城下
城から出る間、謡はハラハラしていたが、お構いなしに征四郎が進むので、それに着いていくしかない。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
手を引かれながらでも征四郎は歩みが速かったが、謡はいつもの調子なので着いていくのは余裕だった。だが、城を出て一息吐いたのに、征四郎は手を離すことはなかった。
「人も多い。迷ったら大変だからな」
そう言って、先ほどよりもゆっくりと進む。
城下は来る時と同じように賑やかだった。のれんの掛かった大きな店や、店主が外に出て大声で呼び込んでいる店もある。どこからか甘い匂いもして食べ物を売っている店もあることが分かった。
「初めて里から出たんだ、ここが俺が住む所だって知ってもらいたいってお凛と話していたんだ」
前を歩く征四郎は謡の顔を見ずに言った。静とは違う背中……数刻前に静の言った言葉が頭の中をよぎる。だが、二人の気遣いを無駄にはしたくなかった。自分のために身代わりまでしてくれているお凛……征四郎も……。
「征四郎どの……ようやくいつもの征四郎どのになった気がする」
呟くように言ったのだが、征四郎には聴こえていた。どうも前から思っていたが、耳が良い。
「そりゃ、太朗と一緒に会っていたし、さっきだって儀式だから仕方ない。ちゃんとする時は、ちゃんとするさ」
振り返って立ち止まる。あの中之宮に送ってから、何となく変な感じがしていたが、いつもの征四郎と話している……そう思うと余計に嬉しくなった。
「それに約束もあったしな」
約束?何だっけ……?頭の中を巡らせながら征四郎に手を引かれ歩いていく。
「おっと、危ない」
謡が考え事をしていたせいで、人とぶつかりそうになると、征四郎がぱっと庇うように謡を抱きかかえた。ぎゅっと抱きしめられ、胸がどきんと跳ねる。
「気をつけないと。ここは里とは違って大勢が行き交う通りなんだから」
「は、はい……」
礼を言わなければならないのに、抱きしめられているせいで返事するだけで精いっぱいだった。静とは違う男らしい腕の中。頬に征四郎の鼓動が響いて余計にどきんと自分の胸が跳ねている。顔は真っ赤になり恥ずかしくなった。大体、沢山の人がいる場所だというのに見られているのではないか、そう思うと余計に恥ずかしい。そっと征四郎が謡を放すと、俯いた謡が見える。
「真っ赤になって。俺を男だって見てくれているってことでいいのかなあ」
征四郎も大概だ。恥ずかしげもなく、こんなことを言うなんて。
「もう、何も言わないで!恥ずかしいから」
「何で?可愛いのに」
不思議そうに尋ねてくるが、可愛い、可愛いと言われるのも恥ずかしい。頬の赤みは引くこともなく、謡は俯いて征四郎に着いていくしかなかった。
「これは?好きじゃない?」
急に立ち止まり、征四郎が話しかける。謡が顔を上げると、綺麗な櫛が並んでいた。漆塗りの物から、柘植の物、簡素な物から豪華な彫りが施された物、奥には蒔絵の物も飾ってある。
「でも……こんな、私、何も持ってないし」
困って黙り込む。きっと高い物に違いない。すると、少し離れた店へと手を引かれる。黙って着いていくしかない。
「気にしなくていいよ。俺が買うから。じゃ、これは?」
そう言って征四郎が連れてきたのは、扇子が沢山並んだ店だった。先ほどと同じく武家の御用達の店なのだろう、高価そうな品物が並ぶ。
「いいの、大丈夫。私は何もいらないから」
謡は征四郎に告げる。何か欲しい訳じゃない。征四郎とこうやって城下を歩いているのが楽しいのに。
「そっかあ」
征四郎は少しがっかりした様子だった。城下の土産にでも、とでも思って買ってくれようとしたのだろうか。それだったら素直に何か買ってもらった方が良かったのだろうか。少し考えながらも征四郎に手を引かれる。その背中は何も言わない。また、雰囲気が悪くなってしまったのかと不安になる。やっと、二人で話して、あの中之宮まで送った日や滝の前で話した時のように自然に話せるようになったと思ったのに。謡は何も言わない背中を見つめた。
「少し休もうか」
征四郎は手を引き、茶屋の軒先にある縁側に腰かけた。謡も隣りに座ると、やっと手を離してくれた。征四郎は店の女に団子を頼んでいた。そして、団子が運ばれてきて、ようやく一息吐いた。けっこう歩いた、城が少し離れて見える。
「じゃあさ……これは?」
征四郎が袂を探り、小さな袋を取り出した。それは綺麗な布で作られた袋。着物の端切れで作られたと思われる。青い布に柄が入った物だった。
「これは……?」
「これ?俺の母が作ってくれた匂い袋だ」
謡の手を取り、掌に載せてくれた。匂い袋……?鼻に近づけて匂いを嗅ぐと、爽やかな香りがした。いつも征四郎から香っていたのは、この香りだったのか。
