ブレイン・イニシアティブ
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白みを帯びた空の天井が、時間通りに夜明けを告げた。
杏の花が香る、爽やかな朝である。
どこか白々しい陽光が差し込む閑散とした一般教養科の宿舎で未だ寝間着姿のまま講堂の鐘が鳴らす始業の音を聞いていた少年は、たったひとり、様々な出来事に置いてきぼりにされ、困惑していた。
背中の真ん中で大雑把に切り揃えられた黒髪が、俯いた拍子に肩から胸へと滑り落ちていく。
ざんばらな前髪の奥で、水色の眸が揺れていた。
「………冗談じゃない」
図らずも二度目の宇宙遊泳となったあの事故から無事に生還することができたティエンは、手土産ならぬビニールで梱包された一式の制服を「学兵制度に基づく法的処置です」という説明とともに需品科の制服から手渡され、帰宅し、一睡もできないまま今に至っていた。
「法的処置で、こんなことが許されるのか……?」
これは戦闘技能科の制服。
特務機関に属する者が、軍服と同等に扱われるべきものだと主張するものだ。
「一般教養科から戦闘技能科への強制転科……どうして……僕が……」
思い当たる節なら───ひとつだけある。
だがそれは、強制的に転科させられる理由にはならない。
ならない……はずだ。
「………はぁ。もうわけが分からない」
分からないまま、ティエンは新しい制服に着替えはじめた。
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伸縮性のあるワイシャツが、驚くほど自身の体型にぴったりと合っていた。
動きやすさを重視しているのか、遠目に見慣れた丈の短いブレザーと、違和感そのものの褐色のショルダーホルスターを手慣れた様子で身につけながら鏡の前に立つ。緑色のネクタイだけが唯一の知り合いだった。
いつものように、手櫛で纏めた髪を年季の入った安物の髪留めで束ねて。
いつもと同じように「いってきます」と言って。住み慣れた宿舎を後にした。
どこに向かって歩いていけばいいのかさえよく分からないのに、帰る場所さえ失い───ティエンは心身ともに途方に暮れた。
「おせぇよ。この寝坊助が」
場所は変わり、ティエンが呼び止められたのは各学舎に隣接する職員棟へと続く長い廊下のど真ん中である。
見るからに胡散臭そうな男がひとり、廊下の壁に背中を凭れて舌打ちしていた。
(眼帯…………なんで)
今時、時代遅れの眼帯である。
黒革の眼帯で隠されていない方の左目が、不機嫌そうにティエンを見つめていた。
「えっと……」
寝坊して遅刻したわけではないが「逃げ出そうとして失敗したんです」という本音は、すでに口の中でカラカラに乾いていた。
居心地が悪い。
ついでに、ばつも悪い。
「………ふん。どこにでもいる、普通のガキじゃねえか」
眼帯の男は感慨深く呟き、少し離れた場所で所在なさげに立ち尽くしていた女子生徒を、相変わらずの無愛想で手招いた。
「リリア」
「はい」
どうやらすべてを丸投げされたらしい少女が、憂い顔のままティエンの傍に歩み寄ってきた。
桃色の髪を揺らし、ぺこりと頭をさげる彼女の生真面目さを、ティエンは少しだけ不憫に思った。
「突然のことで驚かれましたよね」
ええ、それはとても。
「あなたがティエン・ランさん?」
「……そうです」
居心地が悪そうにティエンは答えた。
「初めましてティエンさん。わたしの名前はリリア・ラピスといいます。ティエンさんと同じ戦闘技能科の二年生です。専攻は戦術オペレーション。これは航空通信士を養成するための機関です。ティエンさんには……一般教養科から戦闘技能科へ転科するにあたり、自律型機動兵器操縦技術開発部に在籍していただくことになります。名称はクリサリス。操縦士になることを最終目的とした学部です。他に選択肢はありません」
声音はとても優しいのに、内容は少しも易しくない。
呆然と立ち尽くすティエンに、少女は複雑な微笑を浮かべるだけである。
「怒らないんだな、お前は」
リリアの隣に並んだ教師が嘲るように言う。
この理不尽を許せるのか。と、二つの眼差しに問われて。
ティエンは沈黙した。
