めいどの土産
気張らずサクッと読んじゃってください。
時間って尺度は思いのほか曖昧で、同じ時間を過ごしていても、「もう一時間たったの!?」と感じる人もいれば「まだ一時間しかたってないのか」と人や心境、状況によって感じ方はそれぞれです。
それと同様に、思い入れのあるなしで、抱く感情も千差万別。好意や尊敬を抱いている人と一緒にいれば、心躍るなりいつまでも話を聞いていたいと思うでしょう。逆に、嫌いな人や、興味のない人といれば「いつまで喋るんだ」とか「早く帰りたい」と思うはず。
これから語る話もそれと同じく、いつまでも分かり合えないであろう感性の話。少しでも共感いただける部分があれば幸いです。
まず、これからの話の中心人物は俺と友人である。俺は――つまり作者である谷中英男であるわけだから――名前について説明する必要はないだろうけど、友人については当然のことながら実在するわけで、これからの話のせいで、彼の名誉が傷つけられる可能性もないとは言い切れないので、ここではトオルとしておこう――これなら特定するのはなかなか難しいはずだ。
このトオルっていう友人は簡単に説明するとバンドマンだ――現在はしがない会社員だけど。彼はバンドマンと呼称するに相応しく、イケメンで、しかもヴィジュアル系だから、服装も奇抜でいつも化粧を欠かさず、誰からもちやほやされる存在だ――もちろん歌も上手い。
そんなトオルと出会ったのは青春の一ページに相応しい大学時代のことだったわけだけど、そこは割愛させていただく。人との出会いはたいして面白くないと俺の中では定説だからだ。
だから、ここからやっと本題に入るわけだ――。
ことの発端は俺たちがまだ学生気分から抜けきれずに、社会人とは何ぞやと考えることさえしていなかった時だった。若い時分であった俺たちは、休みの前日や、休日には仕事のことなど忘れて遊び歩いていた。
そんな中でトオルが珍しくというか、見た目とは反してこんなことを言いだした。
「僕さ、メイド喫茶に行ってみたいんだよね」
一般的にイメージするバンドマンが口にする類のことじゃないのは確かだった。当然、俺もそう思ったわけで、トオルにしてはよくできた冗談を言うもんだと感心した。
だからって、決して笑える代物じゃなかったから、俺は黙ってトオルを見つめてやることにした。そうすれば、自分の冗談がいかに面白くないものか理解してくれると思って。
そうは問屋が卸さないわけだけど。
「本気にしてないだろ? 僕は本気だからな。メイドさんと一緒に萌え萌えしたいんだよ! ご主人様って呼ばれたいんだよ!」
バンドマンらしく言葉に思いを乗せる姿は鬼気迫るものがあった。
俺はトオルの気迫に飲み込まれた。話の内容は私利私欲以外の何物でもなかったけど――そんな言葉が人を動かすのかもしれない。だけど、俺にだって意見する権利くらいある。黙って運命を受け入れる気はない。
「そ、そうか。トオルの熱意はよくわかった。でもな、だったら一人でいけばいいんじゃない? 俺は興味ないし」
俺の言葉はトオルの狂気に油を注いだだけの様だった。
「一人で行けるわけないだろ! 何を考えてるんだ、まったく」
トオルの口から出てきたのは、耳を疑う言葉だった。しかも、ふんぞり返って、俺が全て間違っているかのような言い草だ。こんなトンデモ理論、子供だって使いやしない。
こんな状況じゃ、さすがの俺も言い返すしかない。
「はぁ? どういうことだよ。恥ずかしいとかのたまうつもりか? 笑わせるぜ」
吐き捨てるように言った俺の言葉に「笑わせてすまなかったな」とトオルが冷静に返した。
「えぇ……。本当に恥ずかしいからついてきて欲しいのか?」
