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幸せのかたち

作者: 堤小夜


「好きです。付き合ってください」

 お昼休み。学校の校舎裏。この学校の告白スポットらしいこの場所で私は何度目かわからない告白をされていた。

「ごめんね。今は誰とも付き合う気はないから」

 私はその告白を当たり前のように断る。この言葉も何度言ったんだろう。正直めんどくさい。

「あ、うん。そうだよね。ごめん」

 今日告白してきたのは気の弱い人っぽく案外すぐに折れてくれた。

「それじゃあね」

 ごめんと一度頭を下げてから私はその場所を後にする。心の中では告白してきた相手を蔑みながら。



「う、あっつい」

 学校側に無断で作った合鍵を使って屋上へ上がると、外からものすごい熱気が入ってきた。九月だから流石にセミの声は聞こえないがそれでもかなり暑く、日差しも強い。こんなに暑い中ずっと立ってたら熱中症になると思い私は急いで日陰の方に移動した。

「あれ、お兄ちゃんだけ?」

 日陰の方に移動すると、中肉中背のどこにでもいそうな男子、兄の(あお)が一人で購買のパンを食べていた。

(みこと)と先輩はまた二人でどっか行ったの?」

 どうせどこかで二人きりでいちゃついてるんだろうなと思いながら兄に聞いてみる。

「あ、いや。命は委員会で結崎は早退だって」

「あー今日はそっちか」

 先輩、結崎(ゆうざき)(ほたる)は私たちの幼馴染にあたる井川(いかわ)命と付き合っている。基本二人は私たち兄妹含めた四人とお昼をとるか二人きりでどっか行ってるかのどちらかだけど、命が委員会とかで一緒にいられないときは仮病を使って早退してるらしい。学校側に無許可で立ち入り禁止の屋上に出入りしている私たちも割と大概だけど先輩はもっとひどい。先輩と命も合鍵持ってるし。

「とりあえず座れって。ちゃんとお前の分のパンも買っておいたから」

 たしかに突っ立ていてもなにもないので私は兄の隣に腰かけて兄が買ってきたパンをひとつとって適当に頬張る。

「で、なんで遅くなったの?また告白されてた?」

「うん。断ったけど」

 淡々と、当たり前のような会話。何度もした会話を当たり前のようにする。

「みんな私のこと勘違いしてるよ。普段は笑顔ふりまいてるから仕方ないと思うけどさ」

 私はクラスでは基本的に笑って誰かと話している。本当は誰とも関わりたくなんてないけど、それはそれで面倒なことになると思ってそうしたらこんなことになった。本当は無視してもいいんだけどやっぱりそんなことするのは気が引ける。

「別に俺は笑わないお前も好きだけどな」

「わかってるよ」

 そんな会話をしながら昼食をとっていく。

 それが私たち兄妹の、日浦(ひうら)(こと)()と日浦蒼の日常だ。



「悪い。HLが少し長引いた」

 いつもの校門前で待っていると、兄が申し訳なさそうな声を出しながら走ってきた。

「別に急いでないから走ってこなくてもいいのに」

 ふと気になって兄の横を見る。やっぱりというか、そこには命の姿はない。先輩が早退したからすぐに帰ったんだろう。買い物に行ったって可能性もあるけど。

「今日はお兄ちゃんと二人っきりが多いね」

 学校は四人でいることが多かったから少し新鮮な気もする。

「俺としては二人の方がいいんだけどな。あいつらはカップルらしく二人で帰ればいいのに。どうして俺たちに構うんだか」

「そんなこと言って構われなくなったらそれはそれでさみしいんじゃない。ほかの人と比べたら隠し事も少なくて済むし」

 あの二人は私たちの事情を色々知っているから一緒にいてもあまり苦じゃない。もちろん言えないこともあるが。

「そういうことじゃないんだが…まあいい。ここで駄弁ってても仕方ないし帰るか」

「あ、なんか誤魔化した」

 お兄ちゃんがなにを誤魔化したかわからないが、正直そこまで気にならないから兄の言った通り家路につくことにした。



「だから、今月の養育費が足りないから追加で振り込んでって言ってるでしょ!子供二人押し付けたんだからそれくらいのことはしてよ!」

 家に帰って最初に耳に届いたのは怒号だった。

「琴葉、先に部屋行ってな」

 そう言ってお兄ちゃんは怒号のしたリビングに向かっていった。

「…ごめん」

 そう言い残して私は二階の部屋、私たちが一緒に使ってる部屋に向かう。部屋の隅で蹲っていれば兄が何とかしてくれる。そう思いながら。



「琴葉、大丈夫だよ。母さんはもう出かけたから」

 真っ暗の部屋に明かりが点き、お兄ちゃんが部屋に入ってくる。三時間以上蹲っていたから目が明かりに驚き、必要最低限のものしかない部屋を真っ白に染め上げていた。

「ったく、なにが養育費がたりないだよ。俺たちのためには一銭も使ってないくせに」

 そう独り言のように呟いた声には確かに軽蔑と嫌悪が含まれていた。

「仕方ないよ。うちの親はそういう人だもん。今更なに言ったって驚かないよ」

 うちの両親は私が小学校一年生の時に離婚している。その原因は母親の浮気だった。そもそも結婚したのも父親の家が資産家だったからで、結婚してからも浮気を繰り返していたらしい。離婚してからも母親は養育費としてもらっているお金を色んな男に貢いで、三年前を境に私たちのためにお金を全く出さなくなった。そんな親に今更なにも期待しないし、そもそも今の私たちには母親がやっていることを咎める権利はない。

「もうあの人たちことなんてどうでもいいでしょ」

 もう親のことなんてなにも聞きたくないと私は無理矢理話を切る。私たちになにもしない母親も私たちを捨てて金しか送ってこない父親も大嫌いだ。

「…じゃあ少し早いけど命の家の行くか」

「そうだね」

 兄も私の気持ちを察してくれたのか、すぐに話題を変えてくれた。



 それから二人で命の家に歩いていき、家に着いてからはいつものように合鍵を使って家にお邪魔する。

「え、待って、いつもより早くない?」

 玄関のドアを開けるとリビングの方から女性の慌てる声が聞こえてきた。

「もしかして変なタイミングで来ちゃったんじゃないかな」

 多分、というかあの声は絶対先輩の声だろう。それだけで色々察する。恋人同士だから別におかしくはないけどなんというか、かなりタイミングが悪い。

「あ、悪い悪い。今ちょっとだけ立て込んでるからちょっとだけ待っててくれないか」

 そう思っているとリビングの方から私服姿の命が出てきた。少し髪の毛が乱れている気がしないでもないがそれ以外は全くと言っていいほど変わった形跡がない。

「あーびっくりした。ごめん取り乱しちゃって」

 それから先輩もリビングから出てくる。九月なのに冬服でストッキングを穿いているが、いつものことだから特に変わったところはない。ふと気になって先輩の髪も見てみるが、いつも通りのロングストレートである。

 正直、先輩が取り乱す理由がさっぱりわからなかった。

「命、なにしてたの」

「それは、えっとその」

 聞いてみてもなにも答えない。別に隠すようなことないと思うんだけど。

「そ、そんなことどうでもいいでしょ。急いでご飯作っちゃうから適当にくつろいでて。ほら、命も」

 先輩も無理矢理話題を変えようとしている。これは多分何かあったんだろう。かなり気になる。それ以上にからかったら面白そう。

「琴葉、あんまりからかうなよ。可哀想だから」

 そう思っていたらお兄ちゃんがからかうなと言ってきた。せっかく面白そうだったのに。

「わかった。でも後で、いいよね」

 命たちには意味がわからないように兄に質問する。もちろんダメと言われてもするけど。

「わかった。でもあいつらのことあんまりからかうなよ」

「うん。わかってる」

 そう言っている間にも命と先輩はダイニングに行ったみたいだ。とりあえずリビングで適当にくつろいでご飯ができるのを待とう。



 私たちは両親が離婚してから命と命のお母さんの涼子(りょうこ)さんたちに生活面の援助をしてもらっていた。命のお父さんの(せい)一郎(いちろう)も単身赴任で会うことはあまりなかったけど、会ったときは私たちを本当の子供のように可愛がってくれた。けど、三年前に涼子さんが事故で亡くなってしまい、それまでは学費だけは払っていた母親が学費すら払わなくなり、私たちは経済面でも命の家を頼らないといけなくなった。それでも誠一郎さんは私たちを捨てなかった。命も私たちは悪くないと私たちを受け入れてくれた。それから先輩と命が一緒に住み始めて、今は四人一緒にご飯を食べるようになった。

