ひと休み日常回
忘れてしまうということに、俺は一種の恐怖を抱いていた。
あの時見た光景を、感じた雰囲気を、聞いた声を、話した内容を……それらを思い出せなくなることは、果たして良いことなのだろうか? そう、常々疑問に思い続けていた。
忘却というのは、人に備わっている大切な機能の一つ。
忘れられるから人は過去に囚われることなく前に進める。忘れられるからこそ、人は新しいことを始められた。
だが、置き去りにして良いことばかりがこの世の全てじゃない。
――神無月悟。
この世界にいた奴の名前。そして、今はもう呼ばれることのない名前。出席番号はいつも俺の下で、何かペア決めの時はいつも組まされていた。成績優秀であり、そのくせ女子にモテる。運動は苦手で身長が低いことをコンプレックスにしていて、その事がさらに女子ウケを助長させたにも関わらず、いつも彼女たちには苦笑いでかわしてた。
記憶を辿れば、そんな情報は思い出せる。だが、過ごした瞬間瞬間を思い出すことは難しくなりつつあった。
記憶は風化するもの。思い出は色褪せるもの。
楽しかった想いや、悲しかった感情さえもが、まるで不必要だと言わんばかりに有象無象の記憶の底に沈み行く。
そのことに俺は恐怖した。
抵抗する術はなく、それだけを抱え続けるのは難しい。
だから、せめて……少しでもそれを遅らせるために、俺は新しい感情を増やさないことにしたのだ。
彼はこれまでの人生における最大の親友だった。そして、これからもそう在り続けるためには、新しく親友になる可能性を潰せばいい。
結果、俺は誰かと親密になることを辞めてしまった。
忘れて前に進むよりも、自ら囚われて留まることを選んだ。
それが間違いだと分かっていたし、誰かに話せば反論されることも予想できる。
分かりきっている。
それでも、俺はまだ……それを無かったかのようにして笑って生きる自分を許せないままだった。
◆
昼休み。教室。そこは、友人たちと親しげな時間を楽しむ者たちによって、既に空気が侵食されつつあった。
その空気に耐えきれない者は、独りでいてもなんらおかしくない環境へと移動し、また、ある者はその環境に適応するための労を尽くそうとする。五月はまだ、友達作りを実行する期間内としてはギリギリセーフと言えなくもない。
俺は、そんな奴等を尻目に、タッパーに詰め込んだ特大一合ライスを机のど真ん中に置き、保温性の高いスープジャーの蓋を開け、高々と掲げた。
「こんな空気……この俺が滅茶苦茶にしてやるよ」
掲げたスープジャーをゆっくりと傾ける。立ち上る湯気、注がれる液体。
それは、独り暮らしにはコスパの良いカレーという飲み物であり、ライスに掛けることによって、カレーライスという日本人が愛してやまない最強の料理へと早変わりする代物!
「――おっ、おいアイツ……嘘だろ」
「――ばっ、馬鹿なっ! ここは教室なんだぞ!」
「――それを掛けたらどうなるのか知っているのか! アイツは!」
……すまないな。昨日の晩飯の残りなんだ。ここは、勿体ない精神で行かせてもらうっ!!
驚愕の顔顔。突き刺さる視線の数々。だが、俺はなに食わぬ表情で、それをライスへと注ぎ込むっっ!!!
「……いただきます」
持ち変えたスプーンは、歴戦の鈍い光を放っていた。目の前のカレーライスは、その臭いを恐るべき速度で教室内へと轟かせた。
一口すくって……食べる。
「コクが出て旨いな」
大胆不敵な食レポに、クラスメイトたちが顔をひきつらせた。食べたくなったのだろう。だが、教室では食べれまい。周りの目を気にしている君たちには、到底無理だろう。
俺の周囲から人が遠ざかっていく。誰かが無言で窓を開けた。
彼らによって侵食されていた空気はいまや、俺のカレーライスが放つ強烈な臭いによって支配されていた。
クックックッ……怯えるがいい、愚民共。そして恐れるがいい、大迷惑な俺を。そして近づいてきたりなどするなよ? 俺は、君たちと親友になるつもりはサラサラないのだから……。
そして震えろ。
俺は、彼らを絶望の縁に追いやるため、トドメの一発をかましてやる。
「たくさん作りすぎたからからなぁ……明日のランチもカレーだな?」
その言葉に、クラスメイトたちは嫌悪感を露にした。




