海と陸との繋がり(4)
聖は家ると、すぐさま洗面所へ駆け込み顔を洗った。
どんだけ洗っても、涙は次から次へと溢れてきりが無い。
仕方無しにタオルで顔を力いっぱい拭くと、台所へ駆け込んで何かを探し始めた。
見つかったのか、ゆっくりとソレを握る。
握ったものはナイフだった。握った手に力が込められる。
ばさっ
聖は長かかった黒髪を無造作にナイフで切り落とした。
肩よりも上になった髪。
「馬鹿っ。馬鹿、バカバカバカっ……。」
ナイフを置き、その場に崩れ落ちる。
小刻みに肩を震わし、頬を暖かい涙が伝う。荒く息をして、ため息をついた。
「……くそっ。男に戻ったって……約束したあんたがいないなら。
意味ないじゃんかっ。」
聖とクリスは、ある約束をしていた。
それは二人がであって間もない頃。
聖は、ナイフを握ったまま、ぼーっと、クリスとの思い出を思い出す。
「聖。ひどーい!何でわっかんないの!?」
「俺は男だっ。そんなんわかるかよ!」
あの日、聖とクリスはいつものように浜辺で言い合っていた。
半魚人様を思う乙女心について。で。
「なによ、なんでわかんないの!?」
クリスが尚も抗議の声をあげる。聖は困ったように考えた。
いつもだったら、聖はその後を誤魔化して、遊ぶほうへとクリスを誘導する。
しかし、この日はちがかった。
「なってみなけりゃ、何もわかんないよ!
乙女心何て、女の子になんなきゃわかんないっ。」
思わず出た言葉だった。
それでも聖は、我ながらによくできた答えだと言い終わった後に思ったりもする。
しかし、実際は自分の首を絞めることになるのだが。
次の思いもかけないクリスの発言のせいで。
「そっか。じゃあ、聖。女の子になって!」
「はぁ!!?」
にっこりと笑顔で言うクリスと、それに思わず驚きの声を上げ目を点にする聖。
いきなり何を言うんだ。と聖はクリスを凝視する。
「お、男が女になれるわけないだろ!」
必死にクリスに言うが、彼女はにっこりと笑ったまま。
その笑みに不気味さを感じて、聖は一歩後ずさった。悪寒が走ったのだ。
「大丈夫だよ。聖に私が神様にお願いしてあげるから。
神様はね、私たちのお願いを一つ。聞き届けてくれるんだよ。
今度から聖ちゃんって呼ぶね!」
やっぱりいつもの笑顔のまま言うクリス。
聖は身の危険を感じギギギと身体を後ろに向ける。
「聖。やっぱダメかな?私ね。聖にも私の気持ち、わかってほしいの。」
だんだんと小さくなっていく声に、聖は耐え切れなかった。
今度は勢いよくクリスの方に振り向き、大声で叫んでしまった。
「いいよ!女にしろよ!!クリスの気持ち、わかってやるよ!
