つくられた猶予
俺は、春馬の胸ぐらを掴み勢いのまま壁へと押しつけていた。
そんな彼は痛みよりも動揺の方が大きいのか、目を見開き何か言おうと口さえも開いてはいるが、何も言葉など出てこず、ただ俺を見つめるだけ。
「……違う」
ようやく出てきた言葉。首は小刻みに振られる。
「何が違う?」
「そんなつもりじゃなかった……俺はただ、四乃崎が試してるんだと……」
「仮に試されていたのだとしても、これは違う。逃げられない状況なんかつくって、断れないように詰め寄って、それで四乃崎と恋人ごっこをしたところで……それはお前だけの自己満足にしかならない」
「ちっ、違うんだ。俺は……本当に四乃崎にとって相応しい彼氏であろうとしただけなんだ」
弱々しい声だった。あまりにも腑抜けた表情だった。
いっそのこと悪びれてくれたのなら殴ることくらいはしてやれたのに、自分だけが主張する正義にすがり、下手くそな釈明を続ける春馬は……あまりにも情けなく、その価値すらなかった。
「待って……鹿羽くん。春馬くんは悪くなくて……ぜんぶ、私が悪いの」
悲痛な四乃崎の声が部室内に響く。
春馬の視線は四乃崎の方へ向かい、さ迷い、俺へと戻ってきて……小動物のごとき怯えた瞳は、被害者面を彷彿とさせる。
「それは否定しねぇのかよ」
「……な、なにが」
「嘘でもそれは、"違う"って言ってやれよ……彼氏だろうが」
「なんなんだよ……訳がわかんねぇよ……」
春馬は限界のようだった。そんな彼に怒りをぶつけることの馬鹿らしさに笑いさえ出てきそう。
意味がないのだ。……春馬は、何も理解していないのだから。
「四乃崎さん、大丈夫? ごめん、僕がもっと良いアドバイスを春馬にしていれば……」
後ろで四乃崎に駆け寄る月島。
膝を付き拳をコンクリートの床へ強く突き下ろすと、後悔を大げさな態度で表している。
それが妙に演技臭いと思ったのは俺だけだろうか?
いや、違うだろう。
「四乃崎さん……鹿羽くん……このことは誰にも言わないで欲しい」
両手を床について頭を下げる月島。
おそらくそれが彼の本音だったからだ。その願いを通すために、彼は猛省を露骨に表したのだろう。
俺が、今掴んでいる奴なんかよりもずっと狡猾で賢い。
彼には見えてしまっているのだ。
ここで起こったことは良くないことであり、それが知れ渡ることは、もはやオワリであると。
それを理解しているから、そんな言葉がすぐに出てくる。そして、そんな言葉をすぐに出してはいけなかったから、伏線として最初に反省をした。
……いや、それは俺の考え過ぎなのかもしれない。
それこそが、彼の意図しない真意なのかもしれない。
だが、それでも俺は許せないと思ってしまった。
月島が提案してきた黙秘には、やはり嘘でも四乃崎のことなど含まれてなかったからだ。
月島が後悔などせず、四乃崎の今後を考えた考察の一つでも落としていれば、俺は許せたかもしれないのに。
人は我が儘だ。常に自分の安否が一番先にくる。
それを確保せずにはいられない。そうしなければ、誰かのことなど思いやれはしない。
分かっていた。理解していた。
なのに……。
「調子の良いことぬかしてんじゃねぇよ。お前も春馬も終わりだ」
口を突いて出た言葉は攻撃的なもの。
月島はほんの少しだけ顔を上げた。
その瞳には、鋭い殺気のようなものがあった気がする。
そのことに俺は安堵してしまう。
月島が醜い人間であることに、心底安堵してしまった。
もう春馬などに用はない。
俺が手を離すと、そのまま彼はへたり込んでしまう。
「四乃崎……着替えは?」
「教室に……」
教室に行って戻ってくるまでには、最低五分はかかるだろう。
だが、五分あれば心を落ち着けて考える時間に費やせる。
「月島と春馬は外で見張ってろ。四乃崎の着替えを取りに行ってくる」
「……わかった」
月島が頷く。
「それまで四乃崎には一切触れず話しかけもするな。自分たちの保身に誘導しようとしたなら、俺は全てをバラす」
「そんなことしないさ。それに……そう思うのなら、君が残ればいいんじゃないか?」
「俺と四乃崎に黙秘を要求したお前が、素直に着替えだけ取ってくるとは思えない。何らかの捏造工作くらいしそうだが?」
「捏造工作……?」
「たとえば、まったく違った事実を先に申告してしまう、とか」
「馬鹿な……そんなことするわけがない」
「どうかな?」
「それなら……君のほうこそ、着替えを取りに行かずそのまま職員室に向かってしまいそうだけどね」
月島は言った。どうやら冷静なだけじゃなく、頭の方もちゃんと回っているらしい。
「だろうな。ただ俺は、それが不必要である可能性を見てる」
「……どういうことかな」
「現状、お前は冷静だ。保身的な考えは気にくわないが、その回転してる頭だけは信用できる。その頭があれば、四乃崎にこれ以上の何かをすることが悪手だと理解できるはずだ。そして、お前と春馬が何もせずに待ってくれるのであれば……今の四乃崎を、わざわざ人目に晒す最悪だけは避けられる」
