アプリコット・デイズ(1)
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四季を持たない人工惑星にも、必ず『春』はやってくる。季節は春。そう設定された風が、学園都市フォートレスの学舎を暖かな色に染め上げてゆく。
はらり、ひらり。
絶え間なく薄紅色の花弁を散らしているのは、実は桜でも桃でなく──杏だった。
夏になれば橙色の果実が撓に実り、農業科の生徒達が血眼になってかき集めることが毎年の恒例行事となっている……ある意味苦行の木ともいえる我が校のシンボルは、新入生には歓迎的に咲き誇り、農業科の生徒には今年も宜しくとエールを送っている。
春の式典が終わり、校舎群の中央に位置する大講堂に集められた全校生徒たちがぞろぞろと解散し始めた頃。
各学舎へと続く道が“ひとつ”に交わる中央広場で、式典から解放された男子生徒二人が、流れる白い雲を映す青い天井を仰いでいた。
「なにはともあれ、無事に進級できて良かったよな。ティエン」
一般教養科らしく上着とワイシャツの合わせ目を寛げながら、サジ・ラドクリフは誇らしげに言う。
襟に刺繍された校章の色が、それを証明していた。
「うん。僕も無事に二年生になれて嬉しいよ」
その横顔はどちらも爽やかで、呆れるほど晴々しい。
偽物の空に向かって気持ち良さそうに背伸びをするサジの隣で、ティエンと呼ばれた少年も『春』を感じるべく静かに目を閉じた。
いちどきに散っていく薄紅色の花弁が、道行く新しい学生たちを祝福していく。閉じた瞼の裏に映し出されるのは、春そのものに色付けられた暖かい風景だった。
サジと同じ、本日をもって高校二年生になった少年は、湖面を思わせる澄んだ水色の眸を細めて微笑んだ。
ごく平凡な。どこのクラスにもひとりかふたりはいそうな、小動物っぽい雰囲気の少年である。その穏やかな物腰と、気弱ながらに優しい眼差しは、見る者に生まれもってのものと感じさせた。きっとこれから何年経っても、彼からそうした美徳が失われることはないだろう。
「なぁティエン。一応訊くけど『これからどうする?』」
「バイト」
「って、言われるの分かっててなんで訊いちゃうんだろな俺」
サジは項垂れた。
「毎日バイトバイトって……そんなに金に困ってんのかよ」
「うん、困ってるよ」
「笑顔で頷くなよ」
さして困っている風でもなくティエンは言う。
「進学したいんだ。その為にはお金を貯めなきゃ」
「進学?」
サジは驚いた。親友が初めて口にした言葉に。だから聞きそびれた。進学して何がしたいのか。親友の未来を──不覚にも聞きそびれてしまったのである。
「サジ」
不意に名を呼ばれたことで、頭も真っ白になる。
「な……なんだよ」
「お腹すかない?」
「……。素直に『腹へった』って言えば済むことだろ。まったく」
あまり喋るのが得意じゃなさそうに見えるティエンの頭を乱暴に撫で回しながらサジは微笑む。人好きする、お調子者の笑顔だ。
「時間あるなら、一緒に飯食おうぜ」
「うん」
ティエンも笑顔で答えて、歩き出す。
なんて平和な世界なんだろう。
学舎に響く笑い声は、過ぎ行く時の長さを感じさせた。
救済都市サイリアを失い、十六年という月日が過ぎた今でも、人類は鉱蓄獣という脅威に怯えながら生きている。宇宙が人類にとって安楽の地でなくなった『あの日』から。 地球を知る、わずかな人間だけが、人知れず苦境に立たされているだけの。きっと自分じゃない誰かが何とかしてくれる。そう信じたくなる世界の意識。逃避と、慣れ。
「平和だな……ここは……」
隣を歩む友人がこの声に気づかないことを願って、ティエンはひとりごちた。
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月基地と火星の間に造られたこの『要塞惑星』──学園都市・フォートレスには、約四万人の生徒と、約二万人の民間人が暮らしている。民間人といってもそのほとんどが学生を顧客とした商人であり、校舎群の周囲にはそれぞれ各学科のために必要な施設や、小規模だが娯楽施設も数多く存在していた。
最も注目すべき所は、衛星のように外周を回る“環状星羅商工業地帯”だろう。若き労働者を求め、様々な企業が隣接する工業地帯。数珠玉のように連なる球体が数本、惑星をぐるりと廻っていることから『星羅』という言葉が用いられているのかもしれない。
「やぁティエン。ちゃんと進級できたのかい?」
