ホール
ホールには大勢人がいる。皆パンやおにぎりに目を光らせているのか僕には気づいていないようだ。
僕もそうなった事がある。お腹が空きすぎて倒れてしまいそうな状態のなか、僕はただ購買部を目指して階段を降りていた。この時はもう周りは見えなくなった、クラスメイトが視界から消えて他の生徒も消えて先生までもが消えた。
ただ誰かの足音や声は聞こえる。足音でわかる、僕は次々追い抜かれていっていることが。声でわかる、皆お腹を空かしているんだということが。
しかし僕は走る元気なんて無い、早歩きすらする元気も残っていない。だからゆっくり降りるしかなかった。
この時購買部までの道のりが何故か光った。まるで導いているみたいだと思った。
この光の先には僕のお腹を満たしてくれる物がある、美味しいパンにふっくらとしたおにぎり。だから僕は光を頼りに進んだ。
階段を降りてホールにたどり着いたら目的地である購買部がとてつもなく輝いていた。
その光の中にいたのはおばちゃんで、いつも美味しい物を作ってくれている。まるで女神だとこの時は思った。それほどお腹が空いていたのだ。
少しずつおばちゃんに近づく。
お金を出してオマカセと言えば値段に合った物を適当に選んでくれる。どれにしようか決められないときなんかはオマカセは助かる。
僕はどれにしようか決められないわけじゃない、決めている余裕がないのだ。早く何かを食べたい、ただそれだけだ。
ポケットには三百円が入っている。
パンとおにぎりと飲み物の三つ買える金額だ。ああ早く食べたい、こんな事を考えていたらお腹が豪快に鳴った。
恥ずかしくはない、そんなの気にしていられない。
おばちゃんの顔が目の前にあった。
あらまあ随分お腹空いている顔ね、僕はポケットから三百円を出して置いた、オマカセねこれとこれとこれでどうかしら、あっという間に選んでそれらを袋に入れて僕の手に持たされた。
さあ早く食べなさい、でもよく噛んでね。
僕はその声で空腹の向こう側から戻ってきた。光は消えて、皆の姿が見えてきて、いつもの状態に戻った。
購買部から少し離れて袋から適当に取り出した。手に持っていたのはコロッケパンだった。
僕は口を開けて、コロッケパンを一口噛んだ。
マッシュされたじゃがいもがサクサクで、にんじんや肉や玉ねぎも入っていて、食べごたえがあって十分にお腹を満たしてくれる。とても美味しい、こんなにペコペコだからいつもよりそう思う。
あっという間に食べてしまった。
喉が渇いたと袋の中をガサゴソといじる。おばちゃんは何を選んでくれただろう、お茶かなジュースかなコーヒーかな紅茶かな。
冷たくなった紙パックを掴んで袋から取り出す。袋から出てきたのは紅茶だった。ストレートでもレモンでもミルクでもなくアップルだった。カタカナだと四文字の紅茶ブランドの物だ。
僕はストローを紙パックからはなして、紙パックのあけ口を開けた。そこから紅茶の良い匂いが漂ってくる。ストローをあけ口に入れて、口をストローに付けて吸った。
アップルティーが口の中に流れてきて、それが口中に広がって僕の喉を潤す。何となく紅茶ってがぶ飲みするものじゃないとは思うけど、吸うのが止まらなかった。
一気に半分ぐらい飲んだ。もう少し落ち着いて飲んでも良かったかもしれない。
僕はベンチに座ろうと歩いた。
ここはガヤガヤと騒がしく、大勢の生徒が右往左往から歩いてくる。
これでよくぶつからないなと関心する。
少し歩いてお昼ご飯を食べるスペースにやってきた。ここでお弁当を食べてもよし、購買部で買ったおにぎりやパンを食べるもよし。
ここは昔食堂だったようだ。この学校は数年前に建て替えられて、その時に食堂はなくなったけどこのスペースだけは何故か残したのだろう。
何故残したのかと言えば、購買部が真ん前にあるからこういうスペースがあったほうが便利だろうということらしい。
それはその通りで、僕もよくここを使っている。いちいち教室に戻るのもめんどくて、早く食べたい時なんかはここで食べる。後輩や先輩と一緒に食べたい時なんかはここを使うのがベストだ。
「今日は新メニューの日だよ! 売り切れちゃうから早くねー!」
購買部のおばちゃんの声で現実に戻される。
僕はよくボーっとしてしまう。僕自身はボーