約束の桜
じゃあげんまん。そう交わした約束。
時は大江戸、場は吉原遊廓、ピリリ、ピリリと小鳥の囀りが空に響く季節。出入りの植木職人、仁吉はようやく来た日に、集まり咲く花の色を見上げながら、胸にあふれる想いを噛み締めていた。
「売られていくとは思ってない、買われて行く!」
幼馴染のお花の勝ち気な声が耳に蘇る。父親は腕の良い植木職人だった。しかしある日剪定をしている最中、蜂に襲われ落ちて命を落とした。幼い弟がいる。母親の稼ぎでは食べるのにも事欠く。
いくばくかあった蓄えも底をついたと、気がついたお花。自分もまだ年端がいかないというのに、自ら口入れ屋の暖簾をくぐった彼女。
食事時に母親の膳が無いことに、その間を惜しんで針仕事に勤しむ姿。暮らすという事には銭がいる。それを二つのみ誂えられた膳を前にし、身に沁みたお花。
彼女自身も近所の手伝いを聞いたり、弟の世話をしながら子守りをし手間賃を幾らか手にしたり、母親の内職を手伝ったりとしていたのだが、所詮焼け石に水という事に気がついたのだ。
「お嬢ちゃん、何しに来たんかい、おとっつぁんとおっかさんは?」
まだ『娘』になっていない彼女を見、主は最初は迷子かと思い声をかけた。
「おとっつぁんは、死にました。おっかさんは朝も晩もずっと、働いてます。だんだん細くなってきて、もう直死んじまうかもしれません!ご飯を食べずに働いている。わたしをどこかに売ってください!うんとたかぁく!お願いします」
「はあ?なんとまぁ、読み書きは出来るのかい?お嬢ちゃん」
「おとっつぁんがいる頃は、寺子屋に行ってました」
大の大人相手に臆することなく話す彼女。その時居合わせていた、店主の馴染みの男の目に止まる。彼は吉原大門の向こう側、大店『暁楼』の主であった。
「なんと!まだ年端がいかぬわっぱのくせして、何という気の張り!よし!お嬢ちゃんや、おじさんがうんとたかぁく買ってやろう、家に連れてってくれないか?」
娘を売ってまで……当然ながら母親は、首を立てには振らない。細くやつれた母親にお花はつけつけと言う。
「おっかさん!このままだと、直にご飯も食べられやしない、着物は襤褸ばかり、どこもかしこも惨めになってから、結局売られるんだ。買い叩かれるんだ。わたしはそんなの嫌」
そう言って泣き崩れる母親を説得したお花。天晴な孝行娘としてかわら版に書かれたのは言うまでもない。楼主は、疲れ果てている嗚咽を漏らす母親に言う。
「見たところまだ子供、十七迄は客を取るような事はない、それにこのままでは客に出せん。先ずは花魁の下につき学んでもらわなならん。茶の湯に三味、習字に踊り、廓の決まりごと、大変だろうが娘ならやってけるだろう」
「お花は吉原に行く、仁吉、さよなら」
同じ職人の父親を持っていた仁吉、彼女とは襁褓の頃から付き合いだ。路地裏で駆けて遊んだ。縁日には両親と共に屋台を覗きに行った。買った花林糖を二人で分けて食べた。
黒砂糖で花林を煮込んた菓子。杜鵑の声を何方が先に聞いたかと喧嘩もした。道端の嫁菜を摘んで歩いた。父親が植えた樹を、育てて出した菊の花を、朝顔、鬼灯を見に行った事もある。
「大きくなったら……」
花火大会の日に片手は父親に握られ、空いた手を彼女に、ギュッと握りそう言った仁吉。聞こえたのか握り返して応えたお花。
「男はめそめそしない!そうだ!約束して」
うつむく彼にお花は強く言う。そうでなければ、まだ子供の頭でこの先の事を考え、不安で怖くわんわんと泣き出しそうだったから。
「約束?なに」
「知ってるよ。吉原大通りの桜。あれ仁吉んところが植えてる。仁吉もおとっつぁんの跡をつぐんでしょ、だからげんまん」
