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さんじゅうさん

 月。

 巧く書けないな。やっぱりしばらく筆を取っていなかったから、感覚が鈍ってきているんだろう。跳ねは甘いしバランスも悪い。

 久しぶりの一日休み。およそ3ヶ月ぶりだけど、これは喜ばしくない事態でもある。

 人型妖異の発生から、その他雑魚の個体反応が顕著に薄まり、やがてはなくなってしまった――――という事態だ。

 こんなことは一度もなかった。私が生きてきた限りでは。

 つまりは、嵐の前の静けさ、を感じざるを得ない。

 なにが起こっているのか。こんな日でこそ情報を集めたいところではあるが、9時に目が覚め、4時間の寝坊ではやる気も起きず、雨も降っているし、とりあえず一筆をと、縁側のとなり、床の間を背にして、束の間の休息を楽しむことにしたのだった。

 思えば久々にひとりぼっちだ。なんて静か。これほどまでに充実しそうな一日はない…………。

 使用人など普段は雇ったりしないから、家に帰ればお風呂に入って寝るだけ。やはりお気に入りの部屋で、お気に入りの着物を着て、お気に入りの字を書く、これほどまでにいい機会を無下にすることはできない。

 もう…………死んでもいいな…………。

 しかしながら、目を閉じて、そう感傷に浸っているところを慌ただしい足音が邪魔するなんて、不粋にもほどがあるわ。

 たぶんそいつは知らないだけなんだろうけれど。お構い無しか。

 善人なら玄関で大声を出して呼び掛けたはず。けれども反応はなかった。当然ながら、この部屋は玄関より反対側に位置しており、インターホンは壊れたまま放置している。聞こえるわけがない。

 落ち着きのなさからして空き巣という可能性はなし。ヘタレなのかもしれないけど。

 彼、あるいは彼女は私に用がある。大事な用なのだろう。

 ならば‘彼’は私と親しい人物であり、その中でも私の家を知っている限られた人物。

 というかまぁ。不規則だったから似ても似つかないけれど、あの足音は、

「秋人くん。いくら急な用事があるといえども、女の子がたったひとりしかいない家にズカズカと遠慮もなしに立ち入って来るのは、好ましいことではないわ」

 縁側で息を切らして立ち尽くす後輩に、私は当たり障りのなさそうな皮肉を言った。

「はぁ………………はぁ………………はぁ…………はぁ」

 秋人くんはそこでグッと息を飲み干すと、なんの前置きもなしに勝手に本題に入った。

「伊狩先輩っ!和真が…………っ!」



 はぁー…………いくらなんでも早すぎでしょ。私の休日の終わりといい、マークしていた対象の問題といい。

 そして私は秋人くんの話を聞いた。

 切羽詰まっていそうだったので、お茶は出さない方がいいだろう。手間だ。

 パニックを必死に押さえつけている彼の話は聞くに耐えないものだったけど、ある程度予想していたので、わからないものではなかった。

 例外としてわからないのは――誰が?――どうして?――なんのために――――だ。

「話はわかった。人物の失踪…………は、警察に委せればそれでいいんだけど、彼女は別ね。秋 和真の失踪は、誘拐という線があり得る上に、容疑者が私たちに属するものかもしれないわけだしね」

「そうなんですか…………?」

 秋 和真が誘拐された。

 彼女の生い立ちと現在を鑑みるに、家出は除外、身代金目的の、ましてや人間の犯行という可能性は極端に低い。

 私たちの見識が誤っていなければ、彼女はもっと異端のものに目をつけられる存在だ。

 私たちは彼女を見逃すべきではなかった。もっと近くに置いておくべきだ。

 そうは言っても、昨日今日の話だというのだから、まったく…………ほんと、妖異以外に誰があんな娘に興味を持つの?

 無事だろうか?

