にじゅうさん
怪異にとって、自分が元々の人間でないという事実は、途方もなくコンプレックスであるらしい。
冬真先輩は正確にいえば元人間の‘怪異憑き’なので、そういう事情はよく知らないと言っているけども、しかしそうなのだと教えてくれた。
怪異が生み出されるメカニズムは、ほぼほぼわかってきているそうだ。
例としてこんな話がある。
ある時、あるところに、とても賢いカラスがいた。
カラスは人間に憧れていたらしい。
自由に歩き、走り、話し、持ち、誰かを愛す。
なによりも、人から迫害を受けることがない。そう思っていたからこそ、カラスは人間になりたいとさえ思っていた。
大きく力の強い人間には抗うこともできないし。
自分たちが嫌われているのは、町中のゴミを荒らし回っているのと、この真っ黒な外見のせいだと、カラスは断じることでカラスとして生まれてしまったことを悔いた。
仕方ないともわかっている。
ゴミを荒らすのは生きていく為。
身体が黒いのは、生まれつき。
しかし、だからこそ自分は一度もゴミを散らかさないようにはしていたけれど。
別のカラスの濡れ衣を着せられたことはあったけれど。
結局なにもしていないのに嫌われたけれど。
それに、如何せん、外見は変えることができないけれど。
それでも、憧れは潰えることがない。
いずれはこんな扱いを打破しようと色々な策を労するようになった。
試しに人間が壁に塗る、なにやら明るい色の水に飛び込んでみることにした。
けど全身が重くなり、苦しくなっただけで、満足できる結果にはならならずに終わった。
色を変えるのは失敗。
しかも苦しさは増すばかりな上に、遂にはそのまま息もできなくなり、目をつぶってグッタリする羽目になってしまったのだ。
なにも見えない。
辛うじて、耳と三半規管だけはものを感じることができたけど、なに者かが近寄ってきているとわかっても、もうどうすることもできない状態だ。
突然身体が、羽ばたいてもいないのに浮き上がったのも覚えている、ずっとなにかが喚いているのも喧しいほどに聴こえていた。
酷く気分が悪くなる。
そしてもっと気分が悪くなるほど揺さぶられたかと思うと、チクリとして意識が遠退いて、次に目が醒める頃には身体が楽になっていたりする。
ふわふわした時間がかなり長い間経ち、目の前には格子状の壁があるなとわかると、その奥に人間がいることもわかった。
瞬間移動…………。
否。
助けてくれたのか。
羽根の黒さが戻っているのを察するに、色を取り除いてくれただけらしいけど、なるほど、あれが苦痛の元だったのか。
馬鹿馬鹿しいことをしてしまったんだなぁ、と思うのだ。
その後、楽しくはないけれど、苦しくもない日々を過ごして、ほわほわしたまま、また久しぶりに空を飛び回った。
人間にも斯様な種類の者がいた。
それはカラスが人間への好奇心に拍車をかける理屈になった。
優しい人間に興味が湧き、それからというもの、道行く彼らを、木の上から観察することが日課になる。
みんな一様に歩いては止まり歩いては止まり。
建物の外から覗いてみると、なるほど、ここでご飯を食べるのか、とか。
身体も自分で洗っているのか、とか。
寝るまで建物の中が明るいのはあまり意味がわからない。
そんなことを幾日か続けていた、ある日。
お腹が減っていた。
観察に夢中で、日中なにも口にしていない。
しかもそんなときに限って、獲物の姿はどこにも見当たらない。
どうしたものか…………。
不意に、とても頭がとろけそうな、いい臭いが鼻をつくと、これはこれはご馳走と思い、一直線に臭いの元に向かったのだ。
向かった先には――――とあるマンション。8階、南側、窓が締まった部屋がひとつ。
カラスにとっては、如何にも絶品がありそうな雰囲気、だけど。
当のガラスの向こうには、殺伐とし、ゴミに溢れ、虫やネズミが巣食い、ひとりの人間が横たわっている、そんな情景があった。
全く手入れのされていない部屋だ。
横たわっているのは、その部屋の主だろう。
ちなみに人間はピクリとも動かない。
臭いは、たぶんその人間からもしていた。
人間の子ども…………性別でいうと、女?
カラスはベランダの手すりから動けなくなった。
なにかが、カラスをためらわせた。
あれほど飢えていた腹も、なにも感じない。
あれほど、優しく、強く、逞しい人間が、ここで息絶えている。
いや、辛うじて息はしているようだ。
痩せ細り、ところどころアザが浮かんで。独りなのか。
このくらいの子どもは常に大きな人間といっしょにいたはずだ。
見渡す限りでは、影もないようだけども。
可哀想に――――。
カラスは、ここでそう思った。
カラスは窓に近づき、コツコツ、とガラスを嘴で叩く。
大して意味があったわけじゃない。
寄り添ってあげたいと思ったのか。
まるで感情が芽生えたかのように、カラスが次にとった行動は、できる限り近くにいれるように、ガラスにピタリと身体をくっつけて眠る、というようなものだった。
独りなの————側にいてあげるよ。
純粋に、人間の少女のこんな状態に意味がわからないまま、感情のまま、空腹のまま一晩を過ごした。
一日の絶食は、彼女に比べれば大したことではない。
日が上ったときにそれは起こった。
いや、起こっていた。一晩の内に、いつの間にか。
身体を起こそうとすると、とても重い。
腕を支えにして、尚も立ち上がろうと…………。
腕?
腕だ。
まったく知らない感覚が、ないはずの神経を伝ってくる。
風にさらせばどこかに散ってしまいそうなほど軽かった翼は、代わりに細長いくせに重く、先に5本の枝が伸びた――――指が、人間の腕が、ここにあった。
目を疑った、なんてものじゃない。感覚すべてを疑い尽くした。
麻痺しているのか、とっさに両腕、胸、腹、脚を余すことなく触ってみても、本当に触れているのかいないのか、よくわからない。
気づくと、足元――――手元にはコンクリートの床ではなく、色とりどりの、それこそカラスが荒らし回るより酷く、ゴミが散らかり広がっていた。
理解するのに時間はかからない。けれども、頭の回転速度が先程よりも遥かに速くなっている上に、同時に“信じたくない”という別思考を行えるようになったことにより、目眩が生じ、喉が乾き、腹の苦しさを思い出し始めた。
信じてはいない。だけど確認はしなければ。
ワナワナと、ゆっくり抵抗を含ませながら目をベランダがある方向に向けると、もう疑いようもない。
1羽のカラスが、まるでそこに眠るように、窓に寄りかかるようにして、死んでいた。
あるいはただ単に寝ているのかもしれなかった。
自分はカラスだった夢を見ていて、目が覚めると、あのカラスはたまたまそこに睡眠中か、息絶えているのかもしれなかった。
そんなのはあり得るはずがない。
なぜなら、自分は、この人間にあるはずの記憶というものが、一片も、欠片もなく、代わりに自由に空を飛び回っていた感覚が、微かだが、確実に残っている。
頭がパニックに陥ってしまったのは、然るべきというか、必然だったというべきか。
鳥よりも複雑に、精密にできていた人間の脳は、恐らくそれ以上の負担を抑え込むために一時的な停止信号を発し、カラス、否、少女は、次に病院のベッドの中で目覚めるまで深い眠りに落ちていった。
それから10年。
当時6歳だった少女は元気に高校1年生として、家から徒歩約15分先にある、私立桜庭高等学校に通っている。