自分でもこんなに呆れ返ることが出来るのかと驚くくらい、トオルの言葉に呆れた。長い事一緒にいるけど、いまさらトオルという人間がわからなくなってきたのは言うまでもない。
「そうだよ。ぼくみたいなイケメンが一人で行ったら浮いちまうだろ。でも、谷中みたいな見た目チンピラと一緒なら、お前が目立ってくれるから俺が普通に見えるんだよ。そうすれば、メイドさんとニャンニャンしたって問題ないって寸法だ」
トオルの言うことも一理あると認めざるを得ないけど、だからって、ここまではっきりとチンピラ呼ばわりされちゃ、多少声を荒げてしまうってもんだ。
「何がニャンニャンだ。俺だって、あんなところ行ったことないし、恥ずかしいんだぞ」
「恥ずかしい? 谷中って羞恥心を母親の子宮に忘れて来たって聞いてたけど、嘘だったの?」
声を荒げた意味を理解していないのか、はたまた声を荒げたこと自体に気付いていないのか、トオルはいつもの如く俺を弄った。
ここで、空気を読めないトオルにその事実を告げるなり、口車に乗らないのが大人な対応なんだろうけど、俺がそんなこと出来るわけない。下らない話に乗っかって、川下りでもするように流れに身を任せるしかない。
「確かにそうだけど、この前スーパーで安売りしてたから買っといたんだよ」
戯言に大真面目に頷きながら「いくらくらいだったの?」とトオルが訊いた。
「十七円」
俺も真面目腐った顔で答えた。
「もやしかよ!」
ごもっともな答えがトオルの口から放たれた。
こうやって、顔を合わせれば茶番を繰り返すのが俺たちの悪い癖であり、俺たちらしさなんだと思う。だからって、これ以上続けるつもりはないけど。
「俺の話はいいんだよ。散々ライブとかやってきたトオルに、恥ずかしいとかないだろ」
どうにか軌道修正して、願わくばメイド喫茶の話から離れようとしたけど、なかなかうまくいかない。むしろ、メイド喫茶への思いを再燃させてしまったまである。
「それとこれとは別の話さ。名前も知らない観客と可憐で清楚なメイドさんじゃ訳が違う」
滔々と語るトオルを理解する気さえ失せた。つまり、男が女の思考を理解できないように、トオルのメイドに対する思いは一生理解できないんだ。
「どういうこっちゃ……」
字面だけでわかるように、俺にはお手上げだった。お手上げ過ぎて、声に出していたことにも気づかなかった。
「それだけメイドさんは人の心をつかむってことさ」
すかさず、トオルは俺の言葉を捕まえた。憎いぐらい満足げな表情だ。ここまで熱意をもって話されると、俺だって「もう意中のメイドがいるの?」と思わずにはいれられないわけで、さっくりと訊ねてみると「いや、いない。行ったことないわけだし」と鼻で笑われた。
鼻で笑いたいのは俺の方だったけど「重症だこりゃ……」と呟くので精一杯だった――。
なんて感じでメイド喫茶についての話はグダグダになり、なしで終わるのかと思っていたら、次の休日に二人そろって出陣することになっていた。
「なんか緊張するな」
メイド喫茶の入る雑居ビルのエレベーターで、トオルは言葉とは裏腹に息巻いていた。
こんな姿を見せられちゃ、こっちの方が緊張する。
「トオルがやらかさないか気が気でないよ」
「大丈夫なはず。朝、一発ヌイといたから」
俺の言葉の意味に気付いていないのか、トオルはふざけた調子であっさりと言葉を紡いだ。
戯言のせいで余計に心配は増したわけだけど、言及する前にエレベーターは停まった。扉がするすると開いた。
「おかえりなさいませぇ、ご主人さまぁ。本日はお二人ですかぁ?」
メイド姿の見目麗しい女性が、猫撫で声で迎えてくれた。
正直、メイド喫茶って言ったって、所詮、店員がメイド服を着ているだけで普通の飲食店と変わらないと思っていた。でも、実際にメイドという非日常的な存在を目にし、「ご主人様」と言われたら、考えを改めざるを得なかった。少なくともここは普通の場所じゃない――イレギュラーな空間だ。
