第5話『見て見ぬふり』三枝 誠司
気づいても、踏み込めない。
大人であることの、難しさ。
始業チャイムの15分前。
職員室のコーヒーはいつも薄い。
三枝誠司はそれを知っていながら、毎朝、自販機で淹れたまがい物の温もりに頼っている。
机の上には、今年のクラス名簿――2年5組。
顔ぶれに大きな偏りはない。突出した問題児も、明確なリーダー格もいない。
一見して、“静かなクラス”。
だが、三枝は知っている。“静か”と“健全”は違う。
何かが、微かに引っかかっていた。
教科書を閉じて「はい、今日はここまで」と告げたあと、
生徒たちの表情がぱっと緩むのを三枝は見ていた。
だが、その中に――数名、表情の“揺れ”がない子たちがいた。
羽山。三崎。神谷。そして、今井。
それぞれ違うベクトルで、どこか“目を合わせないようにしている”ような印象があった。
(あいつら、気づいてるな)
でも、それを言葉にすることは、できなかった。
教師という立場を盾にして、今日も自分は――踏み込まなかった。
昼休み、別クラスの担任から小さな相談を受ける。
「5組、ちょっとグループ内で気まずい空気あるらしいよ」
「誰が?」
「詳しくは分かんないけど、女子グループで一部孤立してる子がいるって」
「……そうか」
その会話のあとも、三枝は何も動かなかった。
だって、「直接的な問題が起きてるわけじゃない」。
つまり――「まだ、教師が入るタイミングじゃない」と、自分に言い聞かせた。
放課後、教室に戻ると、羽山がまだ席に残っていた。
机に肘をつき、窓の外を眺めている。表情は読み取れない。
「羽山。何かあったか?」
問いかけた言葉は、半分は形だけのものだった。
けれど彼は、こちらを見ずにぽつりと答えた。
「先生、何も知らないふり、上手いですよね」
心臓が、わずかに跳ねた。
でも、顔には出さない。
「……教師ってのは、“タイミング”を間違えると、いろいろ壊れるんだよ」
それは、言い訳だったかもしれない。
けれど彼は、それ以上なにも言わず、荷物を持って教室を出ていった。
夜、机に残った出席簿と学級通信のドラフトを前に、三枝はふと手を止めた。
(俺は、何を見て、何を見ていないことにしてるんだろう)
言葉にすれば簡単だ。「気づいていなかった」と言えば済む。
だがそれは、本当は“見ようとしなかった”という逃げ道だったのではないか?
教師としての責任。
大人としての限界。
そして、「波風を立てないこと」が何より“正しさ”だと思ってしまう弱さ。
生徒たちは、何かを隠している。
でも――本当は、自分がいちばん嘘をついていたのかもしれない。
「問題がないクラス」
「仲が良さそうに見える」
「よくあるすれ違い」
「子ども同士のこと」
そういう言葉で、全部を“それっぽく”見せかけていた。
それが、三枝誠司という人間の“安全圏”だった。
あのとき、羽山の目に映っていたのは――俺の“仮面”だったのかもしれない。
先生だって、人間です。
目を逸らす理由にも、意味がある。