葉連さん
「――い! おいっ!」
まぶたを開くと、眩しい光に顔を歪めてしまう。
なんだ……?
何がなんだか分からず、体の節々からくる痛みにもう一度顔を歪めた。
「良かった。死んでるのかと思ったぁ……」
聞き覚えのある声になんとか顔をあげると、そこには隣に住む葉連さんが安堵の息をついているところだった。
「あれ……? おはようござ……」
言いかけて、自分の喉から出てきた絶望的なかすれ声に驚く。怠い。そして、ひどく眠い。明らかに体調不良。
それから昨夜のことを思いだし、納得してしまう。
「なんでこんなところで寝てるの?」
葉連さんの呆れたような、心配したような声が上から降ってくる。俺はなんとか体勢を整えて座り直し、質問には答えず顔を覆った。
「ねぇ……聞いてる?」
「すんません。鍵がなくて」
「鍵無くしたの? なら、私の部屋を叩いてくれれば良かったのに」
「いや……葉連さんめっちゃ酔ってたじゃないですか」
「ふぇ? うそ……私もしかして鹿羽くんに介抱された!? え……じゃあ、鍵無くしたのって私のせい!?」
どうやら、昨夜のことを葉連さんは覚えていないらしい。
昨夜、葉連さんは部屋の扉の前で力尽きていた。とても女性らしさなど無い哀れな姿で「むにゃむにゃ」と可愛らしい寝言にも似た呟きを吐きながら、泥酔した状態で倒れていた。
アパートの壁は薄く、外から聞こえる物音に起きてしまった俺は、そっと外を覗き驚いた。そうして彼女を揺すったのはまだ記憶に新しい。
「あー……いや、鍵無くしたのは葉連さんのせいじゃないです。そのあと散歩してきて……その時に」
「えぇ……? 夜に出歩くのは危ないよ?」
どの口が言うんだ、どの口が。若い女性の身でありながら、昨日酔ってぶっ倒れていた人に言われたくない。
「取り敢えず大家さんに言いに行こう? たぶんマスターキー持ってると思うし」
「はぁ……」
言われるがまま、立ち上がる。だが、目眩がして倒れそうになり、何とか倒れまいと掴んだドアノブ。
そしたら、扉がガチャンと音を立てて開いた。……え?
「開いてるじゃない……」
嘘だろ……。俺は呆気なく開いた扉と、その奥に見える自室を呆然と眺める。そうか……鍵を無くしたんじゃなく、最初から持ってなかったのか。
あまりにも簡単に解かれたカラクリに、もはや笑いしか出てこない。それでも、現在の体調では笑うことすら出来ず、頭を抱えるしかなかった。
「鹿羽くん? もしかして……君……」
「それ以上は言わないでください……」
なんともマヌケ過ぎる結末。それを見られた羞恥心に死にたくなってきた。
「取り敢えず……私の部屋にくる? その様子じゃあ、ご飯とかも作れないでしょ?」
「葉連さんは……出かけるところじゃないんですか?」
「いや、こんな格好で出かけるわけないじゃない。ゴミ出しに起きたところだよ」
よく見れば、彼女は確かに部屋着のままだった。
「……今何時ですか?」
「7時回ったところ。バイトに行くのはまだ一時間後だから余裕あるよ」
「そうですか……いや、でも迷惑になるんで」
そう言って、俺は会話を終わらせようとする。そのまま部屋に戻ろうとしたが、腕を葉連さんに掴まれてしまった。
「待って……って、なんで服濡れてるの!?」
彼女は驚いたように言い、力付くで俺を引き寄せて反対の手で額を触れてくる。
「熱あるじゃない……えっ……昨日何してたの?」
「あぁ……なんか急に雨降ってきて」
「……雨?」
彼女は空を見上げる。そこには小鳥のさえずりでも聞こえてきそうな青空が広がっていた。
「……夜の話で」
「道路ぜんぜん濡れてないけど……?」
「おかしいな……ははは」
「笑ってる場合じゃないでしょ! こっち来なさい!」
途端に怒鳴られ、葉連さんは自室に俺を連れ込む。もはや抵抗する気力すらなく、俺はされるがままに部屋へと転がりこんだ。
「服脱いで」
「いや、女性の前で裸はちょっと」
「恥ずかしがってる場合か! 知ってるでしょ? 私が男に興味ないの」
「……知ってますけど」
「しかも年下に興味ないし。同性は同性でも、男らしいタチが好みなの」
「はぁ……」
「早くシャワー浴びなさい。別に見ないから」
「……はぁ」
俺は、自室の間取りとは逆にある風呂場へと押し込まれてしまった。
「君の着替え取ってくるから。部屋開いてたよね?」
「いや……それは……それだけは……」
俺の部屋は、『誰にも文句など言われない男の独り暮らし』をそのまま体現したような有り様になっている。着替えはベランダに干してあるものをそのまま取ってくるのだろうが、問題は散らかった床だ。たしか卑猥な雑誌もベッドの上に放置されたままのはず。