「そういえばそろそろ誠一郎さん帰ってくる時期じゃない?」

 ダイニングでご飯をつつきながら命に聞いてみる。誠一郎さんとは一年近く会ってない。

「あー、言ってなかったけど父さん仕事でちょっと面倒なことがあって今年帰ってこられないみたいなんだよ」

 誠一郎さんは出張先でかなり頼られているらしい。そのせいでよく部下のミスの責任を負わされて、帰る予定だったのが帰れなくなるということがよくあった。

「確か前もそんな理由で帰ってこられなくなってなかった」

 一応三か月に一度は帰ってくる予定らしいのだが。

「誠一郎さんも大変だよね。勝手に色々任されてさ」

 先輩が珍しく口をはさむ。この人食事中はあまりしゃべらないはずなんだけど。

「まあ、給料はそれなりにいいらしいし仕方ないだろ。今は俺と蛍と琴葉と蒼の四人の面倒見てるんだし」

 まあ、別にそのことについてどうこう言うつもりはないけどな、と命は言う。

「命もバイトしてお金入れてくれてるからね」

 うちの学校は原則バイト禁止だが、命は父子家庭という理由で特別にバイトの許可がおりている。そのお金がなければ四人を学校に通わせながら食べさせていくなんて無理だろう。本当は私たちもバイトしようとしたのだが、父親がお金持ちで養育費をたくさんもらっているだろうとわけのわからない推察をされ、許可がおりなかった。

「何度も言ってるが結崎もバイトしたらどうだ。お前保護者不在なんだろ。成績だってかなりいいしバイトの許可おりるだろ」

「お兄ちゃん、先輩はバイトなんてしないって。絶対」

 実際私たちが何度言ってもしてこなかったのだ。命も先輩はなにもしなくていいと言っているし絶対に先輩は働かないだろう。卒業後も進学も就職もしないって言ってるし。

「でも生活もだいぶ苦しいんじゃないか。貯金とか大丈夫なのか」

「…念のため言っておくけど貯金は多少あるからな。そりゃ誰かを大学に行かせられるほどじゃないけど」

「別に誰も大学行く気ないんでしょ。だったら私がわざわざ働かなくてもいいじゃん」

 そこからはいつも通りの光景だった。お兄ちゃんが色々と小言を言ってそれを先輩が適当にあしらう。命は先輩の味方をして私は適当に過ごす。いつも通りで大切なかけがえのない日常。この場所は私にとって数少ない居場所だった。



「じゃあ私たちはそろそろ帰るね。ご馳走様」

 時間はもう十時を回っている。そろそろ帰らないと命たちの迷惑になるだろう。それに、

「それじゃあ、あとは二人だけでさっきの続きを楽しんでね」

 ニヤニヤと笑いながら命たちを見る。命は特に反応してなかったけど先輩はちょっと顔を赤くしながら俯いていた。

「琴葉、だからあんまりからかうなって」

 お兄ちゃんは呆れたようにため息をつく。でも仕方ない。私はこういう人間なのだ。先輩に会うまでは人をからかうことが楽しいって気づかなかったけど。

「それじゃあホントに帰るね」

 からかって満足したから帰ろうとする。けど、

「おい、琴葉」

 命に呼び止められた。

「どうしたの?もしかしてもっとからかってほしいの」

 気分がいいので少しおちゃらけて聞いてみる。

「今日なんかあったか」

 でも、聞いてきた内容はかなりまじめな内容だった。

「…命なら気づいちゃうか」

 今までの私たちのことに気が付くことが何度かあった。今回もいつもと同じだろう。

「別に大したことじゃない。今日たまたまあの人に会っちゃっただけで」

 本当に大したことじゃない。そもそも私はなにも話していない。会っちゃったと言ったが私は声を聞いてすぐににげていた。

「そっか。大変だったな」

 命なそれ以上なにも言わない。

「前みたいにうちに養子になってもいいって言ってくれないんだね」

 先輩が来る前は何度も言われたことを今度は私の方から言ってみる。命はなにも言わずに黙っていた。

「まあ、そういう気になったら私たちの方から言うし別にいいよ」

 どっちにしろ今の段階で命の家の養子になるつもりになるつもりはない。これ以上を求める権利は私たちにはない。

「そっか」

 そう言って命は口を閉ざす。私はそれを見て何も言わずに命の家を後にした。



「なあ蛍。今日早退したって聞いたけど出席日数と大丈夫なのか」

「まだ大丈夫だよ。命が委員会のとき以外はちゃんと授業に出てるし。この前は一回サボっちゃったけど」

 琴葉と蒼が帰ったあとお風呂に入って俺の部屋のベッドに座りながら何でもないことを話す。話す内容は日によってはかなり重くなるが、それでも彼女となら不思議と嫌じゃなくなる。

「今日は蒼くんなにも言わなかったよね。普段は体調不良以外で早退するとグチグチ言うくせに」

 たしかにと思いながら今日あいつらと話したことを思い出す。あいつは根が真面目だからかあまり真面目とはいえない蛍にあんまりお金ないんだから少しはお金を入れろとか真面目に授業を受けろとかしょっちゅう注意するのだ。俺もよく蒼に蛍にもう少し真面目になるように言えと言われる。もちろん俺は蛍のしたいようにすればいいと思っている。

「まああれは蒼なりの心配だからな。今日は琴葉のことで頭がいっぱいだったんだろ」

 蒼は誰よりも琴葉のことを大切にしている。だから今日みたいなことがあると他の人なんて構う余裕ないんだろ。その割には蛍に突っかかっていたが。

「別に私の心配は命がしてくれるからいいのに」

 そう言いながら体重をかけてくる蛍をそっと支える。

「俺だけでいい…か」

 そのまま蛍は俺の体に手をまわして密着してくる。パジャマの隙間から除く白肌から痛々しい傷跡がいくつも見え隠れする。

「そうだよ。私は命がいてくれればいいの。それだけで幸せだから」

 そっと唇に彼女の唇が重なる。やわらかい唇の感触や彼女の香りがゆっくりと俺の理性を溶かしていく。

「私は命が好き。命も私を好きと言ってくれる。それだけで私は十分だよ。ほかは何もいらない。どうなったっていい」

 彼女の愛の言葉が、想いが溶けていく理性をどんどん蝕む。愛情という名の毒がゆっくりと自分を見失わせていく。

「蛍」

 ゆっくりと毒に侵される俺は彼女を抱きしめゆっくりとベッドに沈んでいく。

「大好きだよ。命」

 彼女は花のようだといつも思う。ゆっくりと相手を溶かして侵す毒の花。俺はその花に惹かれ、溶けていく。



「琴葉、そろそろやめてくれ」

 暗い部屋の中、兄の懇願を聞き、私は眼球に這わせていた舌を引っ込める。

「はあ、もう少しくらい舐めさせてくれてもよかったじゃん」

 確かに眼球を舐められるのはかなり気持ち悪いが、今日はそういうことをしていいって言ってたし。

「あのな、何度も言ってるけど眼球を舐めるのが好きってかなり異常だからな」

 怒っているというより呆れているといった口調でそんなことを言っている。私はそんな兄に口づけをして、

「でも、愛し合ってもいない肉親の女の子にこんなことするお兄ちゃんは異常じゃないの」

 私たちはお互いに異常だと、そう言った。

「そうだな。お互い様だった」

 そう言うとお兄ちゃんは私をベッドに押し倒し、腕の強く握りながら馬乗りになってきた。

「痛っ、そんなに強く握ったら壊れちゃうよ」

 そんなことを言ってもお兄ちゃんは腕を握る力を緩めようとしない。

「はあ、別にいいよ。でも、代わりに今日のこと、忘れさせてね」

 ゆっくりと覆いかぶさってくる兄を受け入れながら私はゆっくりと快楽の海に溺れていった。



 私たちがこんな関係になったのは三年前、涼子さんが事故で亡くなったのがきっかけだった。涼子さんが亡くなってから命は少し元気がなくて、一緒にいてもまるで遠くにかのいるように感じてしまった。それがとても寂しくて、私はどうしても寂しさを紛らさせたくて、兄に縋った。兄は優しく私を受け入れてくれて、私はゆっくりと兄との関係に溺れていった。でも、私はそれを悪いことだとは思わない。命と先輩だって二人だけの秘密があるんだ。私たちだってそれくらいあってもバチは当たらない。