「これを、この前約束した物じゃないけど、謡に贈りたいんだけど」
約束って……滝の前でした約束のことか。忘れてなかったんだ。だから、先ほどから何か買ってくれようとしていたのか。ようやく納得した。
「でも、母上が作ってくれた大事な物でしょう?」
「いいさ。ほら」
征四郎は再び袂を探ると同じ生地で作った匂い袋をもう一つ取り出す。
「同じだ。謡が俺に勾玉を作ってくれて、俺も身に着けている。だから、俺も謡が身に着けてもらえる物を贈りたかったんだ」
ああ、それで身の回りの品ばかり見ていたのか。
「でも、大事な物なのに……いいの?」
「ああ、もらってもらえれば、俺も嬉しい」
謡は匂い袋をもう一度嗅いだ。同じ匂い。
「ありがとう、私も身に着けるね」
謡が笑顔で礼を言うと、征四郎は誤魔化すように団子を口にほおばった。
「まったく……謡は……」
呟くように言ったが、周りの喧騒に紛れて謡の耳には届かなかった。
二人の前を沢山の人が行き交う。謡と征四郎など目にも留めないで通り過ぎる。そこへ、男女の仲が良さそうな二人が通り過ぎた。何となく目で追ってしまった。二人とも笑顔で、特に女の方は嬉しそうにはしゃいでいた。
「征四郎どのは……妻や子はいないの……?」
何となく聞いたことはなかった。妹がいるのは前に教えてもらったが、妻子がいるのに、手を繋ぎ、二人で出掛けていたら、それこそ問題だ。征四郎に甘えてしまって何も言わなかったが、家族がいてもおかしくない年齢だ。
「いない。あ……でも、数年前に婚約者がいたが、祝言の前に亡くなってしまって、それ以来、そんな話は何もないなあ」
征四郎にも婚約者がいた。妻がいてもおかしくないとは思っていたが、いざ本人の口から聞くと衝撃を受けた。胸がちくりと痛んだ。顔を強張らせてしまう。
「そう……なんだ。色々あったのね」
自分は今、どんな顔をしているのだろうか。普通に話せているのだろうか。征四郎だって年頃なんだから、そんな話があって当たり前なのに。自分は何を期待していたのだろうか。それに……自分だって静がいる。征四郎のことを何も言える立場ではない。分かっているが、この胸の痛みは何だろうか。
「意外だった?俺もしばらくは落ち込んだけど、今は平気だよ」
何もないように言ってのける。そこまで言えるまでに。どれだけの心の痛みがあっただろう。謡は自分で言っておきながら、堪らなくなって俯いた。
「謡だって、しずかどのがいるだろう?」
やはり……言われるとは思っていたが、今言われると胸の痛みが増す。
「そうだけど……。しずかは、生まれた時から決まっていた婚約者だから……」
自分の意思ではないと伝えたかったが、静が婚約者なのは変わらない事実だ。何となく自分で振った話題ながら、気まずくてお互いに言葉が出なかった。
しかし、どうしてなのか。静が婚約者なのは事実なのに、それを言われたくないというのは。そして、祝言まで決まっていた征四郎に、そんな大事な人がいたことには衝撃を受けたが、今一人だということにホッとしている自分がいる。自分が分からない。
「そんな顔するな。せっかく自由なんだから、楽しまないと」
征四郎が謡の頭にぽんと手を乗せた。俯いた顔を上げると、征四郎は笑顔で謡の髪を撫でる。謡はされるがままで、征四郎の顔を見つめた。自分の顔を可愛いと言ってくれるが、征四郎の方がよほど素敵な笑顔をする。逞しくもあり、男らしい。
「謡どの。俺は……」
何かを言いかけたが、ゆっくりと撫でる手を離して、やがて口籠る。
「俺……」
真っ直ぐ見つめていた。その目の奥に熱く揺らめくものがある気がする。何か言いたそうで、謡は次の言葉を待ったが何も出てこない。
「何?」
謡が尋ねたが、征四郎は目を逸らして、それ以上は何も言わなかった。
「ごめん、色々見たいだろ?ゆっくりしてないで行こうか」
話を打ち切り、征四郎が立ち上がる。そして、また手を差し出された。何を伝えたかったのだろう。心の中がざわついたが、謡はとりあえず征四郎の手を取った。
それから、ぶらりと城下を案内され、それほど遅くならない内に、こっそりと城へ戻った。いつまでもお凛に身代わりをさせておくわけにはいかない。お忍びというのは、どきどきした。それに征四郎と今までわだかまりがあった訳じゃないが、いつもの征四郎と話せた気がしてホッとした。しかし、途中で言いかけた事は気になる。だが、征四郎は何事もなかったように振る舞うので、謡もそのままでいた。気まずい雰囲気で城で過ごすのは嫌だった。
着替えをすませ、身代わりは終わりで、お忍びも終わりだ。こんなことを静が知ったら、どれだけ怒ることか。
「ありがとう、お凛どの」
「こちらは何もありませんでした。大丈夫です、何も知られていません。それより、城下は楽しかったですか?」
お凛と二人になり、向かい合って話す。
「はい。里では見られない物を沢山見ることが出来ました」