「はい、そうです」
俺がある種のカルチャーショックを受けていようとも、トオルはエレベーターでの態度とは打って変わって落ち着いた受け答えをした。平然と対応できるなら一人でくればいいのにね。
「当店のご利用は初めてですか」
メイドさんは満面の笑みで応対してくれる。
「初めてです」
トオルもいまだに平然としている。
「かしこまりました。お席でご説明しますので、ご案内いたしますね」
ありがちな文句の下、俺たちは席に案内されたわけだけど、ここに来た時ほどの衝撃はなかった。小さなステージがある以外は、質素なカフェといった雰囲気だった――カフェにしてはむさ苦しい男ばかりだったけど。
席に通された俺たちはメイドさんからお店のシステムについて説明された。俺の中では複雑で、値の張る場所だと思っていたから、居酒屋や何かと特に変わらず、値段についてはそこらの居酒屋なんかより安いことに驚いた――詳しい説明は省くけど、興味のある人は自分で調べて欲しい。
説明も終わって、適当に飲み物を注文すると、すぐに飲み物が運ばれてきた。メイド喫茶だからって、容器が特殊なわけもなく、普通のグラスに、普通の飲み物が注がれていた。だけど、ここからが普通と違う。
俺たちがグラスに口をつける前に「おいしくなる魔法を掛けるんで、一緒にやってくださいね」と満面の笑みで促された。メイド喫茶初体験の俺でもこれから何をするのかうすうすわかりはしたけど、実際に目の前でことが起こるのを目撃すると気恥ずかしくならざるを得なかった。しかも、俺自身もやらないといけないなんて。
「おいしくなぁれ、萌え萌えキュン」
胸の前でハートを作って、おいしくなる魔法をメイドさんが掛けてくれた――チョコレートみたいに甘々な声と、満面の笑みを添えて。
ここまでされたら、俺たちもやるしかない。俺はトオルと一緒に「おいしくなぁれ、萌え萌えキュン」と呪文を唱えた。
「ご用が合ったら、呼んでくださいね」
メイドさんは満足げに笑って、俺たちの席から颯爽と離れて行った。
たったこれだけのことだったけど、俺としては充分やりきった気がした。グラスを空けたら帰ってもいいくらいだ。
「どうしよう」
深刻そうな調子でトオルが呟いた。メイド喫茶に来て数分でこの表情ってことは、トオル自身もここの魅力を見出せずに、絶望に打ちひしがれているのかと思った。
「何?」
期待を込めて問うた言葉はあっさりと打ち捨てられたわけだけど。
「あの娘、めっちゃ可愛い」
そう言ったトオルの顔は、初孫を愛でる祖父母のように緩み切っていた。つまり、あの深刻そうな表情は、笑顔がほころぶのを抑えていたってことだ。
ここまで来ると、トオルに淡い期待を抱いた自分が嫌になってくる。
「へぇー。そりゃよかった」
「こんなのヤバいって。もうハマってるんだけど」
嫌味と失望を声音に込めたつもりだったけど、トオルには一切届いていなかった。机に乗り出して、俺に迫ってくる。
ここまでされちゃ、俺も気を使ってなんていられない。
「そうだね。トオルの笑顔気持ち悪いね」
オブラートに包まず、顔面すれすれの直球を放り投げた。
「おい、僕は真面目に話してるんだぞ」
俺の渾身の一投が見えていなかったのか、より一層前のめりになるトオル。俺はグラスが倒れないか気が気じゃなかった。
来店して数分でグラスを割るなんてことはしたくないし、まず、グラスを割るような人間に思われたくないしね。ということで、トオルとの論戦は一旦置いておいて、トオルからグラスを遠ざけた。
トオルは俺の気遣い何て気づきもせずに、まんじりともせず俺を睨みつけていた。