 俺は腕の中で眠っている蛍の頭をそっと撫でる。その顔はとでも幸せそうだが、体に残った傷跡が彼女の過去を思い起こさせる。

「よく笑っていられるよな。お前」

 聞いた話によると彼女は二年前まで学校でいじめられ、親からは虐待を受けていて、それを苦に思い自殺しようとしたらしい。彼女はなんとか一命をとりとめ、その後いじめと虐待を受けていたことが世間に出回り、彼女の両親は逮捕、学校は彼女を転校させ、いじめていた生徒を退学にしたらしい。そして、俺と彼女は出会い、一目惚れした。でもその恋も簡単にはいかず、ある出来事があるまで彼女には警戒されっぱなしだった。その出来事は俺たちの秘密で、俺たちの傷だ。

この秘密はお互い墓場まで持っていくと決めている。

「ん、まだ寝てないの」

「ごめん。起こしたか」

 頭をずっと撫でてたせいか蛍が目を覚ます。目は完全にトロンとしていて、まだ寝ぼけていることがわかる。

「別にいいよ。このまま撫でてて」

 寝ぼけているせいか、蛍はいつもより甘えてくる。そこにはさっきまでの毒のような雰囲気はなく、ただの幼子のようだ。

「なあ、蛍。ちゃんと本心から笑えてるか」

 彼女を抱き、頭を撫でながら問いかける。

「普段は作り笑いしてるけど、命の前ではちゃんと本心から笑ってるよ」

 そう言う彼女の頭を俺は眠りにつくまで撫で続けた。



  朝のきつい日差しが部屋に入ってきて、眠っていられなくなった私は目を覚ます。時計を見るとまだ五時半だった。

「お兄ちゃん、起きて」

 私はいつも通りお兄ちゃんを起こす。別に今起こさなくてもいいのだが一人でいるのは寂しい。

「早く起きて、起きないと眼球舐めるよ」

 そう言うが何の反応もない。だから私は兄の瞼を上げ、眼球に舌を這わせていく。

「う、琴葉、気持ち悪いからやめて」

 眼球を舐められるのは不快なのかすぐに起きた。

「つうか琴葉いつも起こすの早いんだよ。まだ六時にもなってないし。あいつらを起こしに行くのだって七時くらいだろ」

「そうだけど寂しかったんだもん」

 だから起こすのは仕方ないんだ。

「じゃあもう少し寝るぞ。俺も傍にいてやるから」

 そう言うとお兄ちゃんは私の腕を引っ張り、胸の中に引き寄せる。そのまま優しく私を抱くとそのまま眠りに落ちた。私も少しだけ眠くなってそっと瞳を閉じる。そのまま心を落ち着かせる温もりに身を委ねながらゆっくりと、再び眠りの世界に落ちていった。



 私たちが再び目を覚ましたのはもう少しで七時になるところだった。

「今度こそ起きないとまずいよお兄ちゃん」

 今度はさっきと違いお兄ちゃんはすぐに目を覚ました。そのことを確認してから私は学校に行くための身支度を整える。

「はいこれ制服。お兄ちゃんも早く着替えてよ」

 着替え終わった私はお兄ちゃんの制服を投げ渡す。兄が着替えをしている間に私はカバンの中を確認する。

「琴葉、そろそろ行くぞ」

 そうこうしているうちにお互い支度が出来て、私たちは命たちの家に向かう。

 命たちの家に入っても出迎えはない。いつものことだがまだ寝ているんだろう。だから私は命たちの部屋に向かう。

「命、先輩、起きてる」

 命の部屋のドアをたたきながら起こす。本当は中に入ってたたき起こしたいのだが、流石に恋人同士が一緒に寝てる部屋に入るのは気が引ける。

「早く起きないと遅刻するよ」

 だから私は声をかけながらドアをたたき続ける。一分くらい続けていたら先輩が目を覚ましたらしく、命を起こそうとしているのが聞き取れる。

「先輩、命をはやく起こしてください。あと二度寝しないでくださいね」

 そう言って私は玄関で兄と一緒に二人を待つ。十分くらいすると命と先輩が少し寝ぼけたような顔で玄関まで歩いてきた。

「命、また夜更かししてたでしょ」

 先輩が来る前の命は目覚まし時計で起きていたのだが、先輩が勝手に目覚ましを止めて二度寝してしまうらしく、そのせいで私が起こしに行かないといけなくなった。

「起こすの大変なんだからせめて先輩と別で寝てよ。先輩の部屋もちゃんとあるんだから」

 二人一緒に寝てるとどうしても部屋の中に入って起こすのは気が引けるのだ。二人別々なら命は勝手に起きてくれるし、先輩は同性だから特に気にしない。なのにこの二人は何度言っても言うことをきかない。本当に起こすこっちの身にもなってほしい。

「琴葉、注意するのはいいが遅刻するぞ」

「え、嘘。ほら、命、先輩行くよ」

 いつものように私たちの朝は割とあわただしく過ぎていく。



「じゃあお昼に屋上でね」

 そう言って先輩たちは三年の教室に、私は一年の教室に向かう。

「あ、琴葉おはよー」

 教室に入るとよく話しかけてくる女の子が声をかけてくる。名前はえっと…なんだっけ。

「琴葉っていつも年上の人たちと学校来てるよね」

「うん。そうだけど」

 適当に笑いながら答える。大丈夫。うまく笑えているはずだ。

「やっぱり井川先輩目当てなの?よく一緒にいるし」

「違うって。そもそも命は彼女いるし」

 私が命に恋愛感情を抱いているという噂は結構前から流れている。そのおかげで男子を振っても女子から反感などを買わないのだが、正直言ってそう言う噂を流されるのは迷惑極まりない。

「でもさ、琴葉が名前で呼ぶのもすごく珍しいし、それなりに思ってるんでしょ」

 それは昔から一緒にいるからと強く言いたいがそれを言っても逆効果な気がするから口を閉ざす。そもそも私が誰かを好きになることなんてない。

「もう、この話はこれで終わりにしよ。もうすぐ先生来ちゃうよ」

 私は無理矢理話を切って自分の席に座る。少し気になって様子を見たがさっきの女子はそこまで気にした様子もなくほかの人に話しかけていた。それを見て私は少しだけ安堵する。大丈夫。まだ失敗していないはずだ。



 それから四時間授業を受け、昼休みになって私は屋上に向かう。

「あれ、今日は命だけ?」

 屋上のドアの鍵を開けて外に出ると、命が一人で座っていた。お兄ちゃんなら一人でいても珍しくないのだが、命がいて先輩がいないのはかなり珍しい。というか私が入学してから初めてだ。

「いつも先輩と一緒なのに珍しいこともあるものだね」

 ちなみにお兄ちゃんは用事ができたとかで今日は屋上に来ないらしい。

「俺もいつもみたいに蛍を教室まで迎えに行ったよ。でも蛍のクラスメイトが蛍に話があるって言ってたから」

 そう言う命はどこかそわそわしている。命は先輩のことをやたら気にかけてるしかなり心配なんだろう。

「そんなに心配ならまた教室まで迎えに行ったら。先輩だって喜ぶでしょ。あんまり人付き合い得意じゃないって言ってたし」

 彼氏いるくせに人付き合い得意じゃないっていうのはおかしな話だが、命や私たち意外と話しているところを見ると確かに人付き合いが苦手だってわかる。

「だからほら、すぐに迎えに行って」

 私は命を無理矢理立たせてそのまま校舎の中まで押していく。

「わかったって、だから押すな」

 命はそのまま会談を降りていく。それを見送ると私は日陰の方に移動して腰を下ろす。

 命が先輩を連れてきたのはそれから二分くらい経ってからだった。

「結構早かったね」

「無理矢理連れてきたからな」

 先輩の方を見ると心細かったのかギュッと命の手を握っていた。

「ほらね、やっぱり迎えに行って正解だったでしょ」

「まあ、そうだな」

 命の言葉は歯切れが悪いが今の先輩の様子だと迎えに行って正解だと思う。

「命、今日は全部の放課先輩に会いに行ってあげてよ。帰りもちゃんと教室まで迎えに行くんだよ」

 それだけ言っておけば大丈夫だろう。幸い明日から休みだし、その間に持ち直してくれるはずだ。

「…ありがとね。琴葉ちゃん」

 先輩が消え入りそうな声でつぶやく。

「まあ先輩が人付き合い苦手なのは知ってますから」

 そう言うと先輩は少しだけ笑った。

「それにしてもずっと命の手握ってるなんて子供っぽいですね」

 ちょっと安心したところを見たせいか、私の中で嗜虐心が芽生える。この様子なら少しくらいいじくっても問題ないだろう。そう思った。けど、

「知ってるよ。私かなり子供っぽいから」

 帰ってきた言葉で少し拍子抜けしてしまった。



「で、なんで先輩引き止められてたんですか」

 三人で昼食をとりながら先輩に聞いてみる。普段なら命が迎えに行った時点でこっちに来るんだけど、今日は何故か命を追い返したらしい。

「えっと、この前体育祭あったでしょ。私体育祭欠席だったから写真撮らないかって。でもほら、写真撮るってことは肌を晒さないといけないってことでしょ。だから嫌で」

 少し落ち着いたのか先輩が口を開く。確かに先輩は体育祭を仮病で休んでいた。

「別にそれくらいいいじゃないですか」

 それくらいなら二つ返事でオーケーすれば済む話なのに。

「それくらいで済む話じゃないよ」

 どうして先輩がそこまで嫌がるのか私にはわからない。

「それくらいですよ。だって先輩のクラスメイトの人たちだって先輩が事故に遭って体中傷跡だらけってこと知ってるんですよね」

 先輩はこの学校に転校してくる前、交通事故に遭って両親を亡くし、先輩自身も体中傷だらけだったらしい。それから手術で先輩だけはなんとか一命をとりとめて、それから先輩を引き取ってくれた近くのこの学校に転校してきた。ということを私はお兄ちゃんから聞いた。たぶんそれは先輩と同学年の人なら誰でも知ってることだろうし、今更隠すことでもないと思う。

「だからこんなのいいよって言えば――」

「琴葉、もうこれ以上言うな」

 命に止められて私はその先の言葉を飲み込む。よくよく考えたらかなりひどいことを言っていた。

「すみません。無神経でした」

 こんな言葉で許されるかわからないが精一杯謝る。

「大丈夫だよ。普通に考えたら誰だってそう考えるもんね」

 そう言いながら精一杯笑う先輩は、まるで縋るように命の手を握っていた。



 放課後、私はお兄ちゃんと二人で家路につく。命と先輩は買い物すると言って先に帰ったが、本当にそうなのか。本当は私が昼に無神経なことと言ってしまったからじゃないかという考えが頭の中で堂々巡りする。

「お兄ちゃん。私って無神経だよね」

 ふと、そんな弱音が漏れた。

「確かに琴葉は無神経だな」

「やっぱり」

 わかっていたことだけど少しだけ落ち込む。

「でもちゃんと後で反省するだろ。だから別にいいだろ。俺もあとで結崎に謝るから。だからそんなに落ち込むな」

 どうやらお兄ちゃんには色々筒抜けみたいだ。

「ごめんね。こんなダメな妹で」

「大切なお前のためなんだから当たり前だ」

 そんな風に話していたら家に着いてしまった。母親がいなければこのまま楽しく話していられるのだが、昨日のことがあるせいかどうしても家に入りたくなくなってしまう。

「大丈夫だよ。母さんがいても俺がどうにかするから」

 お兄ちゃんが頭を撫でながら優しく慰めてくれる、

「ありがとう」

 私がそう言うとお兄ちゃんは私の頬をちょっとだけ撫でてから玄関のドアを開けた。

「あ、明かり点いてる」

 リビングの方を見ると明かりが点いている。つまり今日も母親がいるということだ。

「琴葉、部屋行ってろ」

 だから私は昨日と同じように部屋へと向かう。



「琴葉、母さんならもう行ったよ」

 お兄ちゃんがあの人がどこかに行ったことを知らせに部屋に来てくれた。

「そっか。いつもありがとうね。お兄ちゃん」

 そう言ってもお兄ちゃんから反応はない。お兄ちゃんの顔を見るとどこか思いつめたような、そんな顔をしていた。

「ねえ、お兄ちゃん大丈夫?顔色悪い――」

 顔色悪いけど、そう言い終わる前に抱きしめられて言葉を紡げなくなる。

「大丈夫だよ。琴葉は絶対に俺が守るから」

 守るから。その言葉を言われても今の私には、その言葉の意味がわからなかった。



「今日の蒼、なんかおかしかったよな」

 そう隣に座っている蛍に語りかけるけど、蛍はどこか遠くを見ているようで声が聞こえてるように見えなかった。

「蛍、聞いてる?」

「…ねえ、命、やっぱり琴葉ちゃんと蒼くんには本当のこと話した方がいいのかな」

 彼女がそんなことを呟く。あいつらが家に来た時、昼間のことを琴葉が謝ったけど、蛍も嘘をついていることを申し訳なく思っているんだろう。

「俺は蛍がしたいようにすればいいと思う。もし話したいなら俺もできる限り協力するし黙っていたいなら絶対に話さない」

 だから俺は最後まで彼女の意思を尊重する。

「相変わらず命は優しいね。私はあんなにひどいことしたのに」

「お前のせいじゃない。お前は一つも悪くない」

 俺たちが思いだしているのは二年前の出来事。俺と彼女を結ばせたきっかけであり、俺たち共通の心の傷。俺たちはそれを絶対に忘れてはいけないと時に語り合う。今のように。

「ねえ、どうして命は私を責めないの。私は命を巻き込んだのに。もしかしたら死んでたかもしれないのに」

 もしかしたら死んでいたかもしれない。その言葉は正しい。あのとき蛍は殺されそうになって、それを庇った俺も死んでいたかもしれない。

「死んでたかもしれないってだけだろ。今俺はちゃんと生きてるし、死んでいてもお前のせいじゃない」

 たとえ、その結末が俺と彼女が死ぬとは違う、もう一つの最悪の結果だとしても、俺には彼女を助けた後悔なんてない。

「お前が気に病む必要はないって何度言えばいいんだよ。俺はともかく、お前が裁かれる理由はない」

 あの時罪を犯したのは俺だけだ。蛍はなにもしていない。彼女は純粋な被害者であり、何の責任もない。

「やっぱり、その結論は変わらないか」

 蛍はそっと俺をベッドに押し倒し、そっと覆いかぶさってくる。

「命は優しいね。誰よりも優しくて、誰よりも残酷だよ」

 その言葉にいつものような明るさはない。あるのは自分を責めてほしい、ちゃんと叱ってほしいという思いだけ。

「命が私を責めないから私は自分で自分を責めるしかないの。それってすごくつらいんだよ。胸が引き裂かれそうなくらいつらいんだよ」

 ちゃんと私を責めてほしい。そんな風に彼女は言う。でも蛍はなにも悪くないんだ。俺はあのとき彼女を見捨てることができた。見捨てて、一人でのうのうと生きるという選択肢もあって、それなら俺一人が傷つくだけで済んだ。なのに俺はそうせず、蛍と俺が傷つく選択をした。だから蛍は悪くないんだ。悪いのは俺だけなんだ。

