アプリコット・デイズ(2)
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「識別、十種硬度D‐HELM」
熱紋を解析していたオペレーターが、小さく息をのんだ。
「層状を確認。目標は分化したばかりの雄体だと思われます」
「目標、鉱殻皮下層約四十パーセントに三度熱傷あり」
指示をと、問われて。
「鳥籠から、また一羽、小鳥が逃げ出したか」
穏やかな口調で言い、しかし、ゆっくりと振り返った上官の緑灰色の眸は少しも笑っていなかった。
頼りなさげに報告書を閉じた部下が、途端に表情を凍りつかせて立ち尽くす。
「太陽フレアによる磁気嵐と、鉱蓄獣によるジャミング。我々の目を欺くには、絶好のタイミングだったというわけだね」
癖のあるブロンドの髪をかきあげながら、総司令本部より航空母艦テイアへの乗艦を命じられた新任艦長、アーディン・ディヴァイスは言う。
「第一戦闘配備発令。特務機関、学園都市フォートレスに自律型機動兵器“レグナ”の出撃を命じる。レグナス第四機パイロットおよび、艦載機パイロットに発進命令を。整備各班、戦闘スターテススタンバイ」
発進命令が出され、艦内が慌ただしい雰囲気に包まれる。
「艦長」
通信管制を担当していた女性が不安げに訊ねてきた。
「彼女にも……発進命令を、ですか?」
「敵は手負いの鉱蓄獣一匹。彼女はあの星の生徒で、弱冠十七歳にしてレグナスに選ばれるほどの優秀なパイロット。本艦の艦載機が到着する頃には───きっと、全てが片付いているはずだよ」
そうでなくては困る。アーディンの言葉には、そんなニュアンスが含まれていた。
「ですが……」
なおも言い淀む彼女を見ないまま、アーディンは苦笑した。
無意識に触れてしまった右腕を強く握り締めながら、指揮官席に座していた彼は、ひとりごちるようにして呟く。
「………あの機体に乗って戦うことこそが、彼女の自由であり。彼女の存在意義なんだよ。羽根さえあれば飛べる……そう信じている彼女の為にも、僕は命じなければならない」
アーディンの呟きを聞き、静かに唇を噛み締めた女性は、なにも言い返せないまま大型モニターへと視線を転じた。
「あの悲劇を二度と繰り返さない為に、僕はここに来たのだから」
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「………だめだ、繋がらない」
大型デブリ帯の影がいよいよ少年の横顔を曇らせはじめる。回る環状星羅の、球状の外壁に立つ少年の足元にはいつの間にか光が射し、辺りはすっかり明るくなっていた。
「逆光で目視できない。今は……僕の方が丸見え、かな」
左手首に装着された端末装置と、避難勧告を受けて母星フォートレスに発つ無人シャトルの後ろ姿を交互に見やりながら、ティエンは嘆息した。
「………素直に逃げてくれれば、こっちも余計な心配すること、ないんだけどな……」
淡白な本音を洩らした従業員は、勝ち気で正義感の強い雇い主の顔を思い出して苦笑していた。
助けになんて来なくていい。はやく逃げてください、と。
そんなことを願いながら、ティエンは腰に巻いた工具入れにそっと手を伸ばす。「だめです、デイヴィッドさん」届かないと分かっていても叫ばずにはいられない。「ハッチを開けないで」ティエンから見て頭上のハッチが真空の世界で音を立てずに開いてゆく。
「逃げてくださいっ!!」
気づけばデブリ帯に潜んでいた鉱蓄獣が、濃い藍色の双鉾を輝かせて大きく身動いでいた。宇宙服を着たデイヴィッドが何事か叫んで手を差し伸べていたが、ティエンはこれに応じず、咄嗟に掴んだケーブルごと体を横に振るって飛び退いてゆく。
「お前の相手は──僕がする」
デブリの残骸を蹴り、民間人が今も尚取り残されている衛星に向かって跳躍してきた鉱蓄獣の、屹立する溶岩ような体に向かって、ティエンは手にしていた銀色のスパナを思い切り投げつけていた。
〈フェアリス〉
「心配しないで。私ひとりでもやれるわ」
抑揚のない専属オペレーターの声に答えて、フェアリスと呼ばれた少女は操縦桿を握り直した。青地に白のメディカルラインの入ったスペース・スーツを着用し、水色の長い髪を結い纏めることなく背中に垂らしたまま操縦席に座していた彼女は、妙に険のある眼差しで正面の大型モニターを見つめていた。