そっちがその気なら俺だって言い返さなきゃ虫が収まらない。
「俺だって真面目に話してる」
俺の言葉にトオルは噛みつき続けた。
「どこがだよ。この幸せ空間で、葬式みたいな仏頂面で居られるなんておかしいぞ。ここでは笑顔以外ありえない」
言い放ったトオルの目は、犯罪者でも見るかのように蔑んだものだった。
ここまでされちゃ、俺も折れざるを得ない。というか、これ以上無駄な議論を重ねたくなかった。面倒くさい事この上ないからね。だけど捨てセリフぐらい吐く権利はある。俺は「初めて来たくせによく言うよ」と聞こえるかどうかわからないくらいの声で呟いてグラスに口をつけた。仮に聞こえていても、飲み物を飲んでちゃ抗議も飲み込んで、冷静になってくれると思ったんだ。
望み過ぎていたわけだけど、
「確かにそうだ、僕は初心者だ。でも、だからこそ、この空間が人を癒し、明日への活力滾らせる現代のオアシスだと断言できる。ほら、周りを見てみろ。フリフリのメイド服を着た可愛い女の子が、甲斐甲斐しく笑顔で給仕して、どこの馬の骨か知らないオタク、サラリーマン、観光に来た外国人まで幸せにしているんだぞ。こんな場所がここ以外にどこにある? いや、ないね。外の世界なんて、ほとんど目が死んでる人間ばっかりだ――地獄の一歩手前だ。でもここは違う。現代社会という名の砂漠で疲れ切った人々を癒すオアシスであり、誰もが幸せでいられるエデンの園だ」
ここまで捲し立てるトオルは、歌を歌っている時でさえ見たことがなかった。尊敬の念さえ覚える瞬間だった。
「よくもまぁ、初めて来て数分なのにそこまで語れるよ。呆れを通り越して、尊敬するね」
「もう、すっかりここの住人になれたから、僕が谷中にここの楽しみ方を伝授してあげよう」
伝授すると言いつつ、トオルはただメイド喫茶を楽しんだだけだった。メイドさんがケチャップで文字を書いてくれるオムライスを頼んだり、メイドさんと一緒に写真を撮ったりと。
下卑だる笑みを浮かべるトオルを横目に、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるメイドさんに心の中で称賛の拍手を送っていた。決して、トオルがこんなになっているのを理解し、自分も一緒になってこの雰囲気に染まろうってんじゃない。多少なりとも接客業を経験してきたゆえに、分け隔てることなく笑顔を振りまき、メイドを完璧に演じ切っている彼女達に尊敬の念を得たんだ。
俺には到底無理だ。お客さんの良し悪しに、自分のコンディション、その他、複雑な事象、心情が絡まり合った末に接客という行為が成り立ち、その行為に対しても、同じように様々な要因が成り立って、複雑怪奇な感情をお客さんに感じさせるものだと、俺は理解しているから。誰をも笑顔にさせ、トオルの言うオアシスのような空間を創り上げている彼女達はまさにプロだと思う。
「萌ちゃんがあだ名付けてくれるってよ」
オアシスで一人、感慨に耽っていたところ、トオルが満面の笑みで俺の視線に割り込んできた。
視線を上げると、さっきから店内を忙しく動き回りつつも、トオルの注文を快く引き受けてくれていたメイドさんがいた――いつの間にやら名前まで聞き出していたらしい。
「あだ名付けちゃいますよ~。まず、お兄さんから。なんて名前なんですか?」
先にトオルのあだ名をつければいいものの、萌ちゃんはニコニコと俺に笑顔を向けた。あまり笑顔を見せない俺を楽しませようと気遣ってくれたのだろう。メイドにお熱なトオルを優先してほしいところだけど、せっかくの優しさを無下にするのも野暮だ。
「英男って言うんだ」と俺は教えた。