「お前は悪くない。悪いのは俺だけだ」

 だから俺は絶対に彼女を責めない。その痛みも本当は俺一人が背負うべきものだから。

「やっぱり、すごく優しいね。本当に残酷な人」

 そう言うと彼女は俺を精一杯抱きしめる。俺はただ、それを受け入れる。それから少しして、彼女の口から嗚咽が漏れだした。



 私たちはいつものように二人で一緒に眠る。

「ねえ、お兄ちゃん。今日なにかあったの」

 体はもうクタクタで、すぐに寝てしまいたいくらいだ。それでも私は兄の様子が気になって、どうしても眠る気にはなれなかった。

「あの人と話してから様子が変だよ。なにか変なことでも言われた」

 さっきまで、お兄ちゃんはいつも以上に私を乱暴に扱っていた。別にそれが嫌だったという訳じゃない。ただ、私は何故かそれが私の存在を確かめてるように感じてしまった。

「私はちゃんとここにいるよ。絶対にお兄ちゃんの傍からはなれないよ」

 私がそう言うとお兄ちゃんは優しく私を抱きしめてきた。そこにさっきまでの乱暴さはない。それなのに、どうしてさっきと同じように感じてしまうのか。

「琴葉、大丈夫だから。俺が絶対守ってやるから」

 その言葉も、今は私に言ってるようには聞こえない。まるで守らないといけないという強迫観念が働いているような、そんな気になってしまう。

「大丈夫だよ。私はお兄ちゃんの傍から離れないから」

 その言葉も今のお兄ちゃんにはきっと届いていないだろう。けど、今の私にはそんな言葉をかけるくらいしかできなかった。



 それから一週間が経っても、お兄ちゃんの様子はおかしなままだった。一応命と先輩にも相談したのだが、二人とも私がわからないなら誰もわからないだろうと言っていた。

「ねえお兄ちゃん、本当に大丈夫」

 学校からの帰り道、私たちは二人でいつもの家路を歩いていた。最近は命たちが気を遣ってくれているからか二人きりでいることが多くなった。

「最近どんどん顔色悪くなってるよね。夜もほとんど寝てないみたいだし」

 そのせいで私も最近寝不足気味なのだが、今は私なんかより兄の方が心配だ。このまま倒れたりしたらどうしようかと不安でたまらない。

「大丈夫だよ。確かに少し疲れてるけど、お前が心配するようなことじゃない」

 貼り付けたような笑顔で兄が笑う。その顔を見ると胸が苦しくなる。

「そんな顔をしないでよ。やっぱりお兄ちゃんおかしいよ。最近夜も私の相手してくれないし」

 三年前からこの間まで、そんなことは一度もなかった。だから私も今どうすればいいのかわからない。

「私頼りないかもしれないけど相談くらいならのるから。だからいつもみたいにしてよ」

 今にも泣いてしまいそうなのをこらえ、必死にお願いする。これ以上一人は耐えられない。なのに、

「俺は大丈夫だよ。大丈夫だから」

 その言葉は、どうやっても兄には届かなかった。



 兄がこんな風になってしまって、私はもう限界だった。これ以上何かあったら耐えられないと思った。なのに、

「なんで、なんでお母さんがここにいるの」

 玄関で待っていた母親に怒鳴りつけるように叫ぶ。どうしてこんなにひどいことばかり起こるのか。私はもう限界なのに。

「なんでってここは私の家よ。私がいたらだめって」

「うるさい。早く消えて。お願いだから私たちの前に現れないで」

 頑張って紡いだ言葉も尻すぼみに消えていく。もう限界だった。さっきまでこらえていた涙ももう止める方法はない。「そんなに私のことが嫌いならもう会わないであげる」

 母親は笑顔でそう言う。でも、この人が笑顔ってことはなにかしらこの人に利益があるということだ。そしてそれは、私にとっては不幸なことである。

「琴葉の写真を見せたらね、あなたのお世話をしたいって人がいたのよ。だからね、その人の家で暮らすっていうなら、もう二度と会わないって約束してあげる」

 母親は相変わらず薄汚い笑みを浮かべている。その笑みを見て、この話には絶対乗ってはいけないとわかった。

「いいかげんにしろ」

 突然、私の横にいたお兄ちゃんが怒鳴り声をあげる。母親のもとに歩み寄るとそのまま襟首を掴んだ。

「あんた、自分の娘を男に買わせるなんて本当にクズだったんだな」

「ちょっと待ってよ、どういうこと」

 話が急すぎて全くついていけない。私を男に売るってどういうことなの。

「あんた男に貢ぎ過ぎて金がないって言ってたよな。だから今度は自分の娘を貢ぐのか」

 兄は怒りや殺意を一切隠そうとしない。こんな風に怒るところは私でも見たことない。

「なによ。自分の子供をどうしようが親の勝手でしょ。子供っていうのはね、親の言うことさえ聞いていればそれでいいの。そんなこともわからないの。それなのに母親の襟首を掴んだりして」

 母親はそんな兄を見ても全く悪びれず、身勝手なことを言っている。

「むしろちゃんと育ててあげたことに感謝してほしいくらいよ。それなのに私の言うことを聞かないなんて本当に親不孝な子ね」

 それを聞いたお兄ちゃんの手がゆっくりと襟首から離れていく。

「もういい。あんたとはこれ以上話していたくない」

 そして、兄の手が今度は襟首ではなく首を絞めた。

「あんたがいたらきっと琴葉は幸せにはなれない。だからここで殺してやる」

 首を絞める力が強くなったのか母親の口が酸素を求めるようにパクパクを動く。お兄ちゃんは本気だ。本気で母親を殺そうとしている。

「待って、お兄ちゃん」

 私は慌てて兄の手を両手を使って必死に母親から引き?がす。

「おい琴葉、邪魔するな。これはお前のために」

「うるさい」

 私のためという兄の言葉を私は一蹴する。流石の私でも我慢の限界だった。

「琴葉はいい子ね。それに比べて蒼はどうしてこんな子に育ったのかしら。こんなことなら産むのは琴葉だけにしておけばよかった」

 なにか勘違いしているのか母親は私に向かっていい子なんて言っている。

「勘違いしてないで早く消えて。じゃないと、今度は私があんたを殺すよ」

 精一杯の冷たい声で言い放つ。さっきお兄ちゃんに殺されかけたからかその顔には恐怖が見え隠れしている。

「ちっ、本当に親不孝な子たちね」

 母親はそう言うと私たちの前から姿を消した。

「琴葉、大丈夫か」

 お兄ちゃんが優しく頭を撫でてくる。そのせいでさっきまで流れていた涙が再び流れ出した。

「お、おい琴葉。泣くなって」

 突然泣き出した私を見てお兄ちゃんが狼狽する。

「だって、お兄ちゃんが私のことをまた一人にしようとしたから」

 嗚咽と共に必死に言葉を漏らす。それは私の本心であり、心からの叫びだ。

「私にはお兄ちゃんしかいないのに、お兄ちゃんまでいなくなったら私、生きていけないよ。だからいなくならないでよ。ずっと傍にいてよ」

 必死に叫ぶ私をお兄ちゃんは優しく抱きしめてくれる。その優しさの中で、私あしばらくの間泣き続けた。



  それからしばらく経って、私たちは命の家に向かった。私はさっきからずっとお兄ちゃんの手を不安でたまらない子供のように握っている。

「少しは落ち着いたか」

 お兄ちゃんはさっきからずっと私のことを気遣っている。その優しさが今はとても嬉しくて、つい笑みがこぼれてしまう。この一週間、触れたくて、触れることのできなかった優しさがそこにあった。

「よかった。琴葉が笑ってくれて」

 ほんの少しだけ、私の手を握るお兄ちゃんの力が強くなる。でも全然痛くなくて、むしろ温もりがより伝わって安心する。

「ねえ、しばらくこうしていて」

 だから私は、いつもより甘えることにした。



 命の家に着いて、リビングでお兄ちゃんは母親が私を男に売ろうとしたこととお兄ちゃんが母親を殺そうとしたことを命と先輩に話した。

「ねえ命、今日のは流石にやばくない」

 いつもはあんまり私たちのことを心配しない先輩がそんな言葉を漏らす。一方命はなにか考え事をしていた。

「なあ命、お願いがあるんだけど、俺たちを養子にしてくれないか」

 それは、先輩が来るまで命や涼子さんが私たちに言っていた言葉だった。

「俺は別に構わないよ。けど」

 命はどうしようかという顔で先輩を見る。

「私は…大丈夫」

 先輩は大丈夫と言ったが、その声はどこか不安を必死に隠しているように見えた。

「やっぱり、先輩なにか隠してるんですか」

 そう言った瞬間、先輩の体が硬直する。顔を見ると額には冷や汗がたくさん滲んでいた。

「先輩、私にも教えてくれませんか。先輩のこと」

 きっと、先輩は私たちに歩み寄ってはくれないだろう。だから私の方から歩み寄る。

「私たちにだって秘密はあります。今まではそれでよかった。お互い知られたくないことは言わずにやってこれた。でも、もし私たちが養子になるなら先輩のことも受け入れないと」

 そうしないと先輩はこの場所でも秘密を守らないといけなくなってしまう。それはきっとダメなことだと思う。

「ねえお兄ちゃん、私たちのことも言っていいよね」

 私の秘密はお兄ちゃんの秘密でもある。だから私はお兄ちゃんにも確認をとる。

「お前が話してもいいなら俺は別に構わないよ」

 お兄ちゃんは言っても大丈夫と言ってくれた。あとは先輩だけだ。

「わかった。でも一つだけ約束してほしいの」

 先輩の声はもう覚悟を決めた声をしていた。

「私の秘密は話してもいいよ。でも、命の秘密だけは絶対に詮索しないで。命の秘密だけは私と命が墓場まで持っていくっていう約束をしたから」

 そう言うと先輩はリビングを出て二階へ上がっていく。

「先輩、どこ行くんですか」

 私は慌てて先輩の後を追いかける。

「流石に私も二人に話すのは嫌だから。蒼くんには琴葉ちゃんから言っておいて」

 そのままスタスタを歩いていく先輩を私は追いかけた。



 蛍と琴葉が部屋から出ていって、俺は蒼と二人きりになった。本当は俺も蛍についていきたかったが、行ってもどうせ邪魔になるだけだろう。それに今は蒼に聞きたいことがある。

「なあ、お前本当に母親を殺そうとしたのか」

 もしそれが本当なら、俺はこいつに色々と言わなければならない。

「ああ。俺は母親を殺そうとした。琴葉が止めなければ本当に殺していた。俺は危うくあいつを一人にしてしまうところだった」

 蒼も後悔しているのか思ったより素直に話してくれた。でも、こいつは一つだけ見落としている。

「いいか。もしお前が本当に母親を殺していたら、あいつは一人になるだけじゃなく、自分のせいで兄が殺人に手を染めたという心の傷まで負わせることになってたんだぞ」

 蒼は琴葉を一人にしたくない。琴葉を守りたいと思っているが、その思いが強いせいでほかのことにあまり目が向いていない。だからこの機会に教えておかないときっと琴葉を傷つけてしまう。

「お前の気持ちはわかる。だけど守るはずのお前が傷つけてどうするんだ」

 でも、本当は俺にその言葉を言う資格はない。俺は一度蛍に絶対に癒せない心の傷を負わせたから。それでも、俺以外にこの言葉を伝える人はいないから。

「あいつのことが好きなら、あいつが本当に大切ならちゃんとあいつの心も考えてやれ」

 そう言いながら俺も好きな子を何度も傷つけてるくせにと自嘲する。それでも、伝えないといけないと思った。

「…いつから気づいてたんだ。俺が琴葉のことを恋愛感情で好きだってこと」

「いつからって蛍と付き合い始めたあたりからだけど」

 実際は俺が気づいたのではなく蛍が気づいたことなのだが、別にそれは言わなくてもいいことだろう。

「別に俺は兄妹なのにどうして、とかは思わないぞ」

 きっとこいつらにもいろいろ事情があるんだろう。

「はあ、一つ言っておくけど、俺と琴葉は半分しか血が繋がってないぞ」

 そう言うと、蒼は俺も知らない日浦家の事実を話し始めた。

「実は父さんと母さんが離婚した本当の理由は俺と琴葉が父さんと血が繋がってないからなんだ。しかも俺と琴葉だって父親が違うんだ」

 蒼たちの母親が浮気をしていたというのは実際に聞いていた。だけど、父親と血が繋がってないという話は今日初めて聞いた。

「だから、父さんは母親と一緒にいる方が幸せだと思ったんだ。実際、俺たちが不自由しないように毎月たくさんのお金を送ってきてくれている」

 俺は、こいつらは父親にも見限られたと思っていた。でも、今の話を聞くと父親は本当は二人を愛していたんじゃないかと思えてくる。

「このことを知ってるのは俺だけだ。琴葉には話していない」

 話していないって、

「なんで話してないんだよ。父親はちゃんと琴葉のことも愛しているって言ってやれば少しは救われるのに」

 こいつは琴葉を本気で思ってるんじゃないのか。じゃあどうして本当のことを言わないのか。

「…独占欲だよ。恥ずかしい話だけど、俺はあいつを独り占めしたいって思ってる。だから言いだそうにも言えなかったんだ」

 蒼はほんの少し顔を赤らめている。多分言うのも結構恥ずかしかったんだろう。

「なんというか、お前にも結構子供っぽいところあったんだな」

「うるせえよ」

 そんな風に男二人の会話は思っていたよりも楽しく過ぎていった。



「先輩、どうして笑っていられるんですか」

 私は命の部屋で兄との関係を先輩に話した後、先輩の秘密、私たちが通っている学校に転校する前のことについて話してもらった。けど、もしかしたらそれは間違いだったかもと思ってしまう。だって、

「私は自分のこと不幸だと思ってた。けど、先輩の方がよっぽどひどいじゃないですか。それで、耐えきれなくなって、死のうとした人がどうして笑ってられるんですか」

 確かに私は不幸だったかもしれない。でも、私には兄がいてくれた。私を大切だと言ってくれる人がいた。でも、この人にはそんな人いなかった。命と出会うまで、この人はずっと孤独だった。

「そんなの知ったら私、自分が不幸だと言えなくなるじゃないですか」

 私はきっと心のどこかで悲劇のヒロインを演じていた。もしかしたらそれで私は心を保っていたのかもしれない。でも、私よりも不幸な人がいるのなら、私はこれ以上悲劇のヒロインを演じれない。

「ごめんね。今まで黙ってて」

 先輩は申し訳なさそうに謝る。でも、先輩はもともと話そうとしていなかった。だから悪いのは私だ。

「でもまあ、琴葉ちゃんには言いたいことがあったし、いい機会かな」

 先輩はそう言うと私をまっすぐ見据えて、

「琴葉ちゃんってさ、いつも不幸な女の子みたいに振舞ってるよね。そこまで不幸じゃないくせに」

 はっきりと、私が一番指摘されたくないことを指摘した。

「だってさ、琴葉ちゃんって親に愛されなかっただけでしょ。自分を思ってくれるお兄さんがいて、親代わりになってくれた人がいて、それって本当は幸せなことなのに、不幸なところだけを主張してきたよね」

 私は先輩になにも言い返せない。もしもほかの人だったら親に愛されなかった苦しみがわかるのかと言えるだろう。でもこの人は親だけじゃない。誰からも愛されなかった。そんな人に私はなにも知らないくせになんて言えない。

「琴葉ちゃんが男子に人気があるのもそれでじゃないかな。ほら、かわいそうな子を好きな自分をかっこいいって思ってるとか」

「もうやめて、やめてください」

 先輩は私の心を抉るような言葉を平気でぶつけてくる。でも、どれも本当のことで、相手が私より不幸な人だったからやめてと懇願することしかできない。

「先輩、私が不幸ぶっているのが嫌だったんですよね。自分より幸せなくせにって思ってたんですよね。だったらもうこれからはそうしません。だから許してください」

 私は必死に言葉を絞り出す。今の私にはそれ以外なにもできない。

「別に謝らなくていいの。でもね、不幸ぶってたらいつまでたっても大切なものが見えてこないよ。ちゃんと気づかないと自分を本当に大切に思ってくれてる人を傷つけてからじゃ遅いんだよ」

 そう言う先輩の声は少し怖かった。けど、その言葉には優しさが込められていた。

「私さ、実は一回命にひどいことさせちゃったんだ。初めて私を大切に思ってくれた人なのに。私はそれに気づけなくて、命を傷つけちゃった。だからさ、琴葉ちゃんにはそういう思いしてほしくないんだ」

