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神様の恋  作者: 橘 弓流
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人の世へ

 それからは何度か征四郎は太朗を伴って里に訪れた。二人きりになることはなく、謡は何となく面白くはなかったが、征四郎と太朗に会って話すのは楽しかった。そして、いよいよ神事の前日になり、謡が里から出発する日になってしまった。


 謡はいつもの真っ白な装束ではなく、緋色の袴を履いて、一応、出掛ける様相だ。大神や叔父たち、重臣に挨拶し、山を下りた。少し離れた場所で藤が見ていたが、話すことは無かった。挨拶したかったが、口を開けば注意ばかり言われるのは分かっていたので、謡もそのまま出てきてしまった。きっと自分でも分かっている事を言われると思うと、これからの重責を考えて、わざわざ話すことはない。気が引けてしまった。


 中之宮までは静と謡に仕えている女官二人と向かう。謡は静に抱えられ、飛んで向かった。静の鼓動が耳に届く。何も言われないことが、返って嫌な気分になる。あの勝手に中之宮まで来た日以来、静は何も言わなかった。いつものように接してくれていたが、はっきりと何も言われないことが複雑な思いがする。

「着いてしまったな。私が一緒なのはここまでだ。後は謡の力で何とかするしかない」

 静は謡をそっと下ろして、真っ直ぐ見据えた。謡も頷く。

「はい。ありがとう……静」

 少し不安はあるが、引き受けたのは自分だ。自分のやることを、きちんとこなすしかない。

「謡」

 静は謡の名を呼ぶと、腕に抱いた。

「な、何……?どうしたの?」

 謡は動揺し、押し付けられた静の腕の中で問うが、何も答えない。ただ、謡を抱きしめている腕に力を込めるだけだ。

 普段、静はこんなことをしない。感情を激しくぶつけることが、ほとんどない。

「謡、気を付けて。本当は私が守ってやりたい、人のいる世になんて送り出したくないんだ。心配で胸が押しつぶされそうだ」

 心配してくれているのは、いつも感じていることだ。だが、こんなに心配されているのかと思うと、自分の不甲斐なさも感じながらも嬉しさも湧く。

「ありがとう、静。次期大神の婚約者の名に恥じぬよう、静の力になれるように頑張るから」

 謡がそう言うと、静はそっと謡を抱く腕を緩め、やがて手放した。


 すると、征四郎と太朗二人が中之宮に迎えに来ていた。近づくと、膝を折って頭を下げる。

「烏間うた姫さま、お迎えに上がりました」

 征四郎の言葉が儀式のようで、いつもの砕けた感じは一切無かった。

「二人とも、うたを頼んだ」

 静が二人を見下ろしながら告げた。二人は「はっ」と返事をし、立ち上がる。

「参りましょうか、姫さま」

 征四郎が手を差し伸べた。その手を取る前に、謡は振り返る。あんなに心配かけている静に言葉をかけたい。

「しずか、行ってまいります」

 頭を下げ、征四郎の手を取った。転ばないように手を引いてくれる。だが、静のあんな顔を見てしまっては、せっかく征四郎に会えたのに楽しい気分は全く湧いてこなかった。もう振り返らない。静の顔を見てしまっては、行くのをためらってしまう。


 やがて、中之宮も見えなくなり、麓にある神社へと近づく。すると、馬のいななきや、人の気配がして、ここはもう人の世だと感じた。

 木々の合間を抜け、神社の裏手から本殿横を通り過ぎ、拝殿前に到着すると、征四郎はそっと手を離した。そこには、何人もの人が謡の到着を待っていた。輿、侍女と思われる女人が数人、警備の者を思われる男たち。それに、神と同じ装束を着た老人は、ここの宮司だろう、巫女も数人いた。

 謡が近づくと、全員が膝を折って頭を下げる。謡は、それほど多くはないだろうが、この人数の人でさえ、自分を敬ってくれていると思うと圧倒され、息を飲んだ。

「御苦労さまでございます。城までよろしくお願いいたします」

 謡は皆に礼を言うと、用意された輿に乗った。

「ここからそれほどかかりませんが、何かありましたらお声を掛けてください」

 輿の傍で征四郎が言うと、戸を閉めて出発した。輿に乗るのも初めてだ。それよりも何もかもが初めて。神社に参拝者も多く、皆が平伏している。そうか、自分は神だった、ということを自覚せざるを得ない。いつもは疎まれている存在なのに、何となく落ち着かない。そんな大層な身分ではないのに……。

 だが、全ては大神の力があるから神という存在が認められて崇められているのだ。恥じない行いをせねば……この時の謡は先ほどの静の表情も思い浮かべ、気を引き締めていた。

 

 一行はすぐに城下に入った。神社から城まではそれほど遠いわけではない。ざわざわと人の気配と話し声が耳に入る。小窓を少し開けると、城下の様子が目に入った。本当なら様子は見通せる力があるのだが、自分の目で見てみたかった。

