第2章:消えた朝
その日も、いつもと同じように始まった。
通勤電車に揺られ、会社のビルに入り、9階へ上がる。
廊下を通って、営業部のフロアのドアを開ける。
でも、すぐに“違和感”があった。
田中さんの席が――空っぽだった。
書類もない。マグカップもない。
昨日までそこにあった彼女の存在を示すすべてが、跡形もなく消えていた。
椅子には、新しい備品の札がぶら下がっていた。
まるで、最初から誰も座っていなかったかのように。
周りを見渡す。
誰もその異変に気づいていないようだった。
最初は、「体調不良かな」と思った。
でも、それにしてはおかしい。
田中さんは、体調不良でも絶対にメールを入れてくるような人だった。
昼休み、勇気を出して先輩に聞いてみた。
「田中さん、今日お休みですか?」
先輩は、眉をひそめて首をかしげた。
「……田中さん? 誰それ?」
笑っているわけじゃない。
本気で、知らないという顔だった。
他の同僚にも聞いた。
みんな、同じように首をかしげた。
「そんな人、いたっけ?」
「田中って、営業にいた? いや、知らないな」
「君、新人でまだ人の顔覚えてないんじゃないの?」
言葉が出なかった。
まるで自分だけが、別の時間軸に取り残されたような感覚。
田中さんのパソコンも、ロッカーも、名前のプレートも――
すべてが、最初から「存在していなかった」ように処理されていた。
でも、俺は知っている。
彼女はいた。
確かに、あの席に座っていた。
朝には前髪を直していたし、昼にはサラダを食べていたし、
夕方には「お先に失礼します」と深く頭を下げていた。
それを見ていたのは、俺だ。
なのに、なぜ。
なぜ誰も覚えていない?
なぜこの世界から、田中さんが“消えて”いる?
思い違い? 勘違い? 妄想?
そんなこと、あるはずがない。
でも、誰に言っても、笑われるだけだ。
もう言えなかった。
その日、俺は仕事のふりをしながら、ずっと田中さんのことを考えていた。
まるで夢を見ていたような感覚。
だけど――あれは、確かに現実だった。
俺の記憶は、嘘をついていない。