楽しかった。謡は庭の向うに見える山々の稜線を眺めて言った。すでに陽は沈み、赤い空に東から深い青が迫ってきている。黒い山影は自分が今朝までいた里がある方向だ。里から出るなんて信じられないし、今日見たことは一生忘れられないような光景ばかりだった。謡は今日の出来事を振り返りながら、青く染まっていく空を眺めていた。
ただ一つ。征四郎の様子と何か言いかけたこと……それが唯一心に引っ掛かる。
「兄が何かしましたか?」
謡はハッとして、お凛に目を向けると見透かしたように微笑んでいた。黙っていようと思っていたが……。言ってしまおうか……?しかし、誰にも相談なんてしたことがない謡は、戸惑って言葉が出ない。顔を見られないように俯いてしまった。
「姫さまに粗相でもしましたか?」
「いいえ!そんな!征四郎どのは気を遣ってくれて優しかった……」
思わず強く否定すると、お凛は呆気に取られていたが、やがてクスクスと笑い出す。
「姫さま、そんなに必死に否定しなくても。ふふっ、どうせ兄が姫さまを困らせるようなことを言ったのでしょう」
何も言ってくれないのが困る、とも言えない。お凛になら、征四郎の妹のお凛になら言っても大丈夫だろうか。お凛は謡の言葉を待ってくれている。焦らせることもしない。自分の身代わりまで引き受けてくれた女性で、短い時しか一緒にいてはいないが信用もできる。少し考えて、謡は今日の征四郎との出来事をお凛に話した。
しばらくして、お凛は笑いが止まらなくなった。謡は何が何だか分からない。そんな変な話だったのだろうか。怪訝な顔でお凛を見ていると、ようやく笑い涙を拭きながら、話し始めた。
「それは……姫さま。兄が……姫さまのことを神ではなく、一人の女人として見ているからですよ……と、私はここまでしか言えませんけれど。後は、姫さまもご自分のお心に問うてみてくださいませ。兄をどう見ているのかを。そして、御婚約者さまをどう見ているのかを」
お凛の言葉は胸の中にスッと入ってきた。征四郎が自分を神という存在ではなく、女として見ている?まさか……自分に静がいるのを知っているのに。こればかりは、お凛の言葉では計りきれない。征四郎自身に直接訊かない限りは。
だが……自分の気持ちは?征四郎をどう見ている?静をどう見ている?
『俺を男として見てくれているってことでいいのかなあ』
征四郎の城下での言葉が思い出された。征四郎のことは好ましく思う。自然に接してくれて、人と神ということを感じさせない。優しく、一緒にいると楽しいが、どきりとさせられることもある……。謡は、そこは考えないように蓋をしてしまう。静は、同じく優しい。唯一、気持ちを分かってくれて、いつも心配してくれる存在……それは、まるで兄のような……。
謡はハッと顔を上げた。
「兄のような……?」
自分の心の中の言葉が口に出た。何を言っているのか、静は婚約者で後に夫婦になるというのに、兄のようなとは変だ。
「どうなされましたか?」
お凛が謡の顔を覗き込むが、謡は何もないと首を横に振った。焦る。こんなことは思ってはいけないことだ。でも、心の中に出た兄という言葉は消せそうにない。静を慕っているのではなく、兄のように思っている?謡は自分の結論に衝撃を受けた。
「お凛どの、ごめんなさい。少し一人にしてもらえる?」
謡はそう言うと、お凛は何も言わずに礼をして立ち去った。一度、部屋に灯りを点けに来たが、何も訊かれなかった。すでに山々の稜線がはっきりとは見えないくらいに暗闇が訪れてきた。星々が瞬き、涼やかな風が部屋を通り抜けた。その度にゆらりと灯りが揺れた。
それじゃ……征四郎どのにどきりとさせられて、静のことを言われたくなくて、征四郎どのが妻を娶ろうとしていたことに胸を痛めたのは。
「征四郎どののことが……?」
口に出してしまっては、自分の気持ちを認めてしまうような気がして、その先は飲み込んだ。
どうしよう……。こんな気持ちで静に嫁ぐの?
知らなくても良い気持ちを知ってしまった。何も知らない方が良かったのかもしれない。でも、これは……きっと恋。
謡は唇を噛んで俯いた。何が変わるわけでもない、静と夫婦になることは決められたこと。生まれた時から、決まっていたのだから今更何も変わらない。ただ、少し悲しいだけ。大丈夫、静のことは好きなのだから、夫婦としてもやっていける。征四郎は人なのだから、神である自分とは結ばれることはない。それに、征四郎に焦がれているのは謡だけで、征四郎は何もないのかもしれない。忘れよう、こんな気持ちは。
「それが一番いい」
一人で結論を出した謡は、居たたまれなくなり、早く里に戻りたいと思い始めていた。忘れるならば早い方が、傷が浅くて済むし、気のせいだったと笑えるかもしれない。里の方を見ると、すでに山々は暗闇に紛れていた。




