家の庭を歩いて、歩いて、歩いて少しばかりしてむず痒さを感じて振り返った。
シャーロッテがヒラヒラと手を振っている。俺も手を振って応え、もう一度歩き出す。
その一瞬、シャーロッテの顔に今まで見た事が無い嘲りがあったような気もした。
☆☆☆☆☆
「——ハッ!」
どうやら夢を見ていたらしい。
時計の針を見ると、一時半を示していた。
今日の二時から、古い友人に久しぶりに会う約束をしていたと、ゆっくりと思い出した。
動けばルクを起こしてしまうけど、仕方ない。
「出かけてくる、夜までには帰るよ」
「んぅー、いってらっさぁい」
無防備なおでこにキスをして家をでる。
向かった先はファミレス、友人を見つけて席に座る。
「久しぶりだな!」
「ああ、そうだ、久しぶりだなあ!ぺぺ
!」
小さい頃、ぺぺとよく遊んでいたし、仲も良いが、去年の五月辺りから、バッタリ連絡がとれなくなったのだ。
お互い久しぶりで、顔を見ることを喜び合った。それから、お互い今までのことを語り合って、思い出話に花を咲かせて、時間はあっという間に過ぎていった。
そろそろお開きにしようかといところで、仕事の話になった。
久しぶりの友人との再会に、仕事の話を持ち込むことに、気が引ける。だがしかし、ぺぺから切り出したので、話を聞いてみたら、一緒に働いて欲しいと言われたのだ。
チャンス!そう思った俺は長期休暇で旅をする件を話してみる事にした。
「長期休暇をとろうとしたけど、すでにとっていた扱いで、とれないんだ。でも、どうしてもとりたいし、そもそも短くて、さ」
すると、全然良いとのことで、俺は喜び願っても無いとぺぺの下で働く事になった。
ちなみに、とっていた扱いとなってしまっている原因は、思い出すたびに俺を苛むドン底生活の期間が長期休暇だったからだ。
まあ、自業自得である。
加えて苛まれる度にルクに慰めて貰う訳で、いまだに引きずったままといのも歯痒い。
そんな訳でルクとの二人旅により傷を癒せるかもしれないと淡い希望を抱いてもいる。
その後しばらくした俺は、念願のルクとの二人旅計画を立てられたのだった。
☆☆☆☆☆
八月一日の夏真っ盛りという事で、やって参りました、海だ、デートだ、マヨルカ島!!見てくださいこのスカイブルーの海!!地平線まで続く青!!
そして、リゾートスポットだから遺跡や大自然をふんだんに味わえるのだ。
俺とルクは、その島のビーチを散策している。
白いワンピースを着たルクの可愛さは人魚にも劣らないと本気で思う。
「夢みたい」
ルクから呟く様に発された時俺は不意に涙ぐんだ。
そこまで言ってくれると、嬉しいようで報われる様で、頑張った甲斐があるというもので。
「まだまだ始まったばかりさ、これから二人で色んな所へ行こう」
見渡す限りに、海と空が広がっていた。
俺は今、自由の感覚を久しぶりに味わえている。いい気分転換になった、つくづくそう思えた。
☆☆☆☆☆
十一月一日の夜のこと。
「今夜は楽しんでくれ」
「恩に着るよ」
ぺぺと握手を交わす。
ぺぺに今日のパーティで誰が有力者か聞きながら、待合室へと歩いて向かう。
これから始まるのはぺぺの主催する経営者の社交パーティである。
有力者と繋がりをつくっておくことは、俺にもメリットがある。
ならば、ぺぺから誘われた時、断る理由もなかった。そんなわけで今に至る。
ただ、そこまでは良い、そこまでは。
「妻のシャーロッテだ」
は?何言ってんだ?
と聞く前にぺぺと向かった先の待合室で紹介されたのは、まごうことなき前妻だった。
待合室は沈黙で満たされた。
俺は目を見開いていて、それを見てシャーロッテも目を見開いている。今、二人で見つめあっている状況だ。
「どうした?ああ、ダンには言ってなかったな」
「いやあ、あまりにもそっくりな人だ、はは」
「あなた、少し良いかしら?」
シャーロッテは、ぺぺを引っ張ってどこかへ行ってしまった。
一人残されたのだから、椅子に腰掛けて落ち着きたい。
リラックスをすれば、不愉快な封じ込められていた記憶の、洪水だった。
なので、今はとにかく、このパーティを穏便に切り抜けることだけを考えねばなるまい。
思い返してみても、ぺぺと会ってからずっと、いたって普通の反応だったと思う。
待てよ、本当にそうだったか?