「お兄さんの雰囲気に合っててカッコいいですねぇ。それじゃあ……」と萌ちゃんは考える人のポーズを大袈裟にしてから可愛く唸り「ヒデティに決定!」と可愛らしく微笑んだ。
「イェーイ」
萌ちゃんの声に合わせて、打ち合わせでもしていたのか、ノリがいいだけなのか、店内にいたメイド並びにお客さん――もちろんトオルも――がなぜか盛り上がった。
異様な雰囲気とまではいかないけど、俺はいまいちこの空気に慣れなかった。対照的に、トオルは遊園地を訪れた子供のようにはしゃいでいた。
「いいじゃん。次は僕ね、トオルっていいます」
楽しさを抑えきれないのか、トオルは自分から自己紹介を始めた。
「トオル君かぁ……」
またしても萌ちゃんは大袈裟にポーズをとって考えてから「それじゃあねぇ、トオル君はとおるん!」と微笑んだ。
俺の時と同じく店内は盛り上がった。
そんな店内で一人だけ、どこか納得いかない表情で盛り上がれていない奴がいた。もちろん俺じゃない。自分のことをそんな風に表現するわけじゃないし、俺だって周りの雰囲気に合わせることくらいできる。
じゃあ、誰なのかというと、トオルだ。おそらく、予想以上にひねりのないあだ名だったせいで不満だったんだろう。
俺としてはそんな態度を見せられちゃ、少しはからかいたくなる。
「いいじゃん、ありがちな感じで」と少し皮肉を込めつつも、表情や声には表さないように普通に感想を述べた。
トオルは俺の皮肉に気づいたのか、眉間に皺をよせて何事か口にしようとした。
「ありがちじゃないよぉ、とおるんって可愛いよ」
萌ちゃんに先を越されてトオルは俺に対する言葉を飲み込むしかなかった。というより、俺なんか眼中になかったんだろう。
「そうかなぁ」と表情を緩ませて、萌ちゃんを見つめることしか出来ない呪いにでもかかっているようだったから。正直、友人としてはこんな表情見たくなかったし、気持ち悪いの一言に尽きるけど、俺は言わないでおいてやった――せっかく楽しんでいるわけだからね。
こんな感じで時間は過ぎて行き、メイド喫茶初訪問は終わったわけだ。
俺としてはまた訪れる気はなかった。そこらの飲み屋で飲むよりは安く済んで、お財布には優しかったけど。でも、まぁ、一回行けばいいかなとしか思えなかった。
トオルにそんな感情は芽生えなかったけれど。
完全にメイド喫茶の虜になってしまったトオルは、次の休みも当然、メイド喫茶に行くと確信していた。自分がこれだけ夢中になっているから、俺も同行するだろうと思ったんだろう。だけど、前述したとおり、俺は興味がない。
結果として休日についての議論は平行線をたどり、俺が折れることになった。社会人になった男がやることなんてほとんどやりつくしていたし、財布に優しい面を鑑みての妥協だ――メイド喫茶の魅力に取りつかれたわけじゃない。
「おかえりなさいませ、ご主人様~。また来てくれたんだね、ありがとう~」
一週間たってからの訪問でも、萌ちゃんはしっかり俺たちのことを覚えてくれていた。一週間前に一度だけ来た客をしっかり覚えていてくれるなんて、感動に近い感情を覚えたのは言うまでもない。俺なんて前日に来ていたお客さんでも曖昧なことなんていくらでもあるのに。
「萌ちゃんに会いたくまた来ちゃった」
萌ちゃんに覚えてもらっていたことに気を良くして、トオルはそそくさとメイドの世界に身を投じていた。驚くほどの切り替えの早さだ。尊敬に値すると言いたいところだけど、腑抜けた笑顔を見ていると賛辞を贈るのも躊躇する。
「ありがと~、うれし~」
トオルの言葉にメイドさんは少しオーバーに反応した。すかさず反応する姿に流石と思いはしたが、どこか心のこもっていない空虚な言葉に思えた。トオルはそんなこと気にも留めていないようだったけど。