「───とにかく、お前をなんとかしないと四号機パイロットが使い物にならない。頭の固いおっさ………お偉いさんたちが頭抱えて悩んでるのは“それだけ”だ。今は勉強ができなくてもいい。運動ができなくてもいい。これ以上アイツの足を引っ張らないでやってくれ」
語尾に含まれた優しさが誰に向けられたものなのか。
そんなこと、ティエンは知らない。知りたくもない。
「僕は………備品、みたいなものですか」
教官は「役に立てばな」と言って、笑った。
「フォルトナー教官は戦闘技能教習の指導員で、技能検定員も兼任しています。気さくな人柄で、生徒想いの良い先生ですよ」
柔らかい笑みを浮かべるリリアの隣で、とたんに目を眇めるティエン。二人の背中を見つめながら歩いていたルーエンハイムも、不敵に笑って顔を突き出してくる。粗暴だが、その横顔はけして不潔ではない。
「ご誉めにいただきどーも」
「うう………ぜったい嘘だ」
「蹴飛ばすぞ?」
意外だった。煙草の気配が少しも感じられない。
むしろ、ムスクの香りに落ち着く柑橘系の香りがした。
「こっちだ」
学舎の地下を進む三人の足音が、閉鎖的で薄暗い通路の最奥でピタリと止まる。
「……………あの、ひとつ訊いてもいいですか?」
昇降機を幾つか乗り継いでから、ティエンは誰にともなく訊ねた。
「僕たち、どこに向かってるんですか?」
リリアとルーエンハイムが、同時にティエンを見た。
「格納庫ですよ、ティエンさん」
「はぁ」
「技能科の生徒なら『一度は生で見てみたい』『直に触ってみたい』って騒ぐところなんだが───まあいいや。たまたまそれがここにあるから説明がてらに見せてやるよ。つーか、お前のせいでここに運ばれてきた機体だし」
「………それって、どういう意───」
突然、資材運搬用の大きな扉が開かれた。
機械オイルと鉄錆びのにおい。それらが混じった生暖かい風が、ティエンたちの髪を容赦なく掻きまわす。
「───連邦国家が血眼になって開発した新兵器。リグ・アパスルの進化系だ。わかるだろ、お前なら」
扉が開ききる前に、ルーエンハイムが言う。
「自律型機動兵器レグナ。人類の希望が見ての通り、ズタボロだ」
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兵器と呼ぶには美しすぎるそれを、今度は三人で見上げることになった。
真っ白に塗装された機体は、女性的なフォルムを屈めて座っている。跪いているのだ。
両手で水を掬うかのように、胸の前で手を合わせているのは、空っぽの胸に何かを押し込もうとしているのか。それとも何かを守っているのか。
その姿勢の意味を、ティエンは知らない。
「北欧神話に出てくる………神様みたいですね」
ティエンの呟きを盗み聞いていた整備士たちが、作業の手を止めて薄く微笑んだ。
「知ってるか? レグナの装甲は鉱蓄獣の体でできてるんだぜ?」
ルーエンハイムに言われて、リリアとティエンは顔を見合わせた。
「『フリティラリアセルニウム』ですよ、ティエンさん」
「うん、知ってるよ。なかなか覚えられなくて苦労したからね」
塗装が剥げ落ち、丸見えになってしまった光沢のある黒い鋼鉄板を指差しながらティエンは苦笑った。テストでたびたび怖い思いをしているのだろう。はた目に見ていてそれとわかる表情だ。
「地球にもこの宇宙にも存在しない希少金属で、バルディフが養分として吸収した汚染物質を体内で分解する際、老廃物として排出されたものが表層で石化したもの……だったよね」
「人間は、その鉱物資源さえも根こそぎ奪い取って『今』を生きてる。元はといえば人間が汚した地球だぜ? アイツらにとって人間は敵以外の何者でもねぇよ」
鉄柵に背を凭れながらルーエンハイムが言う。その皮肉は、罪深き人間へと向けられたものだ。
「良心を捨てたヤツだけが生き残れる。ここは、そーゆー場所だ」
生きたければ鉱蓄獣を殺せ。
生きたければお前も罪を背負え、と。
そう───言われているような気がした。
「僕に………何をしろって言うんですか?」
「あれに乗れ」
教官の背中が、純白の機体を指す。
「僕は、能力者じゃありません」
「知ってる」
