始まり。
「――あ」
「――へ?」
それを偶然と呼ぶには、あまりにも出来すぎていた。
ジョギングの最中、既にコースと化している通り道。そんな途中の橋の上。等間隔に並んだ街灯の下。
そこには、いつかみた光景と全く同じ場所で四乃崎がガードレールにもたれ掛かっている。
「……なにしてるんだ」
「鹿羽くんこそ……こんな時間に。もしかしていつもこんな時間に走ってるの?」
「いや、なんか眠れなくてな」
「そう……」
「お前もか」
「……まぁ、そう」
ぎこちない会話。戸惑いを隠せていない距離感。
それが妙におかしくて、俺は吹き出してしまう。
「……なんで笑う」
「いや、なんか馬鹿みたいだなって」
俺も四乃崎も相談すべき相手がいるくせに、こうして独りで悩んでいる。たぶんそれは今に限ったことではなくて、これまでずっとそうだったのだろう。
その癖が抜けていないのだ。
それがアホ臭くておかしかったのだ。
「悩んでるん……だよな?」
聞いた言葉に四乃崎の反応は鈍かった。つまりはそういうことなのだろう。
だが、それに対して「聞いてやるから話してみな?」なんて高慢な言葉を俺はかけることができない。
なぜなら、自分もまたそうだったからだ。
だから。
「一つ聞いてくれるか?」
それは俺から話すべきだと思った。
「……なに」
四乃崎はそんな俺を訝しげに見ている。その視線から分かるのは俺と彼女の距離。俺たちは付き合っているくせに、半年前から少しも距離が縮まってはいない。
それを縮めてはいけないのだと俺が考えていたからだ。
今の俺では四乃崎を幸せにすることはできないと、そう考えていたからだ。
「俺は、たくさんの時間を四乃崎から奪った。お前が友達と過ごせたであろう時間を、他の恋人と楽しく過ごせたであろう時間を……たくさん奪ってきた」
高慢にも、彼女を救うにはそれしかないと考えていた。
俺がやれること、俺が彼女にしてやれることには、たくさんの時間が必要だったからだ。
「覚えているか? あの日俺がお前に約束したこと。それを果たすために俺はお前を長い間拘束してきたように思う」
「それは……でも、鹿羽くんは私のために――」
「そうじゃない」
言いかけた言葉に首を振る。
そうじゃないのだ。
「確かに俺は四乃崎のため、それだけを大義名分にしてやってきた。だが、そのために多くの時間を奪ってきたことだけは確かなんだ。そのことを別に謝ろうとは思ってない。あの日下した決断に対して、俺は間違ってないと思うから」
「うん」
「ただ、これからはそうあってはならないと思ってる。俺は、これ以上四乃崎の時間を奪ってはならないと思ってる」
そう言った瞬間、彼女はハッと顔を上げた。
まだ距離はあったものの、瞳の奥が揺れていたのを俺は認める。
「四乃崎を拘束していたのは、お前が危なっかしかったからだ。だから、俺はお前の行動全てに対して監視するために孤立を選んだ」
最近の四乃崎からはそんなことを感じない。もう、彼女を拘束しておく意味はないように思う。
「解放するべきだと思うんだ。俺は、お前を自由にしなきゃならない」
そしてその為に必要なこと。それは……。
「待って! 私も言わなきゃならないことがある!!」
それを言いかけたら、今度は四乃崎が声を荒げた。その気迫に驚いて思わず言葉を切ってしまう。
「違うの! 私は……たしかにあの日、私は鹿羽くんに拘束されることを選んだ。それしかないと……思ってた。そうするしか……ないと思ってたの」
四乃崎はサッと視線を逸らしながら早口でまくし立てようとする。その気持ちが空回りしているのか、言葉はよくつまずいた。
それを補うためなのか、言葉がつまずく度に四乃崎は一歩、また一歩と俺に近づいてくる。
「でも……鹿羽くんはそうじゃなくて……その、たしかに時間はかかったけど本当に私のためを想ってくれてるんだなって思ったの。それは……たぶん皆には理解なんてされなくて、私が鹿羽くんと付き合っているのが、たぶん皆からは不思議で仕方なくて……でも、最近の皆はだんだん分かってきたようにも思う」
言葉はつまずいては転び、それでも立ち上がる。もはや文脈は体をなしてなかった。それでも彼女は一歩一歩近づきながら、なんとか気持ちを吐き出している。
