最悪な悪ふざけ。
水の中に飛び込んだ瞬間、ジュボッと耳から空気が抜ける音がした。酸素は断たれ、心臓に悪い冷水の温度に思考が停止しそうになる。落下によって沈んだ体を、何とか水面まで掻き泳ぎたどり着かせ、首から先だけを水面から突き出して空気を吸い込む。
そうして必死に四乃崎を探し……。
「うっわ……マジで飛び降りてくれたんだぁ」
近くには器用に立ち泳ぎをする四乃崎がいた。
「……お前」
「いやぁ、ごめんごめん。ちょっとやり過ぎた……って、おい!」
川岸へと泳ぎ始めた俺に彼女が叫んだ。それでも俺は振り返ることもせず岸へと向かう。飛び込んだ目的は果たされたのだから。
「ちょっと待て……ってぇ!」
彼女も泳いで追いかけてきた。一足先に岸へと泳ぎ着いた俺は、すぐに上半身を脱いでから服が吸い込んだ川の水を絞る。季節はまだ五月。夜の川の水は冷たく、長時間浸っていたら本当に溺れてしまっていてもおかしくない。
「少し悪ノリしてみただけじゃん? でも、本当に飛び込んでくれるとは思わなかった。少し鹿羽のこと見直し――」
「後ろ向いてるからお前も絞れ」
「……あぁ、うん」
罪悪感からなのか素直に従う四乃崎。後ろで服を脱ぐ音が聞こえた。
「あれ……? おかしいな……? 力がうまく入らないんだけど」
「貸して」
リレーのバトンを受けとるスタイルで腕だけを後ろに伸ばす。手のひらに乗せられた重い服の感触がしたところで腕を戻し、渾身の力でズブズブのパーカーを絞った。
「限界だ……」
できる限り水を絞り、パーカーを同じようにして返す。濡れたスウェットを着てから、彼女も着たことを確認し、ようやく振り向いた。
「あの……ありが――え? ちょっ!?」
言葉を待たずに腕を掴んで河川敷をのぼった。だが、急に引っ張ったせいか四乃崎は転んでしまう。
「いっ……たぁ……」
反対の手を地面についたようだが、それでも膝を擦りむいたらしい。鉄橋の街灯が仄かに照らす肌には、薄い赤が見えた気がした。仕方ないな……。
俺は彼女の前で背を向けてしゃがむ。
「ほれ」
「え……いやいや、別にそこまでしてくれなくても」
「時間の無駄だから。早くしろ」
きつめに急かし、おずおずと四乃崎は従ってくれた。帰宅部であり体力のない自分に一抹の不安が過ったが、彼女は思ったよりも軽かった。
「お前、家どこだよ」
「はぁっ!? なんで家なんか……まさか」
「上がらないから。このまま連れてくだけだから道案内しろ」
「うっわ……男じゃん」
あの……男なんだが? 煽るような言葉は無視し、彼女の案内だけに集中する。本当はタクシーでも捕まえたかったのだが、こんな時間にこんな場所を通るとは思えなかった。
だから無心で歩く。背負う四乃崎も何かを察したのか、道案内をする以外はずっと黙っていた。
四乃崎の家はわりと近く、それでも俺の体力が尽きる方が早くて、途中で諦めて下ろしてしまう。
「大……丈夫?」
「いいから……お前は早く帰って熱い風呂に入れ」
「でも……」
「いいから……」
それでも彼女は膝をついて息を切らす俺の顔を覗きこんで離れようとはしない。だから、無理やり立ち上がってもう一度言ってやった。
「はやく! 帰って! 風呂に! はいれ!」
「……鹿羽はどうするの?」
「いや、俺も帰るが? 付き合ってられるか」
「そっか……わかった」
ようやく四乃崎は納得してくれて自分から離れていく。
「その……ほんとゴメン!」
最後に言われた言葉に返す力もなく、手だけを上げて応える。
そうやって彼女が見えなくなったあと、息を整えるためだけに腰を下ろした。休憩じゃない。むしろ、こんな状態で休んだら、それこそ最悪だ。だから、怠い体を持ち上げて家を目指す。体が冷えないように少し小走りで。
俺と出くわさなかったら本当に死ぬつもりだったんだろうか?