「あれは、能力者が乗る機体です」
「知ってる。でも乗るんだ」
「それは、誰の命令ですか?」
「この世で一番重い罪を背負ってる連中からの命令だ」
ぴしゃりと言い放たれ、ティエンはあっという間に根負けした。
リリアが心配そうな顔をしている。
ルーエンハイムは不貞腐れている。
「………ティエンさんは、必要とされているんですよ」
優しいリリア。
「あー、はやく復帰してくんねーかなぁ、四号機のパイロット」
優しくない教官。
肩をすくめるティエンを真ん中にして、個性的な三人が鉄柵の前に並んだ。
「ティエンさんが持つ受容体は、けして珍しいものではありません。ただ………能力を持たずに、この体質だけを持って生まれてくることは非常に珍しいことらしくて」
「ようは百パーセント他人に依存しないと役に立たない力だってことだ。他人の意識や能力を取り込み、自身の能力として上乗せ、行使することができる能力。しかも一方通行じゃない。お前の場合、取り込んだ能力をまた別なヤツにも分け与えられるから、ことさら上層部の期待がでかいんだ」
本当にそんな力が自分にあるのだろうか、と。
ティエンは首を傾げながら自分の白っぽい手のひらを見つめた。
「一時的だったとはいえ、力を全部持っていかれたフェアリスにとってはものすげぇ迷惑な話だったわけだ。お前も見ただろ、宇宙港でのあの騒ぎ」
教官が言う『あの騒ぎ』とは。
回収されたレグナから半ば強引に引きずり下ろされた四号機パイロット、フェアリス・フェンデが突発的に起こした癇癪のことである。
「感応能力者に限らず、能力者はみんな感受性が強くてな。とくに、人の話を“聞き流せない”感応能力者は、心理的ストレッサーに対する防衛規制が異常だ。ただの癇癪ならまだしも、精神汚染まで起こされたら、一般人には堪ったもんじゃねーよ」
一般人だったティエンに向かって、現在もごく普通の一般人として平凡な日々を送っているルーエンハイムはしれっとした口調で言う。
「なんでお前だけ平気なんだよ。あの場にいて、フェアリスの癇癪を眺めてたくせに」
「………そんなこと、僕に言われても………」
能力者でもなければ、一般人でもない。
そんなティエンに投げ掛けられた意地悪な問いである。
答えに困って俯いてしまったティエンに寄り添い、リリアは視線だけをルーエンハイムに向けて───むっと唇を尖らせた。
だいぶ前からその険に気づいていた教官は、ティエンの肩に隠れて苦笑し、自身の唇に人差し指をあててそれを制する。
「自分が何者かなんて、考えるだけ無駄だぜ。ティエン・ラン」
優しくない言葉ばかり並べて相手を傷つけようとする、教官の本当の横顔を見て、リリアは何も言えなくなった。
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運び込まれた宇宙港の格納庫で、翼を折られた女神がくずおれた。
何事かと足を止めて周囲を見渡す従業員たち。
流れに抗い、叫びながら人混みを掻き分ける赤毛の少年、ラーレ。
たったひとり、人混みの中で立ち尽くしていた一般教養科の少年、ティエン。
水色の髪を振り乱し、喧騒の真ん中で泣き叫んでいた稀代のレグナスパイロット───フェアリス。
頭痛を訴え、次々と足許に倒れ込んでゆく人々を、ティエンだけが茫然と見つめていた。
痛みに耐えながらフェアリスに寄り添っていた赤毛の少年も、ティエンの姿に気づいて目を留める。
「……誰だ……おまえ……」
かき消される少年の呟きに、ティエンは首を傾げた。
「おまえ…………なんなんだよッ!!」
悩む必要なんてない。
自分が何者かなんて、自分がいちばんよく知っているはずじゃないか。
「僕は………」
ラーレの呟きを問いと受け止めたのか。
目の前に立つ黒髪の少年が、答えに困って狼狽えた。
───馬鹿だ、こいつ。自分が何者か知らないなんて………
答えを待たずに、赤毛の少年は意識を失った。
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「ここは?」
教官と別れて、リリアと二人きりになってしまったティエンが次に連れてこられた場所は『整備錬成科・第7格納庫』と書かれた立体文字看板の前だった。
