疑似科学および人間的価値についての評論~哲学のゼロの発明~
17世紀、デカルトはこう述べた。
「我思う、ゆえに我あり。」
デカルトの主張をこれがすべてであるというのはあまりにも言い過ぎであるが、この一言は現代でも有名なのは事実であり、様々な解釈や考察がなされている。その一つにすべてを懐疑的にとらえることで残されたものが自分という存在であり、その自分という存在は決して疑うことができないという解釈がある。
そうであるだろうか。この有名な解釈にも様々な考察が付されていて、たとえばフッサールの現象学によればデカルトの懐疑主義とは世界の存在者のひとつの解釈にすぎないという考察がある。つまりすべての存在者とは「場」という現象野に開かれているのだ。私の存在が真であろうが偽であろうが、疑うことができようができまいがつまり、恒真であろうがなかろうが「現象する」ということは「恒真である」、というより人間が存在するしないに限らず観察者さえいれば、「現象する」とは現象するであることが世界を規定するにあたって重要なのである。
世界をこのように捉えたうえで疑似的に科学をつくることと科学を真偽性を軸にとらえることとははたしてどれだけの違いがあるだろうか。
AIが作り出した論文と人間が作り出した論文にはたしてどれだけの違いがあるだろうか。
そして人間的価値とはなにかにまでこのテーマは遡ることができないだろうか。
同一性を規定し、世界の内部を科学することと世界はかくかくしかじかであると中身を問わずに世界をいわば外部から疑似的に科学することどちらがどこまで正しいのだろうか。
科学サイドと疑似科学サイドといえば疑似科学は空想科学や娯楽でいうところのネタでしかない科学であるが今述べているのはそうではなく、科学を自覚的に対象をとらえるものと定義するならば疑似科学とは自覚できなくとも対象について記述できるのではないかということである。
かつてギリシア時代のヘラクレイトスはこう述べた。
「万物は絶えず変化している」
そして彼はそれを正しく思わない者に対し、こう述べた。
「あなたは同じ川に二度と入ることはないだろう。なぜならば絶えずその川は変化し続けているからである。」
ヘラクレイトスのこの言明は懐疑主義者の観点から言えば正しい。しかし同一性を第一としない立場からすればその観察者でさえ絶えず変化しているとも解釈できるのである。
しかしヘラクレイトスの言明は彼が自覚的に捉えることはできなかったにしても正しいところは大いにあるのである。人はそういう拡大解釈によって進歩あるいはそれを人間的価値の一つと呼ぶならば価値がある言明なのである。結論を言えば、科学という正しさの分析や総合も重要であるが、ここでいう疑似科学という自覚的でない、ともすれば無責任ともいわれかねない言明にも観察者がいる限りは人間的価値があるのである。
フッサールとはいわば哲学のゼロを発明したのではないのだろうか。