「鹿羽くんは私の時間を奪ったかもしれないけど……そのぶん私は本当に救われた。私……覚えてるよ。あの日鹿羽くんが「不幸を背負ってやる」って言ったの。本当にあなたはそれをしてくれて……その、私はそれにずっと甘えてて……だからたぶん正気でいられたんだと思う」
彼女がつまり何を言いたいのかを俺は必死で聞き取ろうとしていた。そして、やはりもう彼女を拘束しておく必要はないことを確信していく。
タンっと四乃崎が止まったのは、手を伸ばせば触れられる距離。
目の前にいる彼女の表情が、よく見えた。
そんな距離で四乃崎は浅い呼吸をして俺を見つめてくる。
次の言葉を待っていたが、彼女は口を開きかけては閉じて、歯がゆい表情を俺に向けた。
やがて、何を思ったのか四乃崎は腕を持ち上げて振りかぶり――俺は殴られてしまうのではないかと思って……まぁ、それも妥当かと諦めて……なのに。
その手は、俺の腕を掴んだのだ。
「違うの。私が言いたいのはそんなんじゃなくて……ただ、鹿羽くんにありがとうを言いたかっただけなの」
その手がギュゥと強まる。
「で! その、さっき鹿羽くんは私を拘束してたって言ったけど、拘束していたのは私なの。私も……たくさんの時間をあなたから奪ってきた!」
あぁ、と俺は納得する。
罪悪感。それが四乃崎の根底にあったのだと理解した。
俺が彼女に対して、そう思っていたように……彼女もまたそう思っていたのだ。
「そうか、わかった。なら……お互いにここで終わりにすべきだよな」
ゆっくりと告げた。
それに四乃崎は悔しげな表情をして、ふるふると首を振るのだ。
「違う……そういうことじゃなくて!」
もう、俺はこれ以上待つつもりはなかった。
だから、浅く息を吸って俺は終わらそうとした。
そしたら……目の前の四乃崎がもう一歩近づいてきて、俺の顔に自分の顔を寄せてきたのだ。
―――。
驚いて回避できなかった。そんなこと予想していなかったから。
サッと顔を離した彼女の顔は真っ赤になっていた。それでも視線は逸らさず、俺を見据えている。
「私は……ッッ、終わりなんてイヤだ! 私はあなたとこれからも居たい! ずっとそれを言いたかったけど、その前に言わなきゃいけないことがたくさんあって……だから、できなくて……でも、私はこれからも鹿羽くんといたい!」
言葉が出てこなかった。ただ、その気迫に押されて一歩よろめいただけ。
「ずっと言わなきゃって思ってた。でも、そんなこと全然言える雰囲気じゃなくて……それで悩んでたんだ。だから、もし……その……鹿羽くんがよかったら……これからも私と居て欲しい。最低なお願いをしてるのは分かってる。でも、これが今の私」
そこまで言い終えた四乃崎は、やはり視線を逸らす。ただ、掴んだ俺の腕だけは離さない。その腕の力は弱くなっていて……俺が振りほどこうとしたなら、きっと簡単に振りほどけてしまうだろう。
「……ははっ」
乾いた笑いが出てしまう。
本当に……俺たちは、馬鹿だったんだと心底思った。
腕を振りほどくことはない。むしろ、今度は俺の方から四乃崎に近づいた。
それに気づいて彼女は見上げてくる。その顔は今にも泣きそう。
「俺が終わらそうとしてるのは契約のほうだ」
「契約の……ほう?」
「そうだ。俺は四乃崎を拘束してきた。その事実を終わらせようと言ったんだ」
終わらせなければならないのは俺が彼女を拘束していること。それを終わらせて、彼女を自由にしなければならない。
だが、それを俺は、心のどこかで嫌だと感じていた。口約束だが、成績で一位を取れないこと、生徒会長になれなかったこと、それらを言い訳にして……拘束を先延ばしにすることを無意識に考えていた。
「きっと、終わるべきことは自然と終わるんだ。誰かが終わらせる必要なんてない。それが終わらないのには理由があるんだと思う」
誰もが、知らずのうちにそれを始めてしまう。
そして、始まったことに気づいては苦しみ、終わらせかたに悩んでしまう。
ある者は、死ぬことによってそれを終わらせた。
ある者は、そうやって強制的に終わらせたことを認めたくなくて、勝手に引き伸ばした。
もう終わってしまったことなのに……ぐじぐじとそれを抱えて、自分までもが腐っていくのを感じながら、そこに正義を見出だしていた。