月島の目が細くなった。
「俺を失望させるなよ? 四乃崎を預けるのはお前の冷静さを買っての判断だ」
そうやって期待を月島に押し付けた。
人は期待されると応えたくなる生き物だ。ただ、それが彼に当てはまるのかどうかは知らないが。
「君は……いや、ただ一つだけ確認してもいいかい?」
「なんだ」
「つまり、四乃崎さんは人質って認識でいいのかな?」
その例えは、あまりにも最低で……あまりにも的を得ていた。
「そうだな……。俺は人質を取られているから迂闊なことが出来ない。そして、お前も告発される危険性を理解しているからこそ、これ以上の悪行は積めない。互いの牽制が完成しているからこそ、現状は動かせない」
「……なら、四乃崎さんは君にとって"人質になり得てしまう人"ってことだね」
その言葉には、確かな悪意が感じられた。だから、俺はそれに答えない。
「確認は一つだけだったはずだ。春馬と部室の外で待ってろ」
「……わかった」
月島は立ち上がり、脱け殻みたくなっている春馬を連れ出して外に出た。
それを確認した俺は、急いで教室へと向かう。
通りすぎるグラウンドには球技大会を楽しむ生徒たちがたくさんいた。
それらを目にしているだけでも、頭に上っていた血は落ち、脳内の回転速度は息を吹き替えしていく。
あんなにも怒ったのは久しぶりだった。
それは月島の言うとおり、四乃崎が人質になり得てしまう人だったからだろうな。
つまり、認めたくはないが……俺にとって四乃崎は、大切な存在だということになる。
月島はそれを俺の口から言わせたかったのだろうか。……いや、聞くだけでよかったのだろうな。
人質という言葉を肯定してしまった時点で、もはやそれこそが答えだったから。
だが、その大切とは、俗に言われる恋や愛とは違う気もする。
たぶん、楽しかったから。
四乃崎の危ない挙動、理解しがたい行動、その一つ一つが、日々を死体的に生きていた俺を蘇らせた。
罰として自分に課してきた日々に、色を与えた。
彼女は、俺にしてみればあまりにも『生きていた』のだ。
格好つけるために嘘をつき、嘘をつき続けるために努力をして、そのためならリスクを犯してマウントを取りに来て、失敗したら泣いて、嬉しくなったら馬鹿になって……。
その危うさこそが、俺には眩しく思えてならなかった。
だから……四乃崎を突き放した時に、寂しくなどなってしまったのだろう。
教室につくと、俺はそのまま四乃崎の席に向かった。
おそらく着替えが入っているであろうカバンは、机の横にかかっていた。
それを手に取り、一応中を開けて確認する。
勝手に中身を見ることに躊躇いはあったものの、迷ってる暇はない。
そのカバンの中を漁っていると、見覚えのある弁当箱が目に入った。
それは、四乃崎が俺に作ってくれていた弁当の箱。
春馬の分だろうか。ただ、昼休憩は終わっているというのに、その弁当は重かった。どうやら食べていないらしい。
「もったいねぇ……」
とはいえ、俺も食べかけの弁当を捨てている。あまり他人のことは言えない。
四乃崎のことだから、おそらく渡し忘れかなにかだろう。
準備や支度だけはちゃんとするくせに、いざ本番になると冷静さを欠いて暴走して……常に空回りをするのが四乃崎咲夜だった。
――だったらさ、鹿羽くんが私を制御してよ。
それは、いつかの四乃崎が俺に言った言葉。
そうして彼女は、俺に葉連さんの彼氏役を務めることを勧めてきた。
俺は、その口車に乗って彼氏役を務めたが……結果は散々なものだった。
だが、停滞していた俺の日々は、あの口車のお陰で少し前進したのだ。
いや、口車に乗ったのも……俺がそれをどこかで望んでいたから。
結果は散々なものだったが、あの時に俺が望んでいた物を、四乃崎は的確に与えてくれた。
そのことも、俺にとって大きかったのだろう。
「制御……ね」
四乃崎を制御することなんて俺にはできない。何故なら、彼女の思考が俺にはまったく分からないからだ。
そうでなくても人は人を全て理解することなどできはしない。
もし……それでも四乃崎を制御する手段があったとするのなら。
「……そんな場合じゃないな」
俺は、その可能性を掻き消す。
とりあえず着替えがあることを確認した俺は、カバンごと抱えて再びサッカー部室へと急いだ。
そうして到着した部室の扉の前には、立ったまま壁に寄りかかる月島と頭を抱えて座り込む春馬がいた。
「……早かったね」
「俺が誰かと話している可能性が減って安心したか?」
「そうだね」
俺が冷静になれたのと同じように、月島もこの時間を有意義な思考に費やしたらしい。
彼の態度は戻っていた。まぁ、春馬は脱け殻のままだったが。
部室の扉を開けると、うずくまる四乃崎を見つける。
近づいて、カバンをそっと置いた。
着替えをするだろうから俺は、一旦部室を出ようとする。
が、しかし。
離れようとした服の裾を、四乃崎は掴んだのだ。