 先輩はゆっくりと私に近づき、そっと頭を撫でる。それはまるで母親が子供をあやすような手つきだった。

「私たちはね、もう普通には戻れないの。罪の意識から心に負った傷に気づかないふりもできず、お互いに傷を舐め合うことしかできない。私たちはずっと後悔の念に押しつぶされないよう必死に生きるしかないの」

 その声はどこか穏やかだけど、その裏にはどれだけの後悔があるのか。私には想像もつかない。

「だからさ、ちゃんと気づいてあげて。もしかしたら手遅れになっちゃうかもよ」

 先輩の声にはほんの少しだけ涙が混じっている。さっき、この人は平気で私の心を抉る言葉をぶつけてきていると思った。けど、本当は私のことをちゃんと思ってくれていた。

「さてと、琴葉ちゃんたち今日からうちに泊まるんでしょ。だったら私の部屋使っていいよ。どうせ一度も使ったことない部屋だし」

 そう言いながら先輩はドアを開けて部屋から出ようとする。

「先輩、一つだけ聞いてもいいですか」

 でも、私は一つだけ気になることがあって、先輩を呼び止めた。

「あの、先輩が命にしたことって何ですか」

 どうして先輩たちがそんなに苦しんでいるのか。その理由だけがどうしても気になった。けど、

「ごめんね。それだけは教えられない」

 先輩はそのことについては何も教えてくれなかった。



 蛍たちの話が終わってから俺と蛍で蒼たちの荷物を日浦家まで取りに行った。もしも母親がいたら面倒なことになるんだろうなと少しだけ不安にもなったが、結局家には誰もいなかった。

「今日は本当に色々あったな」

 あいつらの荷物を取りに行ってから、いつも通り四人で食事をとり、風呂を済ませていつものように蛍と話をする。

「そういえば蛍は琴葉とどんなこと話したんだ」

 琴葉と蛍の話は割と長かったし、多分お互いの秘密を離しただけじゃないんだろう。

「えっとね、琴葉ちゃんずっと不幸ぶってたでしょ。だからそのままだと私みたいに失敗しちゃうよって注意したの」

 隣に座る彼女は頭を俺に預けながらさっき会ったことを説明してくれた。

「でも、流石に命が人を殺したってことは言えなかったよ。これから家族になるんだし、それだけは言わない方がいいでしょ」

 人を殺した。そのことを俺は一度も忘れてないのに言葉にしただけで少し胸が苦しくなる。

「ありがとうな。そのことを秘密にしてくれて」

 その痛みを誤魔化すように俺は蛍の頭を撫でる。それでも、胸の痛みは誤魔化せられなかった。

 二年前のある日、俺は彼女が当時お世話になっていた児童養護施設に用事があり、それを口実に彼女と一緒に帰っていた。その道の途中、彼女に逆恨みをしている女の子がナイフを持って彼女を襲おうとした。それを見て頭に血が上った俺はその女の子に体当たりをしてナイフを奪い、その女の腹にナイフを刺し、殺した。その後その女の子は出血多量で死亡し、俺は蛍が自分を庇ったら俺に襲い掛かってきたという嘘の証言をしたおかげで正当防衛が成立し、その事件はただの事故として扱われた。けど、俺には人を殺したという心の傷が残った。

「命、どうしたの。冷や汗すごいけど」

「え、ごめん。大丈夫だよ」

 あの時のことを思い出していたせいか額に汗が滲んでいた。

「なあ、蛍、一つだけ聞いていいか」

 それは、今までずっと聞きたくて、どうしても聞けなかったこと。

「どうして蛍は俺のこと好きになってくれたんだ。俺はお前の目の前で人を殺したのに」

 そう聞くと蛍は笑って俺の手を握ってきた。

「どうしてって、命は本気で私のことを思ってくれてるってわかったからだよ。私はずっと一人ぼっちだったからそれがすごく嬉しかった。好きになっちゃうくらい、嬉しかった」

 でも、嬉しかったからこそ、私のせいで人殺しをさせてしまったことがつらかったと彼女は言う。彼女は俺のことを好きになってくれたからこそ傷ついたのだ。

「ごめんな。あのとき殺すんじゃなくて止めていればお前は傷つかなかったのに」

 彼女の心の傷は俺が付けたものだ。俺が間違ったことをしたから彼女が傷ついてしまった。

「謝らなくていいよ。私はあのとき命に命を救われた。悪いのはそれを見ていて止めようとしなかった私だよ。あいつの死を願った私も命と同罪だよ」

 まあ、要するに俺たちはお互いに悪かったのだ。俺はその場の激情に身を任せて人を殺し、彼女は止められたのに止めなかった。そのせいで俺たちはお互いに傷ついた。だからもう一つの最悪の結果なのだ。

「でも、お前を守れたことだけは後悔しないけどな」

 もちろんそれ以外の後悔はある。あのとき彼女と一緒に逃げればよかった。体当たりをしてナイフを奪うだけにしてあとは警察に任せればよかった。男女で体格差があるのだから押さえつければよかった。今考えるだけでいくらでもやりようはあったという後悔。でも、彼女を助けたということだけは絶対に後悔しない。

「そっか。そういえば命はそういう人だったね」

 蛍はそう言うと突然俺の手を引いてベッドに寝かしてくる。そのあと彼女も俺の隣に寝転んだ。

「じゃあもうこの話はおしまいにしよ。初めてこの手の話で明るくなったんだもん。今日はこれで終わりたい」

 そう言いながら蛍は俺の胸元にツッーと人差し指を這わせてくる。

「じゃあ最後に一つだけいいか」

 でも俺は一つだけ気にかかってたことがあった。

「蛍って蒼たちのことどうでもいいって思ってなかったっけ。それなのにどうして自分のことを話したりしたんだ。どうでもいいなら無視してもよかっただろ」

 蛍は今まで何度も俺以外はどうでもいいと言っていた。だったらどうして自分の秘密を離したりなんかしたんだろう。

「えっと、命って割と独占欲強いでしょ。だからそう言ってあげれば喜ぶかなって思ってたの。本当は琴葉ちゃんも蒼くんも心配してた。嘘ついててごめん」

 その真相は思っていたよりしょぼいものだった。

「ごめんね。嘘ついてて。でもそれ以外は嘘も秘密もないよ」

 そう必死に訴える彼女が可愛くてつい頭を撫でてしまう。

「別にそれくらいの小さい嘘や秘密でどうこう言わないよ。そう言われて喜んでたのも事実だし」

 俺がそう言うと蛍は安心したように微笑んだ。

「そっか。それならよかった。でもさ、そういう言葉より命はこういうことの方が喜ぶよね」

 そう言って蛍は俺の上に多くかぶさるような態勢になった後、俺の口に唇を重ねてきた。

「大好きだよ。こんなことをするの命だけだから」

 再び唇に彼女の温もりを感じ、そのまま蛍が体重を預けてくる。そうして、俺たちはゆっくりと夜に溶けていった。



 一度も使われていないと言っていた先輩の部屋は本当に使われていないらしく、入ってすぐはほこりまみれでとてもいられたものじゃなった。だから私とお兄ちゃんで掃除と換気をして、ようやく部屋にいられるくらいになった。

「はあ、やっと寝れる」

 掃除で疲れた私たちは糸が切れたようにベッドに倒れこむ。さっきまでは先輩たちの部屋から声が聞こえていたが、今はもう静かになっている。

「使わなくても普段から掃除くらいしてほしかったよな」

 お兄ちゃんも結構不満みたいで、いつもは漏らさない愚痴をこぼしている。そういう私ももうクタクタで、本当は今すぐ眠ってしまいたい。

「ねえ、お兄ちゃん」

 でも、どうしても一つだけ確かめたいことがあるから、今は眠るわけにはいかない。今眠ったらもう二度とこのことを聞けない気がする。

「お兄ちゃんさ、私のことどう思ってるの」

 そう聞くとお兄ちゃんは驚いたような顔をする。突然そんなことを言われたんだ。誰だって驚くだろう。

「さっき先輩に言われたんだ。今のままだと私を大切に思ってる人を傷つけちゃうって。でもさ、それって私のことを思ってくれている人がいるからそう言ったと思うんだ」

 もしも本当の意味で私を思ってくれている人がいないなら、先輩はあんなこと絶対に言わないと思う。でも、本当の私を知ってそれでも私を本気で気遣ってくれる人なんて私は一人しか思い浮かばない。