そんで、クリスの気持ち、わかってやる!約束だ!!」
次の瞬間だ。目の前が真っ暗になったのは。
それから自分は女になった。元に戻るのは、クリスの気持ちをわかったとき。
それか、クリスが死んだとき。
聖は昔を思い出して鼻で笑った。
昔からクリスは突拍子もないことを言ったりやったりするのだ。
それを、昔はなんの抵抗もなく信じてた自分を懐かしく思う。
もう、そんなふうにクリスと話せないのかと思うと、
胸が締め付けられ聖はまた涙が溢れてきた。
コンコン
ドアが叩かれる音がした。
聖は起き上がり、涙を拭う。そして、首を傾げながらドアへと向かった。
この家に人が尋ねてくることなんて滅多に無いのだが。
それにだいたい、今は誰とも会いたくなんかなかった。
コンコン
しかし、焦らすようにまたドアが叩かれる。
聖は、仕方無しにゆっくりとドアを開ける。
日が昇り始めていた。影でドアの前に立っている人物が聖にはよくみえない。
「……何のようです……っ!?」
ゆっくりと上がる日差しのおかげで、段々とその人影は形を成す。
ふわふわな金髪に、エメラルドグリーンの大きな瞳。あどけない優しい笑顔。
クリスのようだった。だけど、聖は苦笑った。
クリスがいなくなったことで、あまりにも寂しくて幻想でも見てるんだ。
と自分に言い聞かす。クリスは人魚だ。人じゃない。
目の前の女の子は人間の耳に白いワンピースから人間の足が見える。
「……こんな朝早く、何のようですか?」
「何を、そんなにしょげているんですか?」
少女は率直そう言った。その言葉に、聖は眉を顰めて彼女を見る。
少女は笑ったままもう一度、どうしたんですか?と聞いてくる。
聖はじっと少女を見た。見れば見るほど、彼女はクリスにそっくりで。
「……友達を一人。守れなくてね。」
不思議と聖はその子に話し始めていた。
本当は、話すつもりなんてない。
とそう思いながらも、口から出る言葉は止められなかい。
「私が、たった一人で何を言っても、受け入れられないんだって実感して。
私一人じゃあ、何も変えられないんだ。って絶望したんだよ。」
一気に言ってから長いため息を吐いた。
しみじみと夜の出来事をかみ締めて、また痛い思いが込み上げてくる。
目頭が熱くなるのを、聖は必死に抑えていた。
「そんなことないよ。聖ちゃん。聖ちゃんの思いは、神様と私に届いたよ。」
聖は名前を呼ばれたことにびっくりして彼女を凝視する。
いつもと変わらない、記憶と同じ笑顔がそこにあった。
聖はぽかんと口を開けていたが、いつの間にかその口は綻んでいる。
「……クリス。クリスティーナ?」
「そうだよ!聖ちゃん!!」
笑顔で、答える彼女。口が綻ばないようにと必死に抑えながら、聖はまた聞いた。
「本当にクリス?」
「そうだよ!ほら、うみちゃんも一緒なの!」
そう言って、手の中を見せる彼女。
その手の中には小さくてもそもそと動く白いマリモ。
もというみちゃんが静かに彼女の手に包まれていた。
「うみちゃん!……クリス。クリスなんだね!おかえり!!」
「ただいま、聖ちゃん!!」
目の前の少女は聖に勢いよく抱きついた。
いったいどうなったのか、聖はまったくわからずに目を白黒させる。
それでも、自分の名前を呼ぶ彼女が、クリスなのだと。そう実感して抱きしめる。
クリスは抱きついたまま嬉しそうに言った。
「あのね、あのね。聖ちゃんがずっと前に言ったじゃない。
なってみなけりゃわからない。って。
あの言葉よ。私と神様に届いたのは、あの言葉なの!」
興奮気味に大きな声を耳元で喚かれ、聖は頭がくらくらした。
でも、元気な聞きなれた声を聞いて、笑顔がこぼれる。
「クリス、それはどういうこと?」
「聖ちゃん。女の子になって、女の子の気持ち判った?」
首を傾げて聞くと、まだ興奮気味にクリスは聖に問いかけを返した。
クリスがじっと聖の瞳に目を合わせる。
「そうだなぁ。クリスの気持ちはわからなかったけど、
聖ちゃん。って女の子の気持ちはわかったよ。うん。そう、わかったんだ。」
聖も嬉しそうにクリスに返す。
「そう、それならいいのっ!
だからね、私も人間になってこい。って。そう神様が言ったの!
聖、貴方一人の、たった一つの言葉よ!!
それにね、もう一つ。聖ちゃん言ったよね。私に生きてて欲しかった。って。」
また、嬉しそうにクリスはぎゅっと聖に抱きついて耳打ちする。
最後の言葉はそう、クリスが消え去った後にぽつりと聖が呟いた言葉だ。
聖は、恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「聖、おかえりなさい。」
「ただいま。」
抱きしめ返して、聖は思った。
たった一人の人間でも、
たった一つの言葉でも、
それだけで何かが変わることがあるんだって。
何も変わらないとその時は思っても、
見えないところで変わったり、
何年も後になって変わる事だってあるんだ。と。
なにせ、この後。海はゆっくりと綺麗になっていったんだから。
聖とクリスと、皆なの手によって。
おしまい