「すごい……これが人の住む世……」

 思わずため息が漏れた。なんて生命力が溢れて、活気があるのだろう。店と思われる建物が並び、人が行き交う。笑い、話し、何かを食べている様子も見えた。自分の住んでいた里がいかに狭いかを思い知らされると共に、興味が湧く。本当なら近くで見てみたいくらいだ。

 だが、そんなことは許されるはずもなく、黙って輿の小窓を閉めた。すると城門をくぐり、しばらく行くと御殿の車寄せに輿を着けられた。


「烏間うた姫さま、御到着でございます」

 輿の戸が開き、謡が降りて通されたのは、謡が滞在するための部屋だった。征四郎の案内で端正な庭に面した部屋に通される。そこには、あの時に選んだ反物が美しい打掛となり、掛けられていた。

「すごい!素敵!」

 これを私が着ていいの?すごい、見たことない。謡が感激していると、征四郎の後ろから女が入ってきた。

「お初にお目にかかります、城での滞在中にお世話を仰せつかった、凛と申します」

 謡が振り向き、廊で平伏した女を見ると、にっこりとした笑顔を向けられた。そして部屋の中に入ってくる。年は自分と同じくらいだろうか、可愛らしい娘だった。確か、征四郎の妹どのが世話をしてくれると言っていた……ああ、お凛どのと言っていた。

「お凛どの、うたと申します。色々と準備が大変だったと思います、感謝しています」

 謡はお凛に近づき、礼を言った。

「滅相もございません。こちらこそ兄がお世話になってしまって」

 お凛は手を振って否定した。征四郎と同じく、話していて楽しくなるような娘だ。

「それで、姫さま……。お疲れでございましょうか?」

「いえ、別に。神社からそれほど遠くもないし、輿に乗っていたので私は疲れてはいないけれど」

 これくらいで疲れてはいない。不思議に思い征四郎を窺うと、複雑な表情をしていた。何なんだろうか。


「ですってよ!兄上。これは好機!せっかくだから、私の計画に乗ってもらうしかないようね」

 計画?好機?謡には分からない。すると、征四郎は大きくため息を吐いた後に、にやりと口の端を上げて笑った。いたずらでも思いついたような目つきで、ぽんと一つだけ膝を叩く。

「それじゃ、ま……一つ、晴明さまの目通りは夜ってことなんで、行くとするか」

 何かを決意したようだ。謡は訳が分からないまま、話が進んでゆく。

「誰かおらぬか」

 お凛が人を呼ぶ。すると、侍女が一人出てきて、頭を下げた。

「姫さまはお疲れの様子、ゆえに殿の目通りの夜まで休まれる。誰もこの部屋に近づけさせぬよう取り計らえ」

「かしこまりました」

 そう言って、ろくに顔を上げぬまま侍女は出て行った。そして、征四郎とお凛は襖や障子を閉める。

「私は疲れていないけど……」

 不思議に思い口にすると、お凛は兄と同じようににやりと笑う。

「いいえ、これから姫さまはお休みになられます。そこで、私とお召し物を交換いたしましょう。恐れ多いことですが、姫さまの装束を私が着て、ここで休んでおりますので、その間に、兄と一緒に城下を見て来てくださいませ」

 最初からそのつもりで……?謡は征四郎の顔を窺うと大きく頷いた。

「さっき通った時に輿の中から興味深そうに見ていたのも知ってる。どうせ、そうなるだろうと思って、お凛が計画したのだ。返事を訊く間も与えなかったのは悪い……が、城に滞在する間に城下見物なんて余裕はなさそうだから、今の間にってことだ」

 二人の計画に驚いて口を開けてしまった。嬉しい……そんなことまで思っていてくれたとは。


「さ、姫さま、急いでくださいませ。ほら!兄上は着替えるのだから出て行って」

 お凛に急かされ、慌てて征四郎は部屋を出た。着替えを終わると、謡はちゃんと武家の娘らしく見える。 小袖姿も新鮮だ。逆にお凛も装束姿になると、それなりに謡の身代わりに見えてくるから不思議だ。

「ありがとう、お凛どの。手を出してもらえる?」

 謡は向かい合ったお凛の手を取る。そして、目を瞑り、力を込めた。

「あったかい……」

 お凛は呟く。謡は瞼を開け、お凛に微笑んだ。

「少しだけど、私からのまじない。お凛どのに良いことがあるようにと願ったの。ありがとう、私のために」

「姫さま、私こそありがとうございます。どうか、お気を付けて、いってらっしゃいませ。私はここで御待ちしております」

 謡は感動しているお凛に力強く頷くと、障子の戸を開けた。そこには征四郎が控えていた。


「うわ……これはまた……可愛いな。お凛の着物とは思えないくらいだ」

 征四郎は少し顔を赤くしながら口元を押さえた。今着ている小袖はお凛の物だ。若い娘らしい可愛らしい薄い桃の色で、裾には柄が入っている。謡は恥ずかしながら、自分を見下ろした。

「あ、ありがとう」

「じゃ、行こう」

 ここで長居はしていられない。さっさと城から出なければ。恥ずかしい思いをしていた謡も征四郎に釣られて赤くなる。しかしすぐに手を引かれ、廊を抜けて誰にも会わずに城を抜け出した。

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