苦痛
1日おきに投稿します。
一応すでに完成していますので、予約掲載で。
「……高い、な」
誰に告げるでもなくつぶやいたわたしの言葉に、
「そりゃあね。地上十メートルはくだらない高さだもの」
誰とも知らない男性の声が背後からかかった。
「え?」
ただの独り言、最後の独り言のつもりの言葉に言葉が返ってきて、わたしは素っ頓狂な声で驚いた。
「やあ、こんなところでどうしたんだい?」
そんなわたしにかまわずに、気楽な声で声の主は話しかけてくる。
振り向いたわたしの目に映ったのは、二十歳を過ぎたあたりであろう、着崩したスーツ姿をした青年だった。着崩されたスーツはもはやカジュアルファッションのような普段議事見ていて、格式ばった印象は一切感じさせない。
「……あなたは?」
封鎖とは名ばかりだけれど、申し訳程度に世間と隔絶されているこのビルに登ってきた彼こそ誰なのだろう。
わたしと同じ、自殺願望者か、それともただの物好きか。
当然の疑問に、彼は首を横に振った。
「別に誰でもいいだろう? それより君は、今から何をしようとしているのかな?」
「…………」
にやにやと、人を食ったような笑みを浮かべて尋ねた質問にわたしは一度口を閉ざした。
「死ににきたの」
たっぷりと三十秒以上の時間を置いて、ようやくわたしは、誰かにこの決意を話すだけの平静を手に入れた。
本来自殺とは、そのまま自分を殺すことだ。誰かの許しは必要ないし、誰かに責任をなすりつけかねないような言動は控えるべきだ。
そんなわたしの葛藤を知ってか知らずか、まるで休憩中のような安穏とした青年は、
「へえ、そうなんだ」
と軽い口調でうなずいた。
そして、
「どうして死のうと思ったの?」
と、やはり軽い口調でたずねてきた。
そのときには、少なからず青年のお気楽な雰囲気に呑まれていたのだろう。わたしは特に気負うでもなく、そのままの言葉を語った。
「苦痛ですから」
端的なわたしの返答に、青年は首をかしげた。
「苦痛?」
ずいぶんとあいまいな理由だな、という感想がその口調にはこめられていた。だからわたしは、より詳しく説明をした。
「この世界はもう、優しさを当たり前だと思わなくなってる。誰かが優しいことをしたら、そのことの裏を疑うか、そのことをおだてて『凄い』というかが当たり前になっている。優しさそのものを当たり前だと思えなくなっている」
「…………」
「わたしはべつに、誰かに褒めてもらいたいわけじゃない。当然、痛くもない腹を探られたくもない。にもかかわらず、わたしが『当たり前』と思うことをしていると、みんなはおだてるか裏を疑う。それが苦痛なんです」
「……なるほどね」
別に話すことが嫌なわけでもない話だった。
わたしが嫌なのは、この話を聞いて、知ったかぶったように何かをいわれることだけ。
わたしに何かを言ったとしても、この世界がそんな世界だということに変わりはないのだから、わたしは何かを言われることを心底うざったらしく感じていた。
青年はその言葉に何を感じたのか、あごに手を添え思案にふけりだした。
少なくとも、わたしの嫌いな説教ぶったようなことをするつもりはなさそうだ。