悪魔の契約
更新を停止させていた二つ目の理由になります……。
「どうしよう……。わたし、どうすればいいの……」
四乃崎の声はか細かったが、幾分か落ち着いているようにも思えた。
「何が不安なんだ」
「これからのこと……春馬くんのこと……私、もう……」
何を言いたいのかは全て聞かずとも分かった。
何もかもが壊れてしまい、これからどうすれば良いのかすらわからなくなったのだろう。
「とりあえず着替えろよ」
そう言って離れようとするが、掴まれた裾は放されない。
「うまくいくって思ってたの。いざとなれば受け入れられるって……。そうやって行けば、いつかは慣れるものだって思ってた」
「春馬は、その……無理やりしようとしたのか?」
それに彼女は首を振る。
「優しくしてくれた。でも……それでも私は無理だった。私が思っていたのと……違った」
「そしたら春馬が怒ったのか」
だが、それにも彼女は首を振ったのだ。
「申し訳なくなって謝った。……でも、春馬くんは納得してくれなくて、それで……怖くなって逃げようとして……」
なんとなく、状況が見えた気がした。
春馬も分からなくなったのだろう。
付き合っているのに恋人らしくない四乃崎。その意味を無理やり埋めようとして勝手な解釈をつくりあげた。
その解釈には、四乃崎に彼氏がいたことが大きく反映され、春馬は『自分が試されているのではないか?』という不安を抱えたのだ。
ただ、勝手な解釈をしたこと自体は間違いじゃない。そんなのは誰にだってあることだ。
そもそも、根底にある間違いとは"四乃崎に彼氏がいたこと"なのだから。
春馬が間違えたのは手段の方。自信がないから……どうしても成功させたかったから……彼はとても強引な手段に打ってでた。
その強引さを、恋人だからという大義名分で片付けようとした。
春馬が犯した間違いはそこにある。
そして、月島もまた間違えた。
月島の間違いは、春馬の言葉を鵜呑みにしたことだ。
春馬の勝手な解釈を審議せず、春馬の言葉だけを信じたこと。
だから、月島の思考視野はひどく狭かった。春馬の『恋人だから』というフィルターを通してしか二人を視ていなかったから。
もし、月島が四乃崎に真相を問いかけていたなら、もっと違った結果になっていたはずだ。
まぁ、それでも。
「四乃崎が悪いな」
「……うん」
そもそもの要因をつくりあげたのは彼女自身。
四乃崎が嘘などついていなければ回避できたこと。
「私、馬鹿だね。自分からそういうことをしたくせに、結局いろんな人を傷つけちゃった……。春馬くんも……月島くんも……ヒメも、エリも……鹿羽くんだって……」
声が沈んでいく。そしてまた、声が湿り出した。
「ほんと……私ってこんなに……迷惑な存在だったんだ」
やがて四乃崎は静かに涙を流した。
「もう……消えちゃいたいよ……」
どうしていいのか分からない四乃崎はそう言ったのだ。
俺は大きく息を吐く。
迷いをそこに含ませて。
そうすれば、諦められるような気がして。
選びたくないことを、覚悟を持って選べる気がして。
「四乃崎……顔あげろ」
いつかの四乃崎はキスによって俺に勝とうとしてきた。
人は自分の実力ではどうにもならないと悟った時、やはり強引な手段に出る。
そうやって伴わない実力の差を埋めて、結果に追っ付けようとするのだ。
春馬もまたそうだった。
月島だってそうだ。
そして、俺もまた……高すぎる目標を実現するためには、そういった手段をとる。
四乃崎が濡れた顔を上げた。
そこには、今にも壊れてしまいそうな雰囲気があった。
だから、それが壊れてしまわぬうちに俺は左手を素早く拾い、そしてそのまま――彼女の首を掴む。
「……かッッ!」
衝撃で一瞬、四乃崎は呼吸を止めた。
目が見開かれた。
「そんなに消えたいのなら消してやるよ。俺がこの手で」
指先で動脈がうねる。温かさが伝わってくる。
彼女は驚いていたが、抵抗はしなかった。
そして、悲しげな瞳を俺に向けてポツリと呟くのだ。
「……うん。ごめんなさい」
何もかもを諦めたのか、それだけを四乃崎は告げる。
「お前……いつか言ったよな? 俺に自分を制御してくれって。だが、そんなのは無理だ。俺にはお前が何をするかが全く分からない。分からないものは止めようがない」
そう。それは無理だ。俺には四乃崎を制御なんてできない。
それでも……曲がりなりにもやり方がないわけじゃない。
それは完全に支配すること。四乃崎の挙動、行動が読めないのなら、いっそのこと自由を奪ってしまえばいい。
「お前はいつだって自分の首を締めてる。そうやって、自分から不幸を招いてる。だから……お前が自分の首を絞めないよう、俺が、お前の首を絞めておいてやる」
「……鹿羽くん」
「俺は、お前を幸せになんてしてやれない。そもそも幸せなんてのは、自分で掴むしかない。だから俺にはどうしようもない。お前が自分で頑張るしかない」
幸せは平等じゃない。平等だったのは不幸のほう。
誰もが何かしらの不幸を持っていた。だから、誰もが幸せになりたいと願うのだ。
「選べ四乃崎。これから先、自分一人で頑張るか……俺に支配されるか。何度も言うが、俺はお前を幸せになんてしてやれない。だが、お前が恐れている不幸だけは一緒に背負ってやれる」
「私が恐れる……不幸」
幸せは自分で掴むしかないのと同じで、不幸もまた、自分一人ではどうすることもできない。
不幸は、誰かに頼らなければならない。一人では決して消すことなどできはしない。
だから俺は一人を選ぶ。俺の不幸は消してはならない。
それは、無かったことにしてはならない。
それでも……俺には目の前の不幸を見過ごすことができなかった。
「どうすれば良いのか分からないのなら、俺がお前を動かしてやる。それが良い結果になるとは思わないことだ。人はいつだって間違えるからな」
彼女の瞳は揺れていた。だが、それは涙による揺らぎであって、奥底にある物は動いていない気がする。
「選べ四乃崎。これが悪魔の契約だ。お前の自由を俺にくれるなら、俺はお前の不幸を半分消してやる」
四乃崎は俺を呆然と見ていた。
やがて、言葉を吐き出すために一旦唾を飲み込む。
左手の中で喉が動き、止まっていた空気を彼女は小さく吸い込んだ。
「……はい。私の自由をあなたに上げます」
ゆっくりと、確かな声で彼女は答えた。
それに俺は頷くと、首から手を放す。
「なら、とりあえず着替えろ。そして涙は拭け。あと……契約なんて仰々しい言葉を使ったが……あくまでもそれは卒業するまでの話だ。だから、仮契約期間みたいなもの」
「仮契約……」
「あぁ」
俺は、カバンを渡し直すと立ち上がって部室から出た。
そして、外にいた月島と……現在も四乃崎の彼氏であるはずの春馬を見やる。
おそらく、今の彼には何を言っても無駄だろうな。
だから、俺は月島へと視線を戻す。
「月島。お前は今回のことを黙っていて欲しいと言ったな?」
「……そうだね」
「そうか。なら、取引しないか」
「取引……?」
「そうだ。黙っておいてやる変わりに、春馬は四乃崎と別れる」
「それは……でも、もう……別れるしかないと思うけど」
「条件は一つ」
「……条件?」
疑問符を浮かべた月島に俺は笑った。
「別れた原因は、『鹿羽が春馬から四乃崎を奪った』。それを皆には吹聴してほしい」
「なっ……!? それは……春馬が可哀想だ」
「別に構わないだろ。全てをばらされるより」
「それに、そんなことをして何の意味がある? 君のためにも、そんなことはしないほうが……」
「俺の為じゃない。四乃崎の為だ」
「四乃崎さん……の?」
「あぁ。だから、俺の心配なんてしなくていい」
月島は少し考えていた。おそらく、それが起こった世界線を想像しているのだろう。
そんなにも頭は回るくせに、春馬を信じすぎているのが奴の間違い。ただ、まぁ……今回のことでそれには気づいただろう。
やがて、月島の視線が俺に戻ってきた。
「君は……あくまでも四乃崎さん側でいるんだね?」
「あぁ」
「そうか。僕には……正直、四乃崎さんよりも春馬の方が大切だ」
「だから何だ?」
「取引は飲ませる。ただ、条件は考え直してほしい」
「ダメだ。その条件ありきでの取引だ」
「彼女を取られた春馬が周りから何言われるか、君は想像してるのか?」
「知らないな。たぶん、励ましの言葉だろ?」
「よくも……そんなこと言えるね」
月島が睨み付けてくる。それでも、これは飲まざるを得ないはずだ。
「……わかったよ」
月島は承諾した。
「それともう一つ……これは提案なんだが――」
その後、俺はとある提案を月島にした。その提案に、彼は驚き、俺をまじまじと見ていた。
「――それ本気かい?」
「あぁ、もちろん」
「訳が分からない。そんなことをして何になる」
「四乃崎のためになる」
「理解できないな」
「しなくていいさ。俺だけが理解していれば」
そして、彼に詰め寄った。
「……それで受けるのか?」
月島は苦々しく俺を見ていたが、やがて頷く。
「それは、春馬にとっては良いことだろうしね……」
少し驚いた。確かにその提案は、春馬には救いであるかもしれないから。
「いいよ」
彼は、本当に春馬を大切に思ってるのかもしれない。
俺は月島を少しだけ勘違いしたのかもしれないと……そう思った。
なにはともあれ、準備は整った。
あとは……四乃崎の自由を完全に奪うだけだ。