スペース・デブリ専門の廃品回収業者であることを示す看板の下。「DEBRIS SCAVENGER」と、派手に落書きされた扉の前で、ティエンは足を止めた。
「こんにちはデイヴィッドさん」
作り物の星を寄せ集めた環状星羅に“重力”は存在しない。運動の法則上、止まりきれそうにないティエンの体をデイヴィッドと呼ばれた男が受け止めたのである。
「できましたよ。今日から高校二年生です」
「ははは、それは良かった。毎日バイトばかりしてたから、あんまり勉強する時間がなかったんじゃないかって、みんな心配してたんだよ」
自社の扉を開きながら、中堅社員デイヴィッド・カレルは笑った。
直径五十メートルほどの小さな会社である。球体の社内を各部署ごとに間仕切りする壁は、ただでさえ窮屈な空間をさらに圧迫しているように思えた。誰もが初見で思うことらしく、改善を求めて上司に報告した者は今のところ一人もいないとか。慣れとはなんとも恐ろしい。
背中を壁に擦りながら進む短い廊下の途中で、間仕切りから顔を出す社員に次々と声をかけられながら、ティエンとその背中を押すデイヴィッドは、社長がいる最奥の部屋を目指して進んでいった。
背中を少し強めに押される。手すりと足場ばかりの空間が視界いっぱいに広がり、足が浮いた。
何かに掴まらなければと、慌てて伸ばした手は。
「──気の合う友達がいるんなら、たまにはパァッと遊んでくりゃあいいのに」
女社長、イズミ・チガヤが力強く引き寄せてくれた。
黒髪のポニーテールと勝ち気な眼差しが印象的な彼女は、小麦色の肌を見せつけるかのようにいつも白のワイシャツの袖口を二の腕まで捲りあげていた。出会った頃から少しも変わらない。勝ち気で、とても正義感の強い女性だった。
「そのためには働かないと」
「ほぅ、遠回しに『給料上げろ』って言ってるのか?」
「社長……」
言ってませんし。目が怖いです。
長い間ティエンを観察していたイズミが、不意に「ううむ」と唸った。
「な、なんですか。言いたいことがあるならハッキリ言ってくださ……」
十六歳という年齢の割に、幼さの残る顔立ち。ぱちくり瞬きする眸は大きく、水底から水面を見ているような、そんな青さを持った眸だった。体の肉付きも薄く、身長も平均的だ。
「成長しないねぇ」
「ほっといてくださいっ!」
長い髪を一つに結わえた黒髪少年の、拗ねた顔を間近で眺められてイズミは満足する。
初めて会った時は、ただ時の流れに身を任せて無欲に生きている少年に見えた。一年一緒に仕事をしてきて、そうではないと気づかされる。人混みに紛れて、誰にも注目されていないだけなのだ。凡人ゆえに見落とされがちな、直向きさと温かさを、この少年は持っている。
「だったら稼ぎな。今日は外壁検査で『外』に出してやる」
イズミは方唇を持ち上げ、にやりと笑った。
眸を瞬かせるティエンと、悪戯っぽい笑み浮かべるイズミ。そんな二人を温かい眼差しで見守る大男のデイヴィッド。固定デスクで真面目に事務処理を行っていたフロイラインでさえ、タイピングする手を止めて向かい合う二人を見つめた。
「四ヶ月に一度のアレですよね」
「そうだ。四ヶ月に一度のアレだ」
「……まだ、早くないですか?」
「進級祝いだ。思う存分“宇宙遊泳”するがいい」
「……し……しませんよ!」
ティエンはイズミから逃げるように飛び退くと、背中に感じた面ファスナー張りの柔らかい壁を蹴り、頭上にある重厚な円形扉に向かって跳躍した。
「デイヴィッドさん。ひとつ訊いてもいいですか?」
尋ねたのはフロイライン。
「ん? なんだい?」
「社長って、時々ああやってティエンくんをからかってますけど……“宇宙遊泳”って、なんのことなんですか?」
彼女の問いかけに、デイヴィッドは声をあげて笑った。
〈──あれはティエンがまだここに来たばかりの頃。はじめての船外活動で“宇宙”に出た時だよ〉
「……誰です。わざわざこの部屋のスピーカーをONにしたのは」
二重扉の一枚目。宇宙服に着替える為の部屋で、ティエンはその嬉々とした声を聞いていた。声の主はデイヴィッドであり、離れた場所で大笑いしているのだろう社長の声や、罪深きフロイラインの相づちなどが聞こえてくる。
〈大きな仕事だったんだよ。宇宙港の依頼で大型デブリの解体と回収を、うちも含めて四つの“鉄屑屋さん”が協力して請け負うことになったんだけど〉
「デイヴィッドさん……こっちの声も聞こえてますよね?」
〈解体したスペースデブリをアームリフトで回収する際、ちょっとしたアクシデントが起きてね〉
聞こえないふりをするデイヴィットの隣で、社長がニヤニヤしているような気がした。
