噂
人は推測する生き物だ。
情報の点と点を繋ぎ合わせて、納得できるストーリーを作りたがる。そうして出来上がった納得できるストーリーを、誰もが誰かに証明したがった。
そうして得られた共感を元に、愚かにも人は真実味を持たせていく。この世は多数決だから、たとえそれが真実でなくとも、支持を得られたことで、真相よりも遥かに説得力のある真実味を持たせてしまう。
人は推測する生き物だ。
なのに……誰もがその答え合わせをしようとはしなかった。
◆
朝礼までは時間のある教室。部活動生徒は既に登校して朝練を開始しており、グラウンドでは勤勉にも汗を流す彼らの姿が窓から見える。
そんな中に春馬と月島の姿があって、二人がサッカー部であることをそこで初めて知った。
仲良くボールのパス練習をしている彼らは、派手な春馬の見た目もあってかわりと目立つ。……部活ね。その響きには懐かしさを覚える。
中学時代、俺は軟式野球部に所属していた。
レギュラーにも入れてたし、自分で言うのもなんだが上手かった方だと思う。別に野球が好きだったわけじゃなく、親父が野球好きでその影響を受けていただけだ。ただ、小さい頃からなんとなくグローブとバットなんかを持たされていたお陰で他の奴よりも上手かった。優越感、一言で言うのならそういうのに浸っていたのかもしれない。
「……飯食うか」
我に返り、四乃崎から渡された弁当箱を机に広げてみる。中を開けると、まだほんのり温かい。四角い枠の中には区分けされた白ご飯とおかず。鮭とちくわの天ぷらがまず目に飛び込んできて、片隅にはひじき。そのひじきは冷凍食品なのだろう、まだ少しだけ氷っぽい。昼には自然解凍される予定だったに違いない。ごはんが温かいお陰で普通に食べられたが。
そのお弁当は、女の子が作ってくれた手作りだというのに、感情が震えない自分がいた。
きっと普通の男子なら感動するはずなのに、どんなにそれらを口に運んでも食材の旨味以外に感じる要素がない。ただ……美味しいだけなのだ。
それはたぶん、そういった感情さえも腐らしてしまったからなのだろうか?
親友だった者を亡くし、その詳細な原因さえも分からず、後追いなんて怖くて出来ず、自分が生きる価値に疑問を抱いた。
神無月悟は……頭が良く女子にモテて、俺は馬鹿だったが運動神経だけは良かった。性格も真反対で、凸凹コンビなんて言葉をよく聞いた気がする。
俺があいつの一番近くにいた。悟は部活に入っていなかったが、それでも過ごした時間は部内の連中よりも多かった。
気弱で冷静で、どこか大人びた雰囲気があり、時折見せる悲しげな表情の真相を聞いておけば良かった。
だが、もう遅い。
こうして感情が鈍くなってしまっているのは、きっとそういった経験のせいなのだろう。
喜ぶことに疎いのは、喜んではいけないと思っているからなのかもしれない。
そう思えば、俺が葉連さんに恋をしたこともまた、因果応報によるものなのかもしれない。
俺は、報われてはならない。俺だけが幸せになってはならない。
それは悟に対する裏切り行為であり、死ぬことさえ出来なかった俺への罰。
ふと、箸が止まる。見渡すが教室に四乃崎の姿はない。大方別の教室にいるのだろう。居なくて良かったと思った。
早起きしてまで作ってくれたお弁当を、俺は在るべき感情で食べられない。笑って、感動して、美味しそうに食べることなんて出来ない。
言葉ではなんとでも言える。美味しい、と。事実、このお弁当は旨い。
だが、きっと表情はぎこちなくて、彼女が望む食べ方を俺は出来ない。してはならないとどこかで考えているせい。
「――なんか四乃崎さん、春馬くん月島くんたちと楽しそうに登校してたらしいよ」
「――まじ? 狙ってるとか?」
「――でも四乃崎さん彼氏いるから、大丈夫じゃない?」
「――えぇー。でもこの前さ……」
耳に入ってきた女子たちの話し声。その内容が途切れたのが気になって視線を向けると、彼女らも俺を見ていた。
サッと逸らされる視線。『この前』の続きが俺と授業をサボった事なのだと理解する。
知りたきゃ聞きにこいよ。まぁ、教えるわけないんだが。
憶測だけで飛び交う言葉。そうやって囁きあう会話の無意味さを俺は知っている。
誰もがそこに本音を混ぜたりしない。本気で自分のことなど話はしない。
相手の事を知ったと思っていても、全てを知れるわけじゃない。
むしろ、大切なことを誰もが隠す。隠して内側に閉じ込めて、平然としたフリをする。
その事を、俺は経験として刻み込まれた。
そして、その傷が疼くことに……安堵するのだ。
葉連さんへの想いが叶わないこと。親密な友人が誰一人いないこと。女子の手作り弁当に感動しないこと。