考えてみたが、おそらくそんなつもりはなかったと推測する。つまり川に飛び込んだのは、俺と出会ったせい。
つくづくツイてない。笑ってしまうほどに。
それでも本当の最悪だけは回避したと自分に言い聞かせた。彼女は本当に溺れてしまっていたかもしれないからだ。
あの様子なら大丈夫だろう。あとは俺だが……。
きっと家に帰りついたらそのまま倒れて寝てしまいそうになるだろう。だが、そんなことをすれば本気でやばいと思う。熱湯を浴びて着替えるまでは気を抜けない。だから、俺は必死で家だけを目指した。
そうして、ようやく見えてきた我が住まい『リナリア荘』。一年前から親のツテで暮らし始めた安いアパートだが、既にそのボロさには実家のような安心感がある。
現在俺が通う高校は、家からは通うことができない距離にあった為、本当なら寮か下宿にするべきだったのだが、寮には人数の問題で入ることができず、下宿は主に部活動生徒の為にあるところばかりであり、帰宅部であるくせに実家に帰宅できない難民のような俺には、こうした住居をあてがわれるしかなかった。
それでも、俺は感謝している。
もう、地元の奴らとは会う気がしない。会うことはできない。会いたくない。
奴らの顔を見れば否応なしに思い出してしまう。きっと奴らだって思い出してしまうのだろう。そして気まずい雰囲気になって、きっと話す会話はどこか白々しい。
だから……それが嫌で、俺は地元に残りたくなかった。そんな我が儘を許し、独り暮らしをさせてくれている親には感謝しかない。
そして、このリナリア荘で起こった"運命の出会い"に、俺は呪いを感じざるを得なかった。
二階に上がり自分の住む201号室の扉の前に立つ。そしてふと見た隣の部屋の扉。そこに住むのは大学に通う葉連時雨さん。数時間前にそこで交わした彼女との会話を思い出してしまって、俺はため息を吐いた。
――わたし、生まれてくる世界を間違えちゃったみたい。
酒臭くて、テンションがおかしくて、足取りはおぼつかなくて呂律すら回ってなくて。
それでも、呟かれた言葉には世界の残酷さが確かにあった。
それに何て答えようもなく、ただ俺は立ち尽くすしかなかった。
酔った女性は酒臭さを覗けば可憐で魅力的だ。まだ高校生である俺には、彼女のそんな姿はあまりに刺激が強すぎた。ありもしない展開を妄想し、少しだけ期待なんかしてしまっても無理はない。
それでも。
そんな言葉を聞いてしまったら、冷静になるしかなかった。
だから、俺は彼女を部屋へと押し込んで、自分の下卑た妄想すらも押し込むしかなかった。そうやって今日を終わらせようとしたのに、目が冴えてしまい眠ることが出来ず、補導されてしまう危険を犯してでも夜の散歩に繰り出して……結局、こんなことになってしまった。
「うっ……さみっ」
不意に悪寒がして我に返る。早く風呂に入って寝よう。今なら何も考えず眠れる気がする。
それから、扉を開ける為の鍵をポケットから出そうとし――。
「……嘘だろ」
鍵がないことに気付く。川に飛び込んだとき、落としたのかもしれない。
全身の力が抜ける。その場に崩れ落ちる。咄嗟に大家さんの部屋を訪ねることが頭に浮かんだが、こんな時間に訪ねたら迷惑だし、きっと親にも連絡を入れられるかもしれない。そしたら、それを知った父さんや母さんが、独り暮らしを止めさせようとする未来まで予測できて絶望する。
独り暮らしをする条件の中には『夜遊びは絶対しない』という約束があったのだから。
「くそっ……」
だから俺は扉を背にして座り、朝が来るのを待つことにした。
長い長い夜の始まり。服は濡れていて、時折吹く容赦ない五月の風は、ほとんどない体力を容赦なく奪っていく。それでもなくとか体を丸めて体温だけは逃さないようにする。
「くそ……くそ……俺が何をしたっていうんだ」
無意識に吐き出される汚い言葉。埃だらけのコンクリートの上で横になり、流れ出そうになる涙を必死に堪えた。
世界は残酷だ。俗にいう平等など何処にもありはしない。資本主義国家日本には平然と格差があって、みんなそれに気づかないフリをしているだけだ。
だが……本当は違うのだろう。
本当は平等なのだ。
みんな『平等に不幸を背負って生きているだけ』なのだ。
誰もが人には言えない不幸を背負って生きている。俺も葉連さんも……もしかしたら四乃崎も。
だからこそ「自分だけが不幸だ」なんて妄想は、笑われるしかない。
そんな言葉は嗤われるしかない。
そして、その不幸を享受しながら誰もが生きていた。
その苦痛を秘めながら、誰もがなに食わぬ顔をして生きるしかない。
そうするしか手段はなかった。
だからこそ、俺もそれに甘んじる。
そうすることしか……できないから。
なのに、それでも嗜虐に満ちた世界でどう生きれば良いのかを見つけられず、俺は手をこまねいていた。
だからもう……全てを諦めてしまうしかない。それこそを前提として生きるしかない。
何もかもが上手くいかない。それがきっと世界というものなのだろう。
俺は腐り始めていた。腐ることしか知らなかった。
だが、単に腐ったわけじゃない。腐ったのにはちゃんとした理由がある。
大事だったものがあったから。
大切な想いがあったから。
それを捨てて新しい人生など、俺には無理だったから。
代替えなんて出来はしない。忘れて新規なんて出来はしない。
それが悪手だと理解していても、俺はそれを抱えて生きたかったのだ。
意識が遠退いていく。眠気が勝っていくのを感じる。
こんな所で、こんな状態で寝たらどうなってしまうのか自分でも分からない。凍死かな? 考えて、それはないなと思えた。
だから、そのまま俺は眠りにつく。何故だか、心地よさすらあった。
そして俺は夢を見た。
それは、中学の頃の地元での記憶。その頃、俺には親しい友人がいた。いつも一緒にいた男がいた。何気ないお喋り、アホみたいな冗談、俺はそいつといつも絡んでいて、学校内でもわりと知られたコンビだったと思う。いつも誰かをからかって、奴らは一緒にいる俺たちをからかって、それを鼻で笑いあって……楽しかった。
だからこそ、気付かなかったのかもしれない。
そいつが何かに悩んでいることを。
俺は知りもしなかった。そいつも話してはくれなかった。
そして、唐突に彼は俺の前からいなくなった。この世界からいなくなった。
原因は誰も知らない。いや、もしかしたら家族は知っていたかもしれない。それでも、多くの者たちはその原因を考察するしかなくて、口には出さなかったが……それが一番親しかった俺にあると考えた。
突き刺さる視線。悪意ある言動。
形にしなくてもそれらは十分に伝わってきた。
後悔だけが残った。彼を助けられなかった後悔。だが、何をどうすれば良かったのかを俺は知らない。知ることが出来ない。
葬式の時にあった彼の家族は、何故か俺にだけよそよそしかった。
それでわかった。やはり……原因は俺にあったのかもしれない、と。
それは悪夢。もう思い出したくもなかった記憶。
だが、忘れることなんて出来なくて、楽しかったからこそ、大切だったからこそ、俺はそれを抱えて生きるしかない。
だから俺は腐るしかなかったのだ。