 私たちより早く彼女に気づいていたということも、ちゃんちゃらおかしいものだ。

 協会が絡んでいるのか?あれのデータベースなら知っていてもおかしくない。

 いや、あの程度の存在で協会が動くとは思えない。

 ならば第三者の可能性だ。オカ研が接触する前か後に、彼女の存在に気づき、私たちが処理する前に身柄ごと自分の目の届くところに連れていった。

 これが妥当だろう。

 妖異に食われていないのは確実だ。理由は秋人くんが彼女を‘覚えて’いるから。

「なにか心当たりとかはないの?」

「ありません…………あいつ…………いや、僕ら、お互いの人間関係なんて、話したことなかったし…………っ」

「そ。まぁ話していたところで、手がかりになんてならなかったと思うけど。念のために」

「人から反感を買うようなやつじゃないんですっ!」

「わかってるから、もっと頭使って話をしましょう」

「そんな悠長な…………っ」

「さっきはああ言ったけど、人間じゃない、とは決まったわけじゃないのよ。目撃者がいれば手間が省けるのだけれど。ここはハジメに任せるしかないわね」

「それだっ!伊狩先輩っ!早くハジメ先輩に知らせてくださいっ!」

「落ち着いて。そのことなら心配ないわ。あの娘には監視をつけてあったから、ハジメはすでに動いているはずよ」

「…………なんで」

 ――――なんで秋 和真にそこまでするのか。

 と訊きたいのだろう。

「今は話してる暇はないでしょう。そろそろハジメから報告が来るはず。秋人くん、あなたはここで待ってなさい」

 立ち上がって、後ろに立て掛けてあった地味な屏風の裏に身を隠してから、私はそう言った。

 当然、着替えるためだ。

「なんで?!」

 まずは帯を緩めにかかる。

 なぜ?とは、説明がめんどくさい質問だな。

「わかってるでしょう?秋人くん。和真ちゃんを助けたい気持ちはわかる。私もそこまで冷めてない」

「だったらっ!」

「けどね、だからと言ってあなたを連れていくことはできない」

「力がないからですか!?僕が、妖異どころか人間の相手にもならないから?!」

「そうよ」

 帯をほどき、肩にかかるだけの着物を脱ぎ捨てる。

 さて、なにを着ていこうかな。無難に制服か。これもそろそろ、戦闘服として殿堂入り寸前だ。

 そういえば、こないだの戦闘で一着ダメにしちゃった。やっぱなんかやめとこう。

「単純に言って、どうしてもと泣きつかれても足手まといはゴメンね。守らないといけない人数が増えるだけで、和真ちゃんが助かる確率がグンと下がる。プロにも手の届く範囲というのは、限られているのよ」

「でも…………っ!」

「見るだけもダメよ。はっきり言って、私たちの目の届かない範囲が、あなたの安全圏内よ。意味わかる?」

 ここからでは表情が読めない。でも歯を食いしばっているかも。

「覚悟――――なんてのは、実力が伴わないときに決めるものじゃない。強いて言うなら、みんなの無事を祈ってここでお留守番する覚悟を、あなたは決めるべきなのよ」

「納得できません!そんなの…………っ、詭弁じゃないですかっ!」

「なに?あなたは自分では、和真ちゃんを助ける手伝いをしたい、できる、とか思ってるのかもしれないけど、実際どうなのかな…………私からすれば、まるで悲劇のヒロインを救うヒーローになりたい中学生か、前線にいなかっただけで責任を責められることを恐れた小学生にしか見えないんだけれど」

「し……っ、心外です!なんでそんな意地悪を言うんですかっ!?」

「これだけ言ってもダメ?」

「ダメですっ!さっき言った通り、納得できません!」

「させてあげようか?」

 すかさず、屏風を突き飛ばし、呆気にとられた秋人くんを押し倒して馬乗りになると、左手で逆手に持った脇差しを彼の左耳付近の畳に刺し、腕で首を押さえつけてから、右手に同じく逆手に持ったもう一本の脇差しの切っ先を、彼の目の前に突きつけた。

 まだ着替えの途中だったので、脱ぎ捨てた着物を拾って羽織っただけの格好だ。結構恥ずかしい。

 しばらく沈黙が流れる。

 唾を呑むのも許さない。

 瞬きするのも許さない。

 眉間に凶器が迫っているというのは、どんな気分なんだろう…………。

 考えたことないな。

 今、考えてる。

「……………………っ!」

「痛い……?苦しい……?わかった?あなたみたいなデクの棒は、服も着ていない女の子にも相手にならないのよ。理解できたなら、今のこの状況をラッキーと考えて、大人しくお留守番に撤することね」

「……っ……っ……っ!」

「返事は瞬きでいいわ」

 それを聞いた秋人くんは、二度、瞬きを繰り返した。

 意外と情けない。ここで反論のひとつやふたつ、されたところで私の心変わりはあり得ないけど、それでも彼を見直すことはできたかもしれない。

 人間なんてこんなもんか。本当に命を捨てたことがある私やハジメ…………ラクのようにはなれないのだ。

 けれどなんら特別というわけではない。

 私たちは、他人より不幸なだけ。

 なんにせよ、命を大事にすることは、いいことだ。

「それでいいわ」

 左手の支えで身体を持ち上げ、サッと着物がはだけないよう両手で抱えた。右手にはまだ脇差しを待ったままだけど、左手に持ってたのは…………刺したまま。

 さて、着替えの続きを――――と思ったところで、ハジメの報告が届いた。

 今どき伝書鳩なのだけど、みすぼらしさから見るに、調教されてないその辺にいる鳩だ。

 …………まさかさっきのが終わるのを見計らって入ってきたの?

 帰ったらあいつ、雨ざらしね。ちょうど明日は大雨らしい。

 報告は鳩の脚についていた。

 引っ掻けているだけだったので、着物を押さえながら右手でつまんで受け取り、指を使って読めるよう広げた。

「………………」

「伊狩先輩…………?」

 私は床の間に近寄り、コンセントに繋げてあった携帯を手にとって、ある番号に電話をかけた。

 呼び鈴が鳴る。

「あの、伊狩先輩…………?」

 尚も話しかけようとする秋人くんを、脇差しを持った右手の指で制したところで、やっと呼び鈴が鳴り終わった。

「結?夏希よ。めんどくさいことになったわ」

 まるで寝起きのような声がうざったく聞こえたので、なにがめんどくさいのか詳細は説明せず、私は続けた。

「ラクを連れていくから手続きよろしく」

 普段はいけ好かないけど、こういう人はパシれるときにパシらないと。

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