第1話『普通という嘘』羽山 真尋
新学期、クラスの空気が動き出す。
これは、名前しか知らない彼女との最初の出会い。
嘘と本音が混ざる、ありふれた教室の物語です。
あなたにも、思い出す風景があるかもしれません。
教室の窓は開いていた。
春の風が、カーテンを揺らしていた。
だというのに、この空間だけは妙に熱を帯びていた。
新学期の教室、2年5組。
ざわめき、視線、笑い声、よそよそしい沈黙、そして無数の「普通」の演技。
僕――羽山真尋は、その中でひとつの机に座っていた。
中の下、あるいは真ん中よりやや後ろ寄りの席。
教卓と黒板が見えすぎない。けれど、最後列の“安全地帯”でもない。
完璧だ。僕にとっては、このくらいがちょうどいい。
普通でいること。それが僕のモットーだ。
目立たず、目立たせず、関わりすぎず、必要最低限の会話をこなして一年を終える。
そんなふうに生きてきたし、できると思っていた。
でも、その日は少しだけ違った。
「羽山くん、だっけ? これ、配ってって先生が」
彼女は、笑っていた。
渡されたのはプリントの束だった。教科の時間割。つまらないものだ。
それよりも、僕は彼女の声の高さと、笑顔の温度に戸惑った。
「あ、うん。ありがとう……三崎さん、だよね?」
名前くらいは知っていた。
入学してから、いや、たぶん中学のときから、“有名な子”だった。
明るくて、優しくて、誰とでもすぐに仲良くなれる。
だから人気者で――たぶん、彼女自身もその“役割”をわかっていた。
「正解。てか、覚えてくれてたんだ、うれし」
そう言って、彼女はまた笑った。
僕は、とっさに目を逸らした。
窓の向こうに見えた紫陽花が、咲くには少し早いと思った。
プリントを配るついでに、僕はクラスを見回していた。
誰がどこに座ったか。どこに空気が集まって、どこが重く沈んでいるか。
ちょっとした笑いの中心にいる男子。グループLINEをすでに作っていそうな女子たち。
窓際でノートに何かを書いている子。スマホをいじってる子。話しかけられない子。
全部、去年と同じだ。メンツが違うだけで、やってることは一緒。
クラスってのは、まるでガチャガチャの中身が少し変わっただけのカプセル機械だ。
だから、僕は目立たない。
誰にも気にされないように、誰の邪魔もしないように。
僕が持ってるこの“普通”っていう仮面は、今のところうまく機能していた。
ただ――
三崎いろはの笑顔だけが、少しだけ違和感を残した。
あの笑顔は、なんだろう。
親切? 余裕? 演技?
どれも正しい気がするし、どれも正しくない気がした。
僕には、悪い癖がある。
誰かの言葉や仕草の奥を、勝手に想像してしまう。
たとえば、廊下で誰かが「超楽しみー」って言ってたら、心のどこかで「本当に?」と疑う。
誰かが「マジでだるい」と言えば、「期待してたくせに」と思う。
僕は、人が言うことより、言わないことのほうを信じているのかもしれない。
だから今日も、僕は「普通でいたい」と思いながら、
誰よりも周りを観察している。
それってたぶん、いちばん“普通じゃない”ことだって、僕は知ってる。
放課後、窓際に立っていた三崎いろはを、僕はまた見かけた。
彼女は、誰とも話さずに、一人で外を見ていた。
その目線の先には、校舎の外に咲き始めた紫陽花があった。
まだ小さなつぼみだけれど、色づき始めていた。
何色になるかは、まだわからない。
彼女は僕に気づいたようで、少しだけ、眉を下げた笑顔を浮かべた。
朝とは違う笑い方だった。
演技かもしれないし、本音かもしれない。
でも、僕はそれを――なんとなく、きれいだなと思った。
声はかけなかった。
意味もないし、用もない。
ただ僕は、彼女の視線の先――紫陽花に、目を留めた。
――特に、意味はない。たぶん。
物語はまだ、始まったばかりです。
次回は、あの子の内側を覗いてみましょう。