プロローグ
――田中さんは美人だ。
最初にそう思ったのは、入社して三日目の朝だった。
まだ名前を覚えるだけで精一杯だった頃。
ぎこちなくお辞儀を繰り返していた俺の目の端に、彼女はいた。
整った顔立ちとか、スタイルがどうこうじゃない。
言ってしまえば、地味だった。
化粧も薄く、髪もまとめていて、服装も常識的で無個性だった。
けれど、目が離せなかった。
姿勢が良かった。歩き方が静かだった。
誰かの陰口にも、誰かの噂にも、微塵も揺れないまま仕事をしていた。
そして、ふと誰かに向けた笑顔――
それは、言葉にならない美しさだった。
田中さんは、美人だった。
その日から俺は、密かに彼女を目で追うようになった。
話しかけたことはない。
何度も挨拶しようとしたが、結局できなかった。
それでもいいと思っていた。
見ているだけで、少しだけ一日がましになる気がした。
だけど。
ある日、気づいたら、田中さんはいなくなっていた。
突然だった。
前日まで普通に仕事をしていたのに、翌朝、彼女の席は空っぽだった。
「田中さん、今日お休みなんですか?」
そう聞いた俺に、隣の先輩が怪訝そうな顔をした。
「……誰? 田中さんって」
笑っているわけではなかった。
本当に、知らない顔だった。
俺は動揺して、他の同僚にも聞いて回った。
でも、誰一人として彼女のことを覚えていなかった。
名前も、顔も、姿も――
まるで最初からいなかったかのように、誰の記憶からも、田中さんは消えていた。
だけど、俺の中には、確かに残っている。
あの背筋、あの歩き方、あの笑顔。
俺は知っている。
田中さんは、確かにここにいた。
なのに、なぜ誰も覚えていない?
それとも――
おかしいのは、俺のほうなのか?