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第1章:はじまりの日

新卒で入った会社は、よくある中堅のメーカーだった。

電気機器の部品を作っていて、派手さはないが安定していると言われている。

配属されたのは本社の営業部。ビルの9階、窓からは隣のビルの壁しか見えない。


俺の仕事は、電話を取り、書類を処理し、先輩に指示を仰ぐこと。

決まった時間に来て、決まった仕事をして、決まった時間に帰る。


「社会人って、こんなもんか」


3日目の朝、俺はそんなことを思いながらエレベーターを降りた。


そして――

そのとき、彼女を見た。


廊下の向こう、コピー機の前に立つ女性。

背筋が伸びていて、動きが静かだった。

何かを取り出して、一枚一枚、ゆっくりと確認していた。


遠くて顔までははっきり見えなかった。

でも、不思議と視線が逸らせなかった。


その瞬間、何かが変わった気がした。


朝礼で彼女の姿を見かけたのは、その日が初めてだった。

白いブラウスに、淡いグレーのカーディガン。

目立たない服装なのに、ひときわ目を引いた。


名札を見た。


田中。


それだけしか書かれていなかった。

下の名前は隠れていた。

でも、それだけで十分だった。


田中さん――


俺はその日から、彼女のことを「田中さん」と呼ぶようになった。

もちろん、心の中だけで。


昼休み、偶然エレベーターで一緒になったことがあった。

俺は何か話しかけようとして、結局何も言えなかった。


彼女は微かに笑ったような気がしたけれど、それが自分に向けられたものなのか、分からなかった。


同僚に「田中さんって、どんな人なんですか?」と聞いたことがある。

でも、誰も彼女のことを詳しくは知らなかった。


「あの人、営業部だっけ? 総務の方じゃない?」

「んー、話したことはないなあ」


誰に聞いても、その程度だった。


でも、俺は見ていた。

田中さんは、朝8時45分に出社し、必ずデスクの引き出しを開けて小さな鏡で前髪を直していた。

昼は自席でサラダとパンを食べ、13時ジャストにデスクに戻った。

夕方、帰るときはいつも「お先に失礼します」と深く頭を下げていた。


それは誰よりも丁寧で、誰よりも静かな“礼”だった。


何も知らなかった。

でも、それでもよかった。


彼女は、そこにいた。


それだけで、俺の中には確かに“何か”があった。


そして、気づいたときには、彼女の存在が、

俺の一日の始まりになっていた。


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