ごじゅうさん
まだ支払いを終えていないケータイを、あろうことかうっかり階段の最上段から落とし、盛大にバウンドを繰り返してようやく踊場で止まったかと思うと、今度はその音に反応して無数の妖異が襲ってくるこの状況。
なにがどうしてこうなった?
画面バキバキとなり、酷い有り様となったケータイを恨めしく見やりながら私はハジメと秋人くんを連れてできるだけ密閉された教室にて結界を張り、籠城を図っている。
しばらくは大丈夫そう。
秋人くんがいるにしても、そうしばらくは。
「てっきり僕がいるだけで結界の強度が全部なくなるもんだと思ってました」
「それは違うわ」
秋人くんが知らないのも無理はない。まだ伝えていないのだ。
「秋人くんが結界の影響を受けない、それはその通りで、結界自体を乱す、それも間違いない」
「それは聞いてます」
「そう。でもね、別に結界の中にいる分には、特に強度が下がるとかはないの。結界は言ってしまえば膜を張ってるようなものであり、その膜に触れない限りは変化はなにも起きないわ。シャボン玉のイメージかしら」
実際は膜に触れることはできない。
結界に干渉できる者は大抵、自分も結界を張れる異能者だ。それでも、触れるだけで割れるような下手はできない。
やろうとしてもできはしない。
にも拘わらず、秋人くんは触れるどころか割ってしまえるということ。
イレギュラーだ。
「いや、それだとさっき…………――――」
秋人くんは言いにくそうだ。
さっきとは呪符の爆発に耐えられなかった私の結界についてだろう。
案の定、
「さっき――――伊狩先輩が吹っ飛ばされてしまった理由になりません。辻褄が合わないような」
と疑問を口にした。
答えておく義務があるだろう。元よりそのつもりだったけど。
「私の服の裾、咄嗟につかんだでしょ」
「あ」
「これは先に伝えておくべきだったかもしれない。知っておけばそんな失敗は、あるいは起きなかったかもしれないはずだから」
「…………すみませんでした」
「謝罪は求めてない。この件に関しては全員に非があったと認めるべきなの」
私はモットーとでも言うべきものは、誰かひとりに罪が着せられるくらいなら、自分を含んだその場にいる全員に連帯責任をとらせることだ。
もちろん自身だけが負うべき責任もある。
ミスとは極論を言えば、最初からちゃんとすれば防ぐことができるものが多い。
そして最初のミスから足を引っ張られてまたミスを犯すことなどもっての他。
ミスを修整できる力量なくしてプロを名乗ることはできないということだ。
その点で言えば、私はまだまだアマチュアということか…………。
「つまり、僕は結界の真ん中にいれば」
「安全は保障される」
最後はハジメが横取りしてしまった。
とはいえ、安全が保障されるとはまた限らない。
「忘れてるかもしれないけど、あの‘怪異化妖異’は結界を破れるわ」
唯一の希望を踏みにじられ、仲のいい先輩と後輩は共に肩を落とした。
それが、今陥っている状況の中で最も懸念すべき危険だ。
‘あれ’がハジメと同じ‘眼’を持っていなくて幸いだったけど、それは些細な慰めに過ぎない。
いつ、どの瞬間にあいつがここを突き止めるとも限らないのだ。それだけの鼻があるのかも未知数。嫌になる。
「霊結界のお陰で妖異は教室から離れていったようだな」
ハジメはわざわざそうおためごかしをし、変わらぬ状況を少しでもポジティブに考えようとしているらしい。
一先ず妖異の群れで位置を把握される心配はなくなったというわけだ。
「さて、なにかいい案をちょうだい。ふたりとも」
私が茶化すように言うと、仲のいい先輩後輩は揃って首を傾げ、結局状況を打破するいい考えは浮かばない。
そもそも相手が悪い。
こちらがどれだけ戦術、戦略を立てようが、あちら側は暴力で全て捩じ伏せてしまうのだ。
半端なレベルで、規格外の隠しボスと対峙する気分とはこういうものなのか。
言葉にできない、落胆という意味でのタメ息が思わず漏れる。
「やっぱり試すしかないか…………」
最後の手段でも使うべきではないと思っていたけど、これは致し方ない事態であり、そうしなければ私たちの命が危ない。
これが唯一の突破口となるはずなのだ。
試すという物言いに、ハジメは全く心当たりがないようで疑問符が顔に張り付いている。
「試すとは?切り札あるのかっ?」
「切り札、というよりは、チートのようなものだけど。それに機能するかどうかはわからない。けれど、もしうまくいけばまだこの校舎にいるラクを、なんのリスクも侵さず誘導できるかも」
魅力的な作戦だ。
しかし、リスクがないと言ったのは嘘になる。なぜなら――――。
「秋人くん、妖異をコントロールして、ラクを捜し呼ぶのよ」
「……………………」
墓穴を掘った。
けどそれしか方法がない。
「伊狩先輩…………僕はでも、あれが本当に僕の仕業だったのか未だに信じられないんです」
「いいえ、あなたの仕業よ」
「でも…………」
「どんな気分だったの?」
これは詰問である。
こんな狸奴討伐作戦がなければ、妖異を乗っ取る力――――それを得てしまった秋人くんはそれを自覚し、利用するか否か、つまりは封印するかという議論を繰り広げるはずだった。
今回のように手詰まりの状況において、平時に戦力や最後の手段としての価値があるかを見極めなければならなかったのだ。
そして今が手詰まりのとき。
その危険性については未知数だけど、頼らなければいけない。
たぶん気持ちのいい感覚ではないはずなのだ。
「妖異の頭を見たとき、あなたはなにを感じた?」
「…………もし仮に、あれがその感覚だったとしたら――――」
ここで思うところがあるのか、細やかな含みを持たせて秋人くんは告白した。
「やりたくないです。一言で言って最悪なんですよ。妖異が考えていることが、全部流れ込んできて気持ち悪くなって、壊れそうになります」
思いの外、深刻な答えが返ってきた。
それはあまり促すのもよくないと、憚られてしまう。
「でも」
秋人くんは次を語った。
自ら覚悟を決め、リスクを負うことを受け入れて、
「僕が助けを呼びます」
と言ってくれた。
やはり止めるべきなのだろうか?
けれどここで簡単な爆音でも響かせて、ラクより先に‘あれ’に見つかるよりは堅実的であり、かつ合理的な手段だ。
私も覚悟を決めなくてはならない。
将来、指導者になるためにも、ここで私もリスクを負う。
「ハジメは異論ない?」
「後輩に、しかもただ巻き込まれただけのやつに大役を任せるのは不本意だ。だがそれしかないのなら、僕も任せてみるよ。秋人」
「はい」
頼もしいと思う。
こうなりたいと、私は思うのだ。
ひとりではなにもできない私は。
「ハジメ先輩。やっぱり前のときは偶然乗っ取りができたんです。もしかしたら、僕の予想ではこの力はハジメ先輩‘眼’と同じか、ある程度似てるんだと思うんですよ。ちょっとだけ、教えてくれませんか?」
「…………ああ。5分で覚えろ」
了承したハジメだけど、それに間があった。
ハジメにとってのこの力は、トラウマを甦らせる忌むべきものだから。
‘トモ’のことを思い出してしまうんだろう。
まさかとは思うけど、あの子…………この事態に関係してるってことはないよね?