それから、席に案内され、注文した飲み物にメイドさんんと三人で「萌え萌えキュン」と唱えて、本日もまたメイド喫茶での時間が幕を開けた。
開幕当初、俺たちはいつものようにくだらない話で盛り上がり、メイド喫茶に来る必要があったのかと思わせる状態だった。だけど、テンションが上がれば上がるほど、トオルのメイドさんへの気持ちは盛り上がり、前回同様、積極的にメイドさんに話しかけるようになった。ともすれば、俺は透明人間になってメイドさんとトオルの会話をやりすごすしかないわけで――メイドさんとの会話に興味はないからね――どうにか上手くやり過ぎすごしていたけど、長続きはしなかった。
「いつもどんなお話してるんですかぁ?」
飲み物を持ってきた萌ちゃんが話しかけてきた。
「くだらない話だよ。こいつの仕事場での話とかさ」
すかさずトオルが返答して、萌ちゃんとの二人だけの空間を作ろうとする。俺としてはメイドさんと話すことも特にないし願ったりかなったりなんだけど、萌ちゃんはわざわざ俺のことまで気にかけてくれた。
「そうなんだぁ。ヒデティってどんなお仕事してるの?」
ニッコリ笑って目を見つめられちゃ、無下にするわけにもいかない。
「飲食関係かな」
詳しく話す気もないから、最低限のことだけ答えた。
「そうなんだ、カッコイイ~」
萌ちゃんも詳しく話さない俺に気をつかったのか、深堀しないでくれた。
気遣いに感謝しつつ、ここも意外といい場所かなと感じ始めたところで、一瞬、蚊帳の外だったトオルがすかさず話しに割り込んできた。
「そうなんだよ、こいつ意外とカッコいいんだよ。てかさ、谷中はあだ名で呼んでるんだから、僕もあだ名で呼んでよ」
トオルはどうやら、一人だけ蚊帳の外だったという事実よりも、俺があだ名で呼ばれているのに自分は呼ばれていないのが気に入らないようだった。店に入ってから輝いていた瞳の灯火がいつの間にか消えていた。
「えっと……」
事態は予想もしたくなかった方向に進んで行った。どうやら萌ちゃんはトオルのあだ名を失念しているらしい。
「もしかして忘れちゃった?」
トオルの笑顔は消えていないし、声も笑っているのに、どこか問い詰めるような雰囲気があった。
萌ちゃんもこの雰囲気に気付いていただろうに、そんな素振りは一切見せずに甘えた声で訊ねた。
「そんなことないんだけど……。ヒントちょうだい」
「最初はねぇ、『と』」
萌ちゃんの甘い声にトオルも少し機嫌を直したようだった。笑顔がまた気持ち悪くなっている。
「と……。次は?」
一文字じゃヒントにならなかった。萌ちゃんは可愛らしく首をかしげている。
「『お』」
萌ちゃんの仕草のおかげか、トオルは楽しそうだ。
「ト・オ……?」
未だに答えを導き出せない萌ちゃん。
雲行きが怪しくなってきたのは言うまでもない。トオルの目が死んでいくのがよくわかる。
俺はこれ以上トオルの口から言わせちゃ可哀そうだと思って、あとを引き継いでやった。引き継ぐも何も次の一文字で終わりみたいなもんなんだけど。
「『る』」
「とおるんだぁ!」
やっとこさ、萌ちゃんがトオルのあだ名を思い出してくれた。しかも、お茶目に腕を突き上げるポーズ付きで。
トオルもそんな萌ちゃんの姿を見て、顔が緩みっぱなしだったけど、萌ちゃんが席から離れて行ったときに「そこまでくればわかるわな……」と小さく呟いたのを俺は聞き逃さなかった。
「最近どうよ」
二週間ぶりに聞いたトオルの声はとても懐かしく感じた。毎週のように会っていた毎週会っていた弊害ってやつだろう。
「ご存じの通り、ちょっと忙しい。やっと解放されるけど」
俺も社会人として珍しく忙しく働いていたんだ。だから、トオルと二週間、会っていなかったんだ。変な誤解をされるかもしれないから言っておくけど、それ以外に理由はないよ?