「ここが整備錬成科の“教室”ですよ、ティエンさん」
目を瞬かせるティエンを見て、リリアは「本当ですよ」と言って笑った。
「戦闘技能科は、学兵制度に基づき併設された学科です。パイロットを志望されるティエンさんには、いずれ習覚機動兵器と呼ばれる練習機に乗っていただくことになるのですが───」
「習覚……なに?」
「習覚機動兵器です。整備錬成科の生徒が“単位習得”のために造った機体ですよ」
ぽかんと立ち尽くすティエンに。
「本当ですってば」
リリアはいよいよ苦笑した。
「学生がロボットを造っているんです。それを操縦するのも、学生です」
つまり、そういうことらしい。
学生による自営と、学兵による自衛。
もしかしたら───レグナス育成という大儀は、自分の身は自分で守れという教育方針のうえに成り立っているのかもしれない。
もしそうなら、この星は要塞と呼ばれるほど、強くはない。
むしろ、真っ先に狙ってくれと。両手を広げているようなものだ。
火星を守るためだけに造られた星は───少しだけ錆びのにおいがした。
「リリアは、どうして僕をここに?」
苦渋を隠してティエンは尋ねた。
彼女は頷き「知り合いがいるんです」と、気恥ずかしげに答えてくれた。
「ティエンさんがパイロットとして練習機に乗るようになったら………その………整備科のみなさんとは毎日顔を合わせる間柄になるわけですから」
今のうちに交遊関係を広げておきたい───と、いう彼女の優しい思惑があったようだ。
「ねぇ、リリア」
「はい」
「どうしてリリアは、同い年の僕にも敬語なの?」
ティエンが何気なく訊くと、リリアの肩が雷に打たれたかのようにびくりと震えた。
「リリア?」
「癖なんです」
そう言って微笑む彼女の両手は、黒地のキュロットの端をきつく握りしめていた。
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「いやー散らかっててごめんねー。きみが噂の編入生? 無理やり転科させられたって聞いたけど、それ本当なの? じゃあものすごく頭がいいんだね。───え、違うの? じゃあ運動神経がものすごくいいとか? それも違うって? じゃあなんで技能科に連れてこられちゃったのさ?? ま、いいや。俺の名前はアスベル・ハイア。整備錬成科で見ての通りメカニックやってるよ。あ、身長が低いからってバカにすんなよ。こう見えてもお前よりいっこ上の先輩だからな」
「……えーと、ティエン・ランです。はじめまして………ハイア先輩」
「アスベルでいいよティエン。ところで二人とも、こんな時間にこんなところで何やってんのさ?」
矢継ぎ早に質問され、とうとう返答に窮したティエン。
二人を引き合わせたリリアだけがとても楽しそうに、これまでの経緯をにこやかに説明し始めた。
アスベル・ハイア。
人好きのする顔立ちと陽気な性格が人目をひく少年だった。
油染みのついたオレンジ色の作業着を長年愛用してきた彼は、中型犬を思わせる人懐こさで、小動物に例えられることが多いティエンの肩を抱き寄せた。
「あっはっはっ! それは災難だったねー。宇宙の藻屑になりかけたかと思えば、今度は能力者になって帰ってきちゃうんだから───きみってばほんと、運がないっていうか、ありすぎるって言うか……ぷぷっ、なんかもうかわいそすぎて涙でそ」
「なんの涙ですか、それ」
大袈裟に目元を拭うアスベルを首に巻いたまま、ティエンは無抵抗に微笑した。
「そうかそうか、それで技能科にねぇ」
含みのある声で言い、表情だけを険しくしたアスベルが、なおも陽気な声で言い募る。
「きみはそれでいいの? 一年次は座学と模擬飛行訓練。二年次は習覚飛行訓練と特殊型式証明の取得。これ取らないと、操縦席はおろか、レグナの装甲にも一切触れられないよ?」
「はい?」
ティエンの間抜けな返事に脱力したアスベルが、その肩に額を乗せて震えている。今度こそ泣いているのかもしれないし、笑っているのかもしれない。
「そんなんで、ほんとあれに乗る気なの?」
「“あれ”……って」
アスベルが指差す方向を見やりティエンは首を傾げた。
キャットウォークの向こうに見える、灰色のビニールシートで覆われた何か。