ちなみに、双腕型起重機とは、目視操作型の簡易作業用ロボットの正式名称である。簡素ゆえに操縦席が外から丸見えという見映えの悪さを除けば、丈夫で小回りのきくとても使い勝手の良い重機なのだ。
〈──ところで。着替えは終わったのかい?〉
「……まだです」
〈早くしないとエアロックの空気を全部抜いちゃうぞ?〉
こちらは社長の声だった。
「………」
ティエンは無言で宇宙服の中に残る空気を絞った。
モニター越しのティエンの反応を待って、デイヴィッドはエアロック内の気圧を調整するための電子操作盤に触れた。
〈スペースデブリの大半は、救済都市サイリアの“残骸”だと言われている〉
待機指示をティエンに。カウントアナウンスをフロイラインに任せて、デイヴィッドは再び語り部に戻った。
〈おかげで僕たちは食いっぱぐれずに済んでいるけれど………まったく。鉱畜獣殲滅のためにスペースコロニーを丸々ひとつ爆破しちゃうなんて、上層部のお偉いさんは何を考えているか解らないね〉
他に選択肢はなかったのか。惨劇から十六年が経った今でも、その問いは繰り返し上層機関へと投げ掛けられている。
「……救済都市サイリア……」
歴史を学ぶ者なら誰もが知っている、有名な人工惑星の名である。ティエン自身も、年端も行かぬ子どもの頃から周囲の大人たちから言い聞かされてきた。
(鉱畜獣の幼生体に……食い滅ぼされた星……)
減圧を知らせる警告ランプが点滅から、赤色の非常灯へと変わった。
〈ティエン〉
名を呼ばれて、外壁ハッチに手をかける。
「出ます」
ヘルメットの中でくぐもる声で答えて、ティエンはハッチを回した。
真空から、高真空の世界へ。
大気を持たない人工惑星から望む宇宙に、満天の星を見た。
(これが、この星から見える“空”か……)
円形ポットの頂に立ち、予め宇宙服に備え付けられていた安全ベルトと、ポット外壁の──こちらも予め備え付けられていた屋外活動用ケーブルとを繋いで“命綱”とした。
ケーブルは、左手首に固定された端末装置で簡単に操作ができるようになっており、伸縮操作はもちろん、ヘルメット内に内臓された通信機器は電波を介して外部と連絡が取り合えるようになっていた。音は、空気や物体が振動して伝わるものなので、なにもない真空中は無音の世界となる。
「作業開始します」
〈了解。太陽風も穏やかだし、今日はいい“天気”だね〉
「はは、確かに」
ガンタイプの感知装置をポット外壁に向けながら、ティエンは笑った。
〈うちがこんな貧乏じゃなかったら、専門業者に委託するとか専用のロボット購入するとか、いろいろ設備投資してあげられるんだけどねぇ〉
社長の砕けた口調が、無音の世界に取り残されたティエンに安心感を与えてくれた。
「僕は好きですよ。ここから見る宇宙」
故郷の空を思い出しながら、そう呟いた。
衛星から見た学園都市フォートレスの地平線に半ば重なるようにして浮かんでいた、その小さな星に視線を転じながら。
「僕の知っている空は、こんなんじゃないんです」
赤い大気が渦巻き、人が住めなくなったその星を懐かしみながら──それでもティエンは、過去を吹っ切るみたいに笑って、自分に与えられた仕事を再開した。
学園都市でありながら要塞の名を持つフォートレスは、銀河連邦軍航空母艦テイアと、駆逐艦隊の機影に守られた、地球に最も近い星だった。
だからこそ、ティエンはこの星を選んだのだ。故郷を仰ぎ見ることができるこの場所を。
わずかな奨学金を得て一般教養科に入学し、四季の移り変わりと共に生きるこの平凡で退屈な日々を、彼はずっと夢見ていたから。
〈ティエンってさ、ちょっと変わってるよね〉
「……なんですか、いきなり」
〈肝が座ってるっていうか、怖いもの知らずっていうか──ねぇ?〉
誰に同意を求めたのか。その問いに対し、周りがどんな反応を示したのか。満場一致で頷かれていたらどうしよう。なんて不安はもとよりないとして。返答に困って俯こうとしたティエンの前に、か細い首を傾げて少年を凝視する小さな監視カメラの姿があった。
「別に、変なことじゃないと思いますけど……」
不覚にも監視カメラと目が合ってしまう。
〈そうかな。君はどちらかというと──気弱で、肉体的、心理的に追い詰められると冷静さを失ってしまいそうな性格をしているのに。そんな性格や外見とは裏腹に、危機的な状況でこそ君は冷静な判断ができるし、なにも恐れてなさそうな顔をするよ。……まるで、君の中にいた誰かが、表に出てくるみたいな〉
デイヴィットの言葉の終わり、ティエンはいつものように曖昧な笑顔を浮かべて首を横に振った。肯定でも否定でもない、曖昧な微笑。いつも彼が張り付けている表情そのままに、答えは返る。
「僕は臆病者なんです」
答えて、ティエンは壁面を後退した。
「『怖い』を、自覚するのが怖いんです。一瞬でも『怖い』と感じてしまったら……僕はきっと、動けなくなってしまうから……」
〈一年前も、そうだったのかい?〉
「え? えっと……」
言い淀んだティエンの脳裏に、できれば忘れてしまいたいと思っていた一年前の記憶が鮮明に甦ってしまった。
あれは──解体したスペースデブリを輸送船に積載すべく、牽引用のワイヤーを括り付けている最中に起きた事故だった。激突確率の高いスペースデブリを回避するために、輸送船二隻の軌道変更を余儀なくされた緊急事態だったのだ。
急接近したデブリは、回避行動をとった輸送船にではなく、解体された大型デブリと船体を繋ぐワイヤーを掠め、結果、切断されることとなった。
〈貨物室にいた君が、宇宙に投げ出されたと聞いたときは本当に驚いたよ。それなのに君は……〉
デイヴィットのため息の向こうで、フロイラインの率直すぎる問いかけが聞こえたような気がした。
〈ティエンがどうしたかって? それはね〉
「わぁっ! デイヴィットさん話さないでくださいっ!」
〈それはねぇ〉
面白げにデイヴィットの言葉を引き継いだ社長の嬉々とした声が、ティエンをよりいっそう不安にさせた。
「だから忘れてくださいってばっ!」
お願いだから社長まで出てこないで。叶わぬ願いを心内で叫びながら、ティエンは円形ポットの外壁を慌てふためきながら降下していく。スピーカー越しに聞こえる笑い声と、尚も言い募る社長イズミの楽しそうな声が、窮屈なヘルメットの中でも賑やかに響き渡る。無音であるべき場所が、そこだけ喧しい。
〈二時間以上も宇宙遊泳してたうえに、デブリ帯のゴミに引っ付いて救難信号出してたっていうティエンを、あたしらは血相変えて救助船まで迎えに行ったって──…のに……た…ら…〉
「社長?」
突然、鉄片を擦り合わせるかのような高音のノイズに音声をかき乱される。耳をつんざく雑音に、彼女の声が途中で聞き取れなくなったのだ。不快な音に顔を顰めながら、ティエンはその理由を探ろうと、周囲を見渡した。
「社長、どうかしたんですか? いったい何が──…」
あったのかと。
振り向き際に、そう言いかけて。
「………そんな………」
ティエンは、言葉を失った。
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断ち切られた音声の向こうに“暗闇”と“静寂”を感じ取って、イズミは青ざめた。
「ティエン」
集音マイクに向かって叫ぶイズミの表情が途端に険しくなる。
「ティエン!」
一時の不具合であればいい。大きな事故に巻き込まれていなければいい。願うのは、少年の安否だけだ。
「ちっ! 今日はいい天気だったんじゃなかったのかいデイヴ!!」
「嘘じゃないよ!」
そう応じたデイヴィッドの視線が、大型モニターのあるイズミの背後へと転じられてゆく。
「フロイライン!」
「嘘じゃありません。太陽フレアによる電波障害の警告はすでに解除されていますし……」
「で?」
彼女が知りたいのは、直接目で確認することができない情報と、その真偽ではなく。断ち切られた音声の向こうに“何が見えるか”だった。
冷ややかな一音に問われ、フロイラインは肩を竦め、デイヴィットは押し黙った。
「ちっ!」
舌打つイズミの傍らで、画像解析に専念していたデイヴィッドの手が、不意に止まった。
「航空母艦からでも巡回船からでもなんでもいい! なにか情報は入ってないのかい! ったく、あの子は一体なにをしてるんだい!!」
「イズミ」
大型モニターから目を離すことなく、デイヴィットが言う。これを見てくれ、と。
「あん?」
呼ばれて、イズミは振り返る。
青ざめたデイヴィットの横顔と、その視線の先。拡大された天体画像を見て、彼女は目を見張った。
「なんだいこりゃ………こんなにでかいデブリ帯、観測所のレーダーにも映ってなかったじゃないか。なんでまた、こんな近くに───…」
天体画像から、熱重量計測器に画面が切り替えられた瞬間。
フロイラインが、短い悲鳴をあげて顔を背けた。
「そんな……」
宇宙を帯状に浮遊するデブリの中で蠢く、熱源を示す大きな赤と、黄色みを帯びた小さな人影。
「まさか──…」
鉱蓄獣、と。
誰かが震える声で呟いた。