〈巡回中の一個小隊をそちらに向かわせています。彼らが射程距離に入るまで──〉
「貴方はいったい誰の心配をしているの!くだぐだ言ってないで、さっさと情報を寄越しなさい。この、のろま!」
吐くように言い、少女は唇を噛み締めた。
〈……。目標まで、あと三〇〇〉
少年と思しき専属オペレーターは、スピーカーを間に介していても何も言い返すことなく、淡々と秒読みを始めた。
「……ばかね。私の命は、あなたが思っているよりずっと安いのよ……?」
優先されるべき命は、自分ではなく、環状星羅に取り残された人々にあるのだと。そう彼女は言いたかったのだ。
最後の独白は、けっきょく誰の耳にも届くことなく、少年のカウントにかき消されてしまった。
平凡な日々に飽々していたわけじゃない。
むしろ、それを望んでいる───はずだった。
静かな夜も、何者にも邪魔されない朝も。
あんなに、望んでいたはずなのに……。
〈ティエン!!〉
「社長? よかった、無事だったんですね。デイヴィッドさんたちも大丈夫だったでし──」
〈なにが『よかった』だっ!ぜんっぜん良くない!!〉
「そ、そうですね……でもあのバルディフ、どうやら怪我をしているみたいで動きも鈍いようですし、助けだってほら──」
逆光が眩しかった。
故郷の空にはなかった光が、そこにはあった。
〈フェアリス!〉
「目標を視認。環状星羅外壁に民間人がいるわ。人命を優先し、バルディフを外壁から引き離す!!」
誰かの背中で、穏やかに過ごす日々。
守られていることの安心感。
「───……これが、私の“自由”よ。宇宙なら、誰かに手を貸してもらわなくても、ちゃんと自分の脚で生きていけるもの」
この穏やかな日々がいつか失われてしまうかもしれないという不安を、予感ではなく確信として胸に抱きながら。
「───真っ白な機体……これが『レグナ』?」
それは『今』じゃない。そう思い込むことで、現実から目を逸らそうとしていたのかもしれない。
誰よりも自分がいちばん無関係だと思っていた、あの時。
きみの───身を裂くような悲鳴が、僕に警鐘を鳴らすまでは。
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鉱蓄獣の接近に伴いアナウンスされた『緊急避難警報』は、ただでさえ慣れない土地で緊張している新入生たちを大いに驚かせ、結果──ごく小規模ながらも、混乱を招くこととなった。
春の式典が終り、一息つく間もなく対応に追われた教員たちが学舎を離れ家路につくことを許されたのは、空の天井が青みを含んだ夕闇から満天の星がきらめく夜景へと画像が差し替えられた時だった。仕事に一区切りをつけた誰かが「帰りましょう」と声を掛けたことで、それに賛同するように他の教員たちも一斉に椅子から立ち上がったのである。戦闘技能科の教師、ルーエンハイム・フォルトナーもその中のひとりだった。
「それではフォルトナー君。また明日」
「はい。お疲れ様でした、ツクヨミ先生」
「はい、ご苦労様でした」
同じ科の教師を笑顔で見送り、単身者居住区エリア手前の改札口でひとりになった男は、眼帯で覆い隠されていない方の緑色の眼で一瞬空を眇めると、さっさと改札口にIDカードをかざして脇目もふらずに歩き出した。
生身の眼よりも性能が良い義眼が安価に売られている現在に、時代遅れの眼帯である。いまどき、皮膚の張り替え手術で完璧に消せてしまう傷跡を消しもせず勲章のように顔に貼り付けたままの男は、自身の部屋の前で俄に眉根を寄せると、開けようとして躊躇った玄関の扉をしばらく凝視した。
「………ちっ。出ねえからって鳴らしっぱなしかよ」
開いた扉の向こうで大きくなった電子音。いつから鳴っていたのか。一向に切れる様子がない。
「なんか、嫌な予感しかしねぇな」
音の出所は、画像電話機からであった。
ぶつぶつと文句を言いながらもリビングのソファーに上着を投げ捨てたルーエンハイムは、革張りの椅子を引き出し、備え付けられたディスプレイの前に腰掛けると、緩慢な動きで通話ボタンを押した。
〈──おかえり、ルーン〉
物腰の柔らかな声がした。
「………やっぱりお前か、アーディン」
ディスプレイの中で微笑む友人に、ルーエンハイムはあからさまに顔をしかめて言う。
「なんの用だ」
柔和で気品が感じられるアーディンと、強面で無愛想なルーエンハイム。互いに温度差のある画面を見つめながら、ルーエンハイムが用件を問う。