何処か不自然な素振りはなかったか?
そもそもぺぺは信用できるのか?
となってくると、穏便に取り繕っていられないということだ。
「ふぅーーーー」
深呼吸をする。深く深く、自分のしたい事に意識を向ける。
俺はルクと偽りのない関係がいい。
なら、自分に嘘をついてはいけない。
そうだ、俺は本音を言う必要がある。
今ここで、俺は変わるのだ。
たとえ、衝突するとしても、自分の真実を告げる。
腹を括れ。人間不信はもうやめる。怒りは炉にくべて薪にしろ。
「ダン、すまないな、妻が甘えるものだから」
「あなた、辞めて下さいまし」
「おい、茶番はよせ」
予想外、いつの間にか、地の底から響く様な低い声を出していた。
ぺぺの額には大粒の汗が滴っているし、隣のシャーロッテも真っ青の顔色をしている。
「な、なんだよ、そこまで怒ることでもないだろ?」
「俺はシャーロッテの元夫だ」
ゴクリ、唾を飲み込んだ音が聞こえた。
「それについて——」
「ふん、今更なんだって言うのよ、散々ほったらかしたくせに」
俺の言葉を遮って、シャーロッテが真っ青のまま、睨みながら吐き捨てる様に言う。
ほったらかす?俺が?
いいや違う、そんな事問題じゃない。
「なんで、黙ってた?」
「答えたくないわ」
ああ、そうですか、お前ら全員結託してるんだな!そうに違いない!!
「俺がどんな気持ちだったかわかるか?突然一人にされた俺の気持ちが!」
シャーロッテはさっきから俺をじっと見ているだけ。ぺぺは何か言いにくそうにしていたが、やがて少しずつ話し始めた。
「本当は最初に言ったほうが良かったが、意外と気にしてなさそうに見えた。で、妻もダンと会う事になっても良い、ただし、先に話しておく事、きっと知らないだろうからと。まあ、つまるところ、言いそびれたんだ、許してくれるだろ?な?」
肩を組もうと馴れ馴れしく近づいてくる。
俺はそんなものいらないとばかりに振り払う。
そのやりとりで、シャーロッテの不満は積もるばかりで……。
「なによ、悪いのはあなたじゃない」
いちいち苛つく事言いやがる、二度と関わりたくない。
ただただ虚しい、こんな奴らと関わっていたのか、後悔。もう、やめだやめ。
「帰る」
そう言い残して踵を返した。そこからは覚えてない。
去り際に何か聞こえた様な気がするが、憶えていない。
気付けば、自宅の門の前だった。
門を開けて庭を歩き玄関まで行こうとする。
いつもより、凄く遠く感じる。
足取り重く、俯いていて、自分の足ばかり見ている。なんとか寝室までたどりついたとき、ルクは寝ていた。
俺は起こしたくないから、ルクの隣で横になり、暫く顔をみてぼんやりしていた。
「……ダン、遅かったねえ……」
寝言のようだけれどそれでも元気をもらえる。俺はシャワーを浴びて歯磨きをして着替えることができた。
「ルクには感謝してもしきれないな……良い夢を」
ルクの額にキスをしてからルクを抱き枕みたいに抱いて眠った。
まどろんでいく中で夢を見た、とても暖かい光が差し込む中、ベッドで寝たきりの老けている俺は満足しているらしい様子。
小さい手で老けた俺の手を握っていて、自分以外の誰かの視点だった。
その自分以外の誰かは老けている俺へ感謝をしていると感じた。
その夢を見て、明日も懸命に生きたいと心から思うことになった。
☆☆☆☆☆
「俺は、ルクへの誓いを果たせていたか?」
「勿論よ、ダン」
ルクの笑顔はシワだらけで、声も最後の部分だけ感極まっていた様な気がする。
「そのようだ、安心したよ」
寄り添ってあげたい、そうルクへ手を伸ばそうとしたけれど、体は動いてくれない。
そうか、そうだった思い出した。
俺は、一ヶ月の間ベッドで寝たきりだった。
俺もルクも、まあ随分歳をとったものだと思う。
「ダン、あなたのひ孫、グレーシアよ」
俺の掌を握る感触を、鈍いけれど感じる。
ああ、幸せだ、俺は満足だ。
何も思い残すことはないな。
「少しだけ、眠るよ」
「ええ、良い夢を、ダン」
ルクは額へキスをしてくれた。
ありがとう。
おやすみ。
少し、眠ろう。ほんの少しだけ、眠ろう。
ゆっくりと、ゆっくりと瞼を閉じていった。
徐々に暗くなる視界―――――
―――――そうか、終わったのか。