小指を差し出すお花。しばらくためらった後で、黙って絡める仁吉。少しばかり細くなっている華奢なそれが悲しい。
「頑張る。桜の日に道中をはる花魁に、わたしなってみせるから、見に来て!」
「じゃあ!その時植える桜をおれが育てる!満開の花を植えてやる!そん中を歩け!きっとだぞ!きっと……」
ぽろぽろ、ぽろぽろと熱いしずくが仁吉の顔を伝う。大きな瞳いっぱいにためているお花。器量良し、小町になると言われている彼女。何事もなければと仁吉は少しばかり神さまを呪った。
「じゃあ、げんまん!待ってる」
パッと言うと、別れた、年端のいかないあの時。ぴちゅ、ピリリ、メジロが空を飛んでいた。ちびた下駄の音が遠ざかった。
まさに満開を迎えたそれを、生き抜きで運び込む。春の吉原、金に酔狂な客が大通りにそれを咲かすのだ。ひと夜限りの桜並木。江戸の見頃は、ハラハラと花弁が吹雪になる時。
「今年の花は見事だねえ」
仁吉の耳にそれが聞こてる。高嶺の花になった幼馴染みの彼女。手の届かない天女になった彼女。もう、名前も違う。手を泥にまみれさせながら、一本いっぽんを指示を出しながら植えていく。
父親の名跡を継ぐのは近い。そうなれば嫁を取れと言われている仁吉。黙々と土を被せながら想いを埋めて行く。
「げんまん」
そう別れた幼馴染。かわら版に書いてあった、今宵の華となる彼女。好きだった彼女は天女になっている。
「大きくなったら……」
嫁に貰おう、このままずっとお花と過ごしていく。そう信じていた幼い頃。家に帰り、泣いて、泣いて、飯時までうじうじと泣いていると……
「世の中にゃぁ、どうしょうもねえって事もある、江戸の男は引き際って言うんでい!泣きやがるな」
カッ!父親に怒られ、慌てて飯をかっこんだ味は今でも苦く残っている。
ザッ!ザッ!埋めて行く。
「それが終わったら、お前……そろそろ身を固めろ」
身請けなど到底出来ない。わかっている。わかっている。ひと目千両、会うことも叶わない相手なのだから……。仁吉は腰を伸ばして花を見上げた。
五弁の花びら、深紅のうてなが支えている。芯がより薄紅色に染まるよう、外側は白になる様、仁吉が肥料を考え丹精込めて育て上げたその色。
「わあ……あね様とってもきれい、ほら早く見なんし」
「そんなに?おやおや、ほんに今年の桜は綺麗」
何処かの楼の窓から、禿が見下ろしているのだろうか、懐かしく聞き覚えのある声が、聞こえた気がする。
「それにしても見事なこと……こんな美しい中で道中はるわっちは……幸せ者でありんす」
花魁の艷やかな声が聴こえる。仁吉は花を見上げて動かない。ぴちゅぴちゅ、ピリリ、あの時と同じメジロが鳴いている。
柔らかに吹く春の風がちらちらと花を揺する。それはくすくすと笑うかのようにゆれていた。熱いものが頬を伝わる仁吉。首にかけている手ぬぐいでぐいと拭う。
「男はめそめそしない!」
澄んだ子供の声が頭に響く。ほんに綺麗と聴こえた艷やかなそれに重なる。江戸の男は引き際、うじうじしてたら……、とんでもねえ野暮だ!思い切る。
ごつごつとした手の泥を拭う。清らかに咲く花に、そろりと触れる仁吉。
ひやりと冷たい花びらに触れた。仄かに甘い香りに包まれる。ハラリはらりと落ちる花。
ぴちゅぴちゅ、ピピリ、ゆさゆさと風が無いのに揺れる枝、しなる花の群れ。落ちる花びら。鳥が蜜を吸うために止まり、飛び立ったのだろう。仁吉を呼ぶ声がする。次する事を問うてくる。
「ああ、今行く」
日々の銭を稼ぐため、男は花を植える。
己の借銭を返すため、女は雅な華になる。
メジロは生きる糧を得るのに花に止まる。
――、そして、約束の桜が吉原大通りに鮮やかに、艶かしく今宵咲く、白い花吹雪の中を、美しい天女が舞い降りる。
終