苦笑いを浮かべたアーディンが「やれやれ」と肩を竦めたところで、最初から相手を信用していないルーエンハイムの表情が『睨む』から別のものに変わることはない。
顔の造作は整っているのに、眉間に刻まれた縦ジワがすべてを台無しにしている。どちらも四十に手が届きそうな年齢だった。
〈半年ぶりに顔を合わせたっていうのに……相変わらず、つれないね〉
「惑星間での通信は高いんだろ? 軍の予算をこんなことの為に使ってていいのかよ」
〈僕は今、航空母艦テイアにいるんだよ〉
虚をつかれて目を丸くするルーエンハイムを、アーディンはにこやかに見つめ返した。
〈そう、駆逐艦隊の統括司令本部だよ。火星を離れて一ヶ月ちょっと、といったところかな〉
「お前………」
〈自律型機動兵器レグナ第四機パイロット、フェアリス・フェンデを単独で出撃させたのは───僕だよ、ルーン〉
面がずれるように、アーディンの顔から笑みが消えた。
フェアリス・フェンデ。この学園の生徒ならば、誰もが一度は耳にしたことがある“有名”な名前である。
頭脳明晰、容姿端麗といった見映えのよい評価とともに、傍若無人、唯我独尊、傲岸不遜といった内面性を疑う四字熟語をたくさん背負う彼女は、学兵制度によって設立された戦闘技能科に今もなお在籍するESP保持者パイロットであり、最年少でレグナスに選ばれた優秀な軍人でもあった。
「───つまりお前は、着任早々『やらかしました』っていう報告がしたくて、わざわざ俺に連絡をよこしたのか?」
〈…………嫌味だね。相変わらず〉
鼻白むアーディンに十分満足したルーエンハイムは、意地悪な笑みを、今度は優しいものに変えて微笑んだ。
〈ルーン〉
「フェアリスが使い物にならなくなった。板金行きの四号機が、敵前で操縦不能になった理由も、フェアリスの力が枯渇した理由も───ちゃんと教えてもらえるんだろうな?」
〈ああ……ちゃんと話すさ。ちゃんと、ね〉
目を細めて答えるアーディンの釈然としない口調に不安を感じつつ、ルーエンハイムはいよいよ欲しくなったコーヒーの為に、浅く腰かけていた椅子から立ち上がった。
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彼等は───生まれながらにして強力な超能力を持つ、地球最古の生命体だった。
汚染された地球に居残り、汚染物質を糧として生きる者。それが鉱蓄獣。人類の敵は、地球の『守護者』と呼ばれる彼等なのである。
対鉱蓄獣邀撃システム、ステアリング・ドライブ・コネクトを持ってしても、圧倒的な力と数に勝る彼等に“持たざる者”の人間は手も足も出なかった。それは十六年前の『サイリアの悲劇』でいけぞんざいにも証明されている。
ESP……超感覚的知覚。既知の感覚受容器を通さずに外界の情報をとらえることのできる彼等の特殊能力に対抗すべく、同じESPを持つ人間を新型機動兵器の操縦者とすることで、人類は今一度、人類の延命を試みようとしたのである。
感応能力者であるフェアリス・フェンデは、人類の未来を切り開く為の、最後の希望であり───『新人類』だった。
「超振動ナイフで目標を駆逐する!」
主に接近戦で用いられる武器を、フェアリスは機動兵器の太股部に内蔵された収納ホルダーから引き抜いた。
溶岩を思わせる黒くごつごつとした皮膚に、高速で刃先が震えるナイフを突き立てようとした彼女は、両腕を思いきり振り上げたまま───不意に、動きを止めた。
「……なに……? なんなのよ、これ……」
操縦桿を握る手にわずかに違和感を覚えて、フェアリスはモニターに映し出されている敵、バルディフと。衛星の外壁に張り付いたまま器用に敵から逃げ回っていた要救助者である少年の姿を見た。
「なんで……? なんで私の言うこと、聞いてくれないの……?」
〈邀撃システムがダウン。ESP値が……どんどん下がってる。このままじゃ──〉
頼りないオペレーション。
コントロールを失い、傾ぐ純白の機体。
「………いや………嫌よ………動いて私の“アルティア”………私には、あなたしかしないのに……っ!」
手応えのない操縦桿を何度も動かしては、その水色の美しい髪を振り乱し、彼女はいつまでも悲痛の声を上げ続けた。