双腕型起重機よりも大きくレグナよりも小さい何かが、幌のなかにあった。
「習覚機動兵器」
もっと近くに来なよと、アスベルに手をひかれてティエンは歩き出す。
「こいつね、最近まで廃棄物置き場のコンテナのなかにいたんだよ。つまりスクラップ。型は古いし装甲も錆でボロボロになってたんだけど、試しに脱がしたら意外や意外、こいつってば見た目によらず洗練されたいい体しててさぁ──」
そこまで言ってアスベルは我に返った。
「…………ごめん。お願いだからそんな目で俺を見ないでくれる?」
歩みを止め、自慢げに両手を広げてみせたアスベルの表情はとても明るく。それを見せつけられたティエンの表情はとても暗かった。
「学兵パイロットもこれに乗って戦うんだよ。即応予備軍っていうやつだね。空母艦隊とレグナがバルディフを仕留め損ねないかぎり───この機体が戦場で活躍することは、まずないよ」
アスベルの横顔に鉱蓄獣に対する恐れは少しも感じられない。むしろ自分たちが学生だからという理由で戦闘を回避できると思っているのだろう。彼の陽気さは、そこにあるのかもしれない。
「平和ですね、ここは」
「ん? なんか言ったかー?」
「いえ、なにも」
ティエンの手のひらが、きつく握り締められる。
「平和なことは、いいことだと思います」
それだけ言って、ティエンは目を瞑った。
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『生物の個体には、環境に適応して新たな形質を獲得する能力があるといわれています。つまり、環境に応じて進化する、という意味です』
『………よく、わかんない』
小さな子どもが父親の腕の中で項垂れた。
父親の方もしまったというような顔をして、高い鼻梁にかかる丸眼鏡の縁を気まずそうに押し上げた。
『──“人が空に憧れるわけ”──なかなか難しい質問ですね』
思い立ったように質問を投げかけてきた我が子の額に、父親は頬をすり寄せ、その小さな体を優しく抱き締めた。
『生物はみんな臆病なんです。自分より強いものを恐れ、より遠くに逃げようと努力します。あるものは翼を生やして空を飛び、あるものは水の中で長い間息を止める方法を覚えて、みずから水のなかに飛び込んでいきました。どちらも生き延びるために必要な進化だったといえます』
すみません、僕は理系なので。その謝罪すら絵本を手離せない子どもには理解できない。
『人がなぜ空に憧れを抱くのか………うーん、そうですねぇ』
小首を傾げる我が子に、父親は苦笑しながら言う。
『人間を形作る細胞が、空に逃げろと警告しているのかもしれませんね』
父親の癖のない金髪が、膨れる子どもの頬をくすぐった。
『にんげんは、なにがこわいの? バフバフ?』
『地球にいられなくなることが怖いんです』
『おとーさんも、きらいなの?』
『……鉱蓄獣が、という意味ですよね?』
『うん』
『───いいえ、僕は……』
父親は、それっきり口をつぐんでしまった。
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「ティエンさん、もしかして具合がわるいんですか?」
「え? あ……ううん、違うよ。ちょっと考え事をしてて」
講堂前の広場まで来て、リリアは歩みの遅いティエンのために、赤茶色とクリーム色のレンガを敷き詰めた遊歩道の真ん中で立ち止まった。
「少し休みましょうか?」
「本当になんでもないよ。さ、次はどこに案内してくれるの──」
笑って先を促そうとして「……かな」失敗した。
進行方向に目をやり、表情を強張らせたティエンをリリアは見逃さなかった。
「ティエンさん?」
リリアも、ティエンの視線の先に目を転じた。
理由はすぐに分かった。
赤髪の少年に車椅子の行く先を任せて歩く、水色の髪を太めのみつあみで纏めた少女が、膝にかけたカーディガンをきつく握り締めながらこちらを見つめていたのである。
会わなくてはならない。
けれど、会いたくない。
様々な感情が交錯し自ずと足が遠退いていた彼女が、街路樹を三つ挟んだ木陰の下で険を纏って佇んでいた。