それらは、まだ自分が親友だった悟との思い出に、踏ん切りをつけられていない証明でもあったから……。
その後、四乃崎が彼らと登校していたという話は、それを目撃したものたちによってポツポツと話題に上がっていた。ただ、その話は"四乃崎には彼氏がいる"という結末で終わり、さほど盛り上がりを見せはしない。
……しかし、噂の流れは思わぬ方へと動いていくこととなる。
それは、四乃崎を含めたいつものメンバーでの会話の中に『彼氏と別れた』という新事実が発覚したからだった。
それは想像を遥かに上回る速度で、話題性のある噂へと早変わりしていった。
四乃崎がフリーになったこと。それはにわかに男子たちの間で囁かれた。
彼女が春馬か月島を狙っているのではないか? それは女子たちの間で囁かれた。
忘れていたが、四乃崎は入学当初モテていた。知らなかったが春馬と月島は女子から人気があったらしい。その二つが妙に噛み合い、期待や恐怖などの様々な側面で噂が語られ、その勢力は急速に増していったのだ。
噂は独り歩きして、にも関わらず傍観する者たちは真相を直接確かめようとはしない。
噂に真偽は関係ない。大事なのは話題性があるかどうか。
やがて、それらは四乃崎という人物像を勝手に作り上げていく。
結果、『彼氏と別れた四乃崎は、月島か春馬を狙っている』という線として皆の中に浮かび上がった。
それは奇しくも間違いではなかったが、正しいというわけでもない。
そして正しくもない線は、勝手に妄想の中で湾曲され始める。
――四乃崎は、月島か春馬を狙うために彼氏と別れた。
その噂に、誰もが納得の意を唱える。
だが、俺はそれを知らずにいた。もちろん、誰かと話すことがないせい。
だからだろう。
その日の放課後、俺は帰り支度をしていた四乃崎に空になった弁当箱を渡してしまったのだ。
「――うまかった」
「ほんと? 明日もいる?」
「え……明日も作ってくれんの?」
「まぁ、鹿羽くんが良いなら」
悪いわけがない。ただ、期待する食べ方をきっと出来ないだけ。
「じゃあ、明日も用意するね?」
少し迷った俺に、四乃崎はそう言って去っていった。
俺は、微妙な面持ちでそれを見つめる。
そんな俺たちを、誰かが見ていた。
そして、その情報は、囁かれた噂に『つじつま合わせ』を要求する。
「――四乃崎さんが、鹿羽って奴に弁当渡してたってまじ?」
「――彼女が狙ってるのって、月島くんか春馬くんじゃないの?」
「――ストック……? え、てか弁当渡してるとか確定じゃね?」
「――そういえば、あの二人って一緒に授業サボってたくね?」
それらは湾曲した噂をさらに改変させていった。
やがて、『俺と四乃崎がデキてるかもしれない』という予測が、先に立っていた噂を悪い方向へと変換させていく。
「――四乃崎さん、狙ってる人いるのに他の男子ストックしてるの
?」
「――つか、ストックが鹿羽とか滑り留めにもなってなくね?」
「――あの子、ヤれるなら誰でも良いんじゃない? 彼氏と別れたのもそういうのが原因なのかもね」
「――んだよ、ただのビッチじゃん」
噂は悪口と罵倒へ変わっていく。四乃崎だけじゃなく、俺への被害も伴って。
それを俺は知らずにいた。知らずに日々を過ごしていた。
その翌日、四乃崎は宣言通りまたも俺に弁当を届ける。その流れで、一緒に登校をした。
その光景を誰かが見ていて、やはり、噂に付け加えられる。
もはや俺が四乃崎にとってのストックであるという事実は、真実よりも真実味があり、そのつじつま合わせを当の本人だけが知らずにいる状態。
では、なぜ俺がそれらを知り得たのか?
それは、四乃崎が弁当を作ってくれた三日目の放課後のことである。
「――ちょいツラ貸せよ。……鹿羽栄進」
フルネームで呼ばれた名前。威圧的な声音。それに俺は、小首を傾げるだけ。
「……姫川……さん?」
帰り支度を済ませ、教室を出たあとの下駄箱。いつもは四乃崎と一緒に帰っているはずの女子の一人が、俺に向けて言葉を放っている。
見るからに怒っていた。その原因を俺は知らない。
だが、俺は知ることになった。彼女におとなしく従ったからだ。
ただの暇潰しだった。家にいる時間を減らすための。
なのに、彼女に従って立ち寄った喫茶店で、俺は知ることになったわけだ。
「――聞くけどさぁ、あんた四乃崎のこと好きなの?」
「なぜそうなる?」
「いや、なんかそんな話あるから」
「……はぁ?」
人は推測する生き物だ。なのに、誰もその答え合わせをしようとしない。
そして。
「まぁ、別になんだっていいんだけどさ、好きなら彼女のこと諦めてくんない?」
推測した答えを勝手に前提として、勝手なお願いを押し付けてくるのだ。