だが、見るべきことはそこじゃなかったのだ。
なぜ終わらせたくなかったのか、考えるべきはそこだった。
「俺が終わらせずに頑張ってこれたのは四乃崎……お前のおかげなんだ。そこに俺は感謝をしてる。お前のおかけで、俺はなんとか終わらせることができた」
俺が悟のことを終わらせないようにしていたのは、やはり俺がアイツを大切に思っていたからだ。それは、アイツが願ったことではなかったけれど、きっとその気持ちは、もっと別の終わらせかたを探すことができたはずだ。
そのためにちゃんと始めてほしかった。
ただ、これを四乃崎に言ったところで何も分からないだろう。
それでいい。今は、それを説明すべきじゃない。
今言うべきことは、俺が終わらせてから始めること。
ちゃんと始めれば、ちゃんと終われる。
だから、悟にはちゃんと始めてほしかった。その気持ちを生きている時に言って欲しかった。それが気づかぬうちに始まっていたからこそ、ちゃんと終わらなかったのだから。
「主従の関係は終わりにしよう。俺は約束したことを守れなかったが、それでもこの関係は終わらせるべきだと思う。それは俺が四乃崎をちゃんと好きになったから」
言葉はすんなり出てきた。
当たり前だ。既にそれは四乃崎から言われてしまったから。
先手を取られたと思う。その点に関しては少し悔しい。
「ほんと……?」
「あぁ。だから俺は、お前を自由にして、それから告白……の流れだったんだが……」
妙な間に包まれる。それを破るように、彼女は俺に抱きついてきた。
「嬉しい! 本当にッ!」
それを俺は、そっと抱きしめて返す。
そしたら、腕の中で四乃崎が顔を上げた。
「もう一度キスしていい?」
溜まっていたものが溢れたのだろう。彼女の頬には涙が伝ったが、表情は溶け、囁かれる声は艶を帯びている。
抵抗する気にはならない。むしろ、それは望んでいたことでもあったから。
今度は俺からそっとキスをする。
そのまま俺たちは、抱きしめる腕の強さだけを頼りに互いの気持ちを確かめあった。
唇が熱い。それでも……長くかかった時間を取り戻すかのように、俺も四乃崎も離れようとはしなかった。
そうして、ようやく顔を離したとき、四乃崎はイタズラっぽく笑う。ただその表情には堪えきれない幸せが滲んでいて、たぶん感覚がないだけで俺もそうなのだろうとだけボンヤリ思った。
ちゃんと始められたのだと実感した。
俺は、できたのだと安堵した。
それにはいつか終わりがくるのかもしれない。
だが、こうしてちゃんと始まったからこそ、それはちゃんと終われる。
そのことに、俺は心底安心したのだ。
「好きです。鹿羽くん」
「……逆だよな、その告白めいた感じ」
「うん。でも、最初から逆だったよね? 付き合ってから何にもなくて……こうしてようやくその……キス、できて……だから、ちゃんと告白したい」
「そうか。俺もだ四乃崎」
そう言うと、彼女はふふふっと笑い。
「じゃあ、今度はちゃんと順番通りに」
そして、目を瞑ったのだ。
それに俺は苦笑いしたが、息を吐き出してからもう一度彼女にキスをする。
今度は先程よりも短い時間だったが、それでも息苦しくなるくらいにはキスをしていた。
それは、あまりにもスタートダッシュが過ぎるように思う。
このままの勢いで愛し合ったりなんかしたら、二人揃って倒れてしまいそうだ。
……まぁ。
「またして?」
「またか」
「うん」
「気の済むまでな?」
「うん」
もし二人揃って倒れたとしても、今度はちゃんと立ち上がれるだろう。
それは予感なんかじゃなく、強い確信だった。
随分と時間がかかってしまいましたが、ここで完結とさせて頂きます。
ここまで読んでくださりありがとうございました!!
私はハッピーエンドを書くことが出来なかったため、別サイトでこっそりハッピーエンドの練習をしていたこともまた、お待たせしてしまった理由になります。
今ではもう、キスシーンも無表情で書けるようになりました。∮(・-・ )←
物語的には中途半端な部分もあるかとは思いますが、私が書きたかったことはちゃんと書き終えられました。
それもこれも読者の皆様あってのことです!
本当にありがとうございます!