「ねえ、教えて。お兄ちゃんは私のことどう思ってるの」

 私はお兄ちゃんに覆いかぶさるように上に跨り、兄と目を合わせる。目を逸らされるかなと思っていたが、お兄ちゃんはそのまま私の目を見据えてきた。

「まあ、いつか聞かれるだろうなとは覚悟してたよ」

 兄はそっと私の頬を慈しむように撫でてくる。

「俺はお前のことがずっと好きだった。家族としてじゃなくて、一人の女の子として好きだった。だから守りたかった」

 兄弟なのにおかしいよな、とお兄ちゃんは自嘲気味に笑う。

「俺がおかしいっていうのはわかってる。だから気持ちを受け入れてほしいなんて言わない。俺との関係だって今日で終わってもいい。ただ、俺の気持ちだけは知っていてほしい」

 その言葉にはどれだけの想いが込められているんだろう。受けいれなくてもいい。軽蔑しても構わない。でも、知っていてほしいと言えるほどの想いを、兄は私に抱いてくれている。だったら私は、

「確かに、おかしいかもね」

 その気持ちに対して本心で答える。このことに関しては絶対に誤魔化したり嘘をついたりしてはいけない。

「だよな。やっぱりおかしいよな」

 お兄ちゃんは少し落胆したような声を漏らす。

「けどさ、別におかしくてもいいんじゃない」

 私はそんな兄に優しく口づけをした。

「私たちってさ、元々おかしいでしょ。今更血が繋がってるのに好意を持ったってくらいじゃ軽蔑しないよ」

 私たちの関係は三年前から歪に歪んでいた。これ以上関係が歪になったって大して変わらない。だって、元々歪んでるんだから。

「それに私は嬉しいよ。本当の私をちゃんと見てくれて、その上で好きって言ってくれてるんだから」

 私がそう言うとお兄ちゃんの目元から透明な雫が零れ落ちる。それを確認したと思ったら私は兄に抱きしめられていた。

「ありがとう。受けいれてくれて。さっきはああ言ったけど、本当は受け入れてほしかったんだ」

 兄の言葉は涙に濡れている。でもその涙は悲しいものじゃなくて、私の胸もジーンと熱くなってくる。

「私も間に合ってよかった。もしもこのまま気づかないで、傷つけてから気づいていたら、私は耐えられなかった」

 そう言って、私は再び兄を見据え、唇を重ねた。



 それから私たちは誠一郎さんが帰ってくるまでは井川家に居候としてお邪魔することになった。その間も母親が私を連れ戻しに来たりと大変だったが、命が追い払ってくれたおかげで、私たちは無事、井川家の養子になった。そして、お兄ちゃんたちは学校を卒業し、私の学校生活は劇的につまらないものに変わってしまった。そのせいで少しずつ私の化けの皮が?がれていったが、好きな人が卒業して荒れたんだよ。と勝手に勘違いされたせいで結局人付き合いを続ける羽目になった。そんな風に学校での時間は過ぎていって、私も学校を卒業することになった。

「おーい琴葉。どこ行くの」

 卒業式も終わり、クラスも解散したから帰ろうとしたらクラスメイトの一人に呼び止められる。

「別にもう帰っていいでしょ。私早く帰りたいんだけど」

 お兄ちゃんたちが卒業してからの私は色々面倒くさくなって作り笑いを浮かべて話すのをやめた。その結果男子には告白されなくなったけど、女子たちは勝手な勘違いをしていて普通に話しかけてくる。

「井川先輩が卒業してつらいのはわかるよ。でもさ、卒業した後も会ってるんでしょ。なんでそんなに荒れたの」

 会ってるどころか一緒に住んでるのだが、それを言うと絶対に面倒なことになるのでそのことは言わないでおく。

「だから私は命のことなんてなんとも思ってないって。それに、命たち卒業してすぐ結婚したんだよ」

 あの二人はこの学校を卒業してすぐ籍を入れた。もう少し様子を見てからの方がよかったんじゃないかと言ったら、どうやら結崎の姓が嫌だったらしく、早く籍を入れたいと言われ、そのまま流れで入籍したらしい。

「井川先輩結婚しちゃったんだ。なるほどね。それは荒れて当然だわ」

 クラスメイトの女の子は合点がいったという顔で頷いている。また変な勘違いをされた気がするがもうこれで関係も終わるからいいやと思いそのまま教室を後にする。

「ちょっと琴葉、待ってって」

 教室の方から声が聞こえるが、私は無視して校門の方へと歩いていく。



「あ、琴葉、もういいのか」

 校門まで行くと、何故かお兄ちゃんが待っていた。

「お兄ちゃんもしかして今日会社休んだの?ダメだよ。そんな理由で休んだりしたら」

 本当は嬉しかったけど、つい意地悪でそんなことを言ってしまう。

「大丈夫だよ。彼女が今日高校を卒業するから有給使わせてくださいって言って休暇取ったから」

 本当は妹だけどなとお兄ちゃんは笑う。意地悪をした私は予想外の返答に困惑して、赤面するしかなかった。

「ほら帰ろう。今日はまだ命も帰ってきてないから」

 そう言いお兄ちゃんは私の手を握る。私たちはそのまま家への道を歩き出した。



 あれから二年、私たちの関係も命たちの関係も少し変わった。私たちは事実婚状態になり、命たちは夫婦になった。もちろん世間には私たちが事実婚状態っていうのは秘密で、私たちが夫婦らしく振舞えるのは家の中だけだった。

「そうそう、蛍この前のパートの面接受かったらしいぞ」

「あ、お姉ちゃんやっと真面目に働くんだ。私も働くしこれでだいぶ貯金もできるよね」

 命に俺たち以外の人に私たちの関係を気づかれないようにしろと言われているから、私たちは外ではただの兄弟を装っている。

「ホントにお姉ちゃんが働いてくれて助かるよ。働かせるのも大変だったけど」

 命たちが結婚して、先輩を今までと同じように呼ぶのもあれだったから、お兄ちゃんは蛍と、私はお姉ちゃんと呼ぶようになった。お姉ちゃんと呼ぶのは恥ずかしかったが、家族が増えたと実感できて少しうれしくもあった。

「本当に大変だったよな。やっと働く気になったと思ったら内職しかやらなかったり」

 お姉ちゃんは卒業後、就職も進学もせず、ずっと家にいた、それだけならまだよかったが、先輩は家事もあんまりやらなくて、ただの穀潰しになっていた。それでも命はお姉ちゃんを甘やかしていて、このままじゃだめだと思ったお兄ちゃんが何度も働けと言ったが、結局お姉ちゃんは働こうとはしたかった。だから私が今のうちに働いて貯金を作っておかないと子供できたときに命に大変な思いをさせちゃうかもしれないよと言ったらちゃんと働く気になってくれた。でも、最初の方は内職ばかりで、それすら長続きしなかった。だから今回の合格は素直に喜ぶべきだろう。

「まあこれでしばらく働いてくれればいいんだけど、先輩のことだからすぐクビになっちゃいそうだよね」

 そんな風に話しながらお互いに笑い合う。外ではこれくらいしかできないけど、それでもこういった時間が本当に愛おしい。

「まあ、一度働いてくれれば大丈夫だろ」 

 そうやって話しているうちに家に着いてしまう。それは楽しかった時間が終わるということであり、別の楽しい時間が始まるということだ。

「ねえ、お兄ちゃん。私のこと、今でも好き?」

 私は家に入る前にわかりきった質問をする。

「好きだよ。今までも、これからもずっと」

 お兄ちゃんは私が欲しい答えを本心から答えてくれる。私はそんな人にいつか本心からの想いが芽生えるようにと願いながら、

「私も、大好きだよ。蒼」

 そっと、口づけを交わした。

                       終わり


ちょっとあれな内容でしたが楽しんでいただければ幸いです

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