「……戦闘技能科三年、フェアリス・フェンデ先輩と、ラーレ・アル・ハーディー先輩です。今日は学校を欠席なさっているとお聞きしていたのですが……」
不穏な空気を感じ取ったリリアが、ティエンとフェアリスの間で狼狽えた。
「───信じられない。力を持たない貴方がなぜ、この格式高い戦闘技能科の制服を着ているのかしら?」
氷柱のような第一声がティエンの胸に食い入った。
着なれない制服が、まるで鉛でも仕込まれたかのようにずしんと重くなる。
とたんに呼吸をするのも苦しくなった。
「あ……あの、フェンデ先輩。あのときは、本当にすみませんでした……僕、なにも知らなくて」
「ひざまづきなさい」
「え?」
「届かないのよ。だからひざまづきなさい」
ここに、と指差された場所は彼女の足下。
車椅子のペダルに乗せられた両足をみて、ティエンは言葉を失った。
細枝のような両足が、膝にかけた薄黄緑色のカーディガンの隙間から覗いていたのである。
彼女の足は、ずっと前から動かないのだ。
「ぐずぐずしないで、さっさとひざまづきなさいと言っているのよ。この、のろま」
言われるがままに慌てて彼女に近づき、ティエンは膝を折った。
「あ……あの、これって──」
何をしようとしているのかと問おうとして顔をあげたティエンの頬に。
「ティエンさんっ!?」
大きく振り上げられたフェアリスの右手が──直撃した。
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「あちゃ~…これはまた」
踊り場の隅で膝を抱えて俯いていたティエンの側に、油汚れと思しき迷彩柄の作業着を着た少年が、のんびりとした足取りで近づいてきた。
「派手にフラれたね」
「違います」
なんでそうなるんですか。
不貞腐れるティエンの首に腕を回し、アスベルは「冗談だよ」と笑った。
「慰める側としては、ティエンの心臓がフリティラリアセルニウム製だとありがたいんだけどね」
「………」
辛辣な比喩にぐうの音も出ないティエン。
かすかに石鹸の匂いがする指先が、ティエンの前髪を弾いて離れていった。
「でも、ま」
俯くティエンの頬に、よく冷えたアルミパウチ製のスポーツドリンクが押し当てられた。
意識しないようにしていた左頬の手形に、今度はぴりぴりとした冷たい痛みが走る。
「フェアリスの気持ちも、わからなくはないよ」
耳を傾けてはいけないと思った。
苦笑するアスベルの横顔に、彼女の足手まといになるなと言ったフォルトナー教官の横顔が重なった。
「ま、それはそれとして」
「え?」
「ティエンは面白いね」
「は?」
脱いだ上着を腹部で固結びにしながら、アスベルは言う。
「面白いというか、これからどんどん面白くなっていく予感がするっていうか。将来を嘱望されて生きてきたフェアリスが、きみと出会って、なにを感じて、どうやって歩こうとするのか。いい意味で期待してるんだよ俺は」
この人は何を言っているんだろう。
ティエンは唇を引き結んだまま、アスベルの顔を見た。
いくら考えを巡らせても、自分の存在が彼女にとってプラスになるとはとても思えない。むしろ彼女の足を挫かせてしまっている。かといって、今の自分には手を差しのべる勇気も根性もないわけで。
「しっかし、その制服ぜんぜん似合ってないねー。戦闘技能科って男子もハイウエストなんだっけ。華奢なティエンがハーネスつけて軍事訓練とか、とてもじゃないけど鈍くさそうで見てられないわー」
「………ひどいですね」
少し落ち着く。自分がこのあと、なにをどうするかについて冷静に見極めようという気になる。今の自分に足りないものは判断のための情報であることも。そして、彼に掛けなければならない容易な言葉も。
「もう少し───抗ってみます」
何に、とは言わずに微笑んでみる。
「はは、それは楽しみだね」
職員室に用事があると言っていたリリアが、ノート型のタブレットを抱えて戻ってきた。
「お待たせしました」
いいタイミングだねと、アスベルは言い。ティエンは濡れたハンカチを渡しそこねて立ち止まるリリアに「もう大丈夫だよ」と笑ってみせた。
数分後───ティエンはリリアが持ち込んだ山のような教材を見て、軽い立ち眩みを起こすことになる。