「お、やったじゃん」
トオルも社会人らしく、繁忙からの解放を一緒に喜んでくれた。お互いに仕事の辛さをわかっているからこそ共有できる感情だけど、自分たちがなりたくなかった大人になって行っているのを実感する瞬間でもある。
まったく、嫌になるね、歳を取るってのは――口には出さないけど。
「そっちはどうなん?」
これ以上、社会や歳について考えたくなかったから、トオルに話を振った。
「それがさぁ、最近、ずっとメイド喫茶に入り浸ってる」
さすがトオルだった。欲しい時に、欲しい話題をくれる。だから、腐れ縁の如く二人で遊んでられるんだろう。
「ようやりますわ、尊敬するね」
これは俺の心からの言葉だった。
「存分に尊敬してほしい所なんだけどさ……」
そんな言葉を素直に受け取ってくれたトオルだったけど、どこか神妙だった。メイド喫茶について語っていた時の、熱く滾る青春を感じられない。
俺は途切れた言葉の先を促した。
「なんだけど?」
トオルは深くため息をついて今にも死にそうな声音で「萌ちゃんが僕のあだ名全然覚えてくれない」と言葉を零した。
正直、こんなに心底くだらない話だとは思わなかった。普段だったら、聞かなかったことにしてほかのことを話していたと思う。だけど、くだらない話で、俺の心にかかった暗雲を振り払ってくれたわけだから、恩返ししなくては。
「まぁ、しょうがないんじゃない? トオル以外にもお客さんはいるわけだしさ」
俺は一般論でお茶を濁そうとした。だけど、何かに夢中になっている人には一般論ほど無意味なものはないらしい。いや、むしろ馬鹿にされていると感じるのかも。
「しょうがなくないよ! 谷中は覚えてもらってたじゃないか!」
風前の灯火かと思っていたトオルの感情は、俺の言葉で地獄の業火の如く燃え上がっていた。
俺に消火する術がないのは明らかだった。消火できるなら地獄なんてないわけだからね。
「それはそうかもしれないけど、俺はあれ以来行ってないからさ、忘れてるよ」
俺はまた一般論でお茶を濁そうとした。
「いや、行くたび行くたび『今日はヒデティいないんだね』とか言ってくるもん」
トオルの言葉に感情はなかった。事実だけを淡々と述べる機械の様だ。またやり過ぎてしまったらしい――真逆の方向に。
人間関係ってやつは本当に難しい。慰めようとした言葉が、相手の心を抉るナイフになるとは。
「そうか……、うん……」
それしか言いようがなかった。何を言っても傷つけてしまいそうだったからね。
優しさに感動しているのか、逆に優しさに傷ついたのか定かではないけど、トオルは黙ったままだった。
ここまで来たら、かける言葉なんてたかが知れてる。いくらありきたりだろうと言われようとも、多少なりともテンションは上がるはず。
「今度の休みにパーっとやって忘れようぜ」
策略なのか、偶然のたまものかわからないけど、俺の言葉を聞くなり待ってましたとばかりに「じゃあ、メイド喫茶に行こう!」と声高らかに言った。
数日が経って、お察しの通り、俺とトオルはメイド喫茶にいた。
「いらっしゃいませ、ご主人様ぁ。また来てくれたんですね」
日常じゃ絶対に聞くことのない甘い声に迎え入れられた俺とトオルは、メイド喫茶にまたしても足を踏み入れていた。前回訪れた時とは違うメイドさんに迎え入れられて。
「そうなんだよぉ~、また来ちゃった」
トオルは今日も今日とてデレデレだった――見ているのも恥ずかしいくらいだ。しかも「また来てくれたんですね」と言われるくらいだから、本当にメイド喫茶に入り浸っているんだろう。
席に案内されても「トオルさんはぁ、今日は何にします? いつものですか?」と言われる始末。というか、名前で呼ばれているじゃないか。
トオルは「うん、いつもので」と誇らしげだ。