なんとかそれだけは阻止しようと風呂場から出たものの、既に葉連さんは外に出ており、ガチャンという音が薄い壁の向こうから聞こえた後に「うわっ!?」という悲鳴にもにた声が聞こえ……俺はゆっくりと風呂場のドアを閉めた。
最悪だ……。
完全に見られた。だらしない生活の惨状を完全に見られてしまった。
死のうかな……。本気でもないくせに言ってみる。いや、もうこうなったらこの状況を楽しんでやろう。
葉連さんの風呂場に入れる機会など滅多にない。見渡せば、彼女が使っているであろうボディソープやシャンプーが並んでいて、もしかしたら朝シャワーでも浴びたのかもしれない。女性特有の甘い香りが……あれ? 鼻が効かないぞ? 取り敢えず、俺は彼女の普段の生活をそれらか妄想してみる。
だが、あまりにも気分が優れないせいで、全然妄想は捗らなかった。むしろ、そんな自分の気持ち悪さと体調不良とが相まって、立っていることさえ難しくなってくる。マジでヤバいのかもしれない。
だからもう、おとなしく従うことにした。
タイル張りに自分の服を脱ぎ捨て、蛇口を捻って熱いシャワーを浴びる。それが肌に触れた途端、自分の体温がどれだけ下がっていたのかを思い知らされた。
いつまでもこうしていたい。熱湯はとても心地よい。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかず、濡れた体のまま風呂場の扉を開ける。常にそうしてあるのか、きちんと畳まれたバスタオルが目の前の棚にあった。室内に干してあるバスタオルを引っ付かんで使用し、洗濯機とでループさせてる俺とは大違いである。それで体を拭いていると、ようやく俺の服を抱えた葉連さんが戻ってきた。
「これで大丈夫?」
「……いや、すいません」
「そこは『ありがとうございます』でしょ?」
「……はぁ」
アイロンなどしていないシワだらけの服。あまりの惨めさに、わりとマジで死にたくなる。シワを残してはいけない制服やお気に入りの服なんかは、シワを伸ばしてから干しているので、俺の生活にアイロンは殆ど必要ない。つまりアイロンで火事になることはないということ。安全だねっ。……いや、持ってないわけじゃない。部屋の隅でアンティーク化してるだけ。
いろんな感情ない交ぜになりながらも、その服に体を通した。乾いた服は温かくて気持ちいい。
葉連さんはそのまま、奥のキッチンに立っていた。
「ありあわせだけど、お粥作るから待ってて」
「葉連さん時間大丈夫ですか?」
「いや、病気の隣人残して行けないでしょ。あとで連絡しておく」
「絶対サボりだと思われますよ」
「思われても良いじゃない。だからなに?」
強気な言葉に俺は苦笑い。葉連さんは強い。その言葉からも、彼女の性格が窺えた。
そんな彼女は、言葉通り男に興味がない。葉連さんは同性愛者だ。そんな真実を知ったのは半年ほど前のこと。既に彼女への恋心を秘めていた俺にとっては、最悪の告白だった。
それでも、淡い希望は持ち続けた。
儚い夢を抱き続けた。
だが、葉連さんはどうしようもないくらい男に興味などなかったのだ。
そうして、昨日の彼女を思い出す。
昨日、葉連さんは定期的に街で行われている『そういった者同士での飲み会』に行ってきたらしい。
どうやら、ネットなんかで検索すればそういった事はわりと何処でも行われているらしかった。だが、そういった飲み会なんかに参加している葉連さんは、いつも独りで帰ってくる。
そうしてだいたい、他の人たちに対する愚痴を溢すのだ。
そして、その度に俺は思い知らされる。
この人と俺が恋愛をすることはないのだ、と。甘い一時を夢見ることは、ただの妄想なのだ、と。
その度に……俺は俺の中で失恋をしていた。
フラれるわけじゃない。告白をしたわけでもない。
ただ、どうしようもない事実を知らされることで、俺の恋は絶対に叶わないのだと理解させられるのだ。
彼女はそんな世の中に嘆き、俺は彼女を助けてくても助けられず、救う手立てさえ分からず、ただ立ち尽くすしかなかった。
トントンと包丁でまな板を叩く音がする。コンロから出る火が、鍋の中の水を沸騰させて小さく煙を揺らしていた。
小さな卓上の前で待つ俺は、お尻の下にあるクッションの気持ちよさにウトウトしてしまう。
スタイルの良い葉連さんが俺の為にお粥を作ってくれている姿を眺めながら、いつの間にか俺は再び眠りについていた。
意識があまりにもハッキリしていなかったせいで、その光景が夢なのかと思ったほど。その境目が分からなくなったから、寝ていることにさえ気付かなかった。