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「………そんで、フェアリスの機体は操縦不能のままバルディフと接触かよ」
〈その衝撃で、要救助者の少年も宇宙に吹き飛ばされたそうだよ〉
「ああ聞いた。一般教養科の生徒だったらしいな。すぐ拾ってもらえたから良かったものの、バルディフなんぞ間近で見る機会なんてないだろうから………相当怖かったんじゃないのか」
飲みかけのコーヒーはまだ温かい。もと軍人だった男の口から聞く思いやりのある教師らしい言葉に、アーディンは驚き、そして苦笑した。
〈ああ、そうだね………僕もそう思ったよ。カウンセリングが必要かどうか、少年を保護してくれた船に確認をとってみたんだけど……『その必要はありません』って即答されちゃってね。話をきいたら、これが二度目だったとかで〉
「…………宇宙遊泳が?」
〈そう。宇宙遊泳が〉
「そこは笑うところか?」
〈いや、笑わないでくれ頼むから〉
へこむから、と。手のひらをモニターに向けて制止を求めてきた友人に、ルーエンハイムは唇の端を持ち上げて応えた。アーディンは頭を振り、溜め息をつく。
〈笑い事じゃないよルーン。問題は、そのあとなんだから〉
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逃げ回っている間に滑車から外れてしまったのだろうワイヤーは外壁に擦れ、軋むような感覚が手のひらに伝わった。
バイザー越しに見上げた空。身動ぐたびに、ひび割れた皮膚の欠片を散らす鉱蓄獣の影を、ティエンはいつの間にか踏んでいた。
「無茶をするね………きみも、ぼくも」
バルディフの枯れ木のような四本足の下で、ティエンは呟いたのだ。
恬として、スペーススーツにバルディフの血を浴びながら。
人間と同じ、鉄を含んだ赤黒い血でバイザーを汚しながら。
攻撃色と呼ばれるバルディフの藍色の視線と、ティエンの水色の視線が一瞬だけ交わり、すぐに離れていった。
目標が変わったのだ。
先に動いたのはバルディフ。ややあって、ティエンも眉を潜めながら外壁を蹴った。
(しつこく逃げ回りすぎたかな。そういえば、むかしから囮役はあんまり得意じゃなかったっけ……)
途端に、はたと首を傾げ。
「………なにやってるんだろう、僕。もうアレを追いかけなくてもいいのに。僕が無茶しなくても、きっと僕じゃない誰かが──…」
そうだ。
今はバルディフの背中に懐かしさを感じている場合ではないのだ。
「逃げなきゃ」
今の自分には、それが許されている。
なのに。
「なんで逃げないんだろ………僕」
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〈君は、“アクセプター”という能力を知っているかい?〉
なんの脈絡もなく、アーディンにそう問われて。
「いや」ルーエンハイムは首を横に振った。
〈当然だよ。これは超能力を指す言葉じゃない。受容体とは器。この場合、媒質となる物体を指すんだけど。これは、能力者だけが持つ特別なものじゃなくてね。ごく希に、一般人の中からこの体質を持った人間が見つかることがあるんだよ〉
「だから何なんだよ。それは」
〈力を持たない凡人でも、媒体となるアクセプターがあれば、他者の力を奪って自分のものにできる──それだけの、誰かに依存することでしかその力を発揮できない、無能で、無限の可能性を秘めた………偽りの能力者、受容能力者………上層部はこれを、フェアリスの為だけに利用しようとしているんだ〉
まるで別の風景を見ているかのように、アーディンの視線が枠の外に泳いだ。
〈フェアリスの力が枯渇したのは、そのアクセプターと呼ばれる受容能力のせいだよ。あの少年が、彼女の力を全て奪ったんだ〉
「──…誰だ」
〈彼女の力を奪ったのは、その場で一緒に保護された生徒───ティエン・ランくん。一般教養科の平凡な少年さ〉
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「───真っ白な機体……これが『レグナ』?」
目を見開き、見上げた宇宙。
そして、わずかな耳鳴り。
やがてそれは、大きな耳鳴りとなり。
「………いや………嫌よ………動いて私の“アルティア”………私には、あなたしかしないのに……っ!」
世界は白から黒に暗転し、少女の悲鳴だけが漆黒の闇に取り残された。