どうやら、トオルはこの光景を見せつけたかったらしい。じゃなかったら、あんなにドヤ顔でいられるわけがない。
トオルの仕打ちに腹を立てるほどではなかったけど、俺は何も言わないでいることにした。何を言ってもトオルの自尊心を満たす道具にされてしまうからね。黙っているのが一番。俺とトオルしかいない状況だったら……。
お察しの通り、ここはメイド喫茶で、教育の行き届いたメイドさんが俺の目の前にいる。しかも、まだ注文は終わっていない。
「お兄さんはどうしますか?」
俺は可愛らしい文字で彩られたメニューとにらめっこしてから「メイドさんのおすすめで」と注文した。特に頼みたいものがなかったせいだ。
「かしこまりましたぁ~。ちょっと待っててくださいね」
メイドさんは元気いっぱいの笑顔を振りまいて席から離れて行った。
「え、何これは……」
数分と経たずに運ばれてきたものを見て、俺はそんな言葉を漏らしてしまった。
「私たちメイドが使ってるのと同じカチューシャをつけて、おいしくなるおまじないをできるんですぅ」
メイドさんは俺の言葉に嫌な顔一つせずに説明してくれた。フリフリがついたカチューシャと色鮮やかなドリンクを持って。
「テストに出るからな、メモしとけよ」
メイドさんの言葉に大げさに頷いて、真面目な顔で言うトオルに馬鹿馬鹿しくて言葉も出ない。
「おいしくなーれ、萌え萌えキュン」
俺はしっかりとメイドさんと一緒におまじないをかけたわけだけど。
一通り儀式も済ませて、トオルの興奮も落ち着いたところで俺はトオルに訊いてみた。
「あだ名じゃないけど、名前覚えてもらえてるじゃん」
あだ名を覚えてもらっていないことで落ち込んでいたわけだけど、名前を覚えてもらっていれば充分なはずだ。何をそんなに落ち込む必要があるんだろう。
「そうなんだけど、萌ちゃんに覚えて欲しいんだよ! ほかのメイドさんには失礼だけど、萌ちゃんしか眼中にないから! この気持ちわかんないかなぁ」
獲物を見つめる狩人のように鋭い眼光でトオルは捲し立てた。俺にはまったく理解できないことで、本音を言えば放っておきたいところだった。
だけど、ここでトオルを放っておけば、萌ちゃんへの思いが爆発してどうなってしまうか想像もつかない。
「落ち着け、落ち着け。その萌ちゃんがまずいないじゃん。休みかね」
口に出してしまってから、トオルの熱情に油を注いでしまったかと思ったけど、トオルは落ち着いていた。
「いや、今日は出勤。そのうち来ると思うよ」
淡々と述べる姿はすべてを見通しているようで、なぜか少し怖くなった。
「あ~今日も来てくれたんだ。ヒデティも来てくれてるぅ。やったぁ~」
トオルの言葉通り、萌ちゃんがいつの間にかに俺たちのもとへ現れた。悟りきっていたトオルの無心な表情は消えて、ひまわりのように子供らしい笑顔が灯った。これでもかというくらいの笑顔だ。しかも、事態はまだ終わらない。
「とおるん、グラス空いてるよ。何か頼む?」
ついに萌ちゃんがトオルをあだ名で呼んでくれたんだ。
俺はすかさず、トオルに視線を向けた。目標を成し遂げた人間の顔にどんな感情が宿るのか気になったんだ。
視線の先には快感に溺れ昇天しかかりながらも、満面の笑みを同居させる友人がいた。
それからトオルは何を言っても満面の笑みだった。しかも、会計の時には何も言っていないのに、気前よく奢ってくれる始末。本当に嬉しかったんだろうね――。
すっかり夢の国を堪能して、俺たちは店を出て、メイドさんたちに見送られながらエレベーターに乗った。
エレベーターの中で俺たちは無言だったけど、一階に辿り着き、ついに現実世界へ帰還するとトオルが呟いた。
「今日はいいプレゼントもらえたわ、死んでしまうかもしれない」
心底満足げなトオルに俺は言った。
「よかったな、冥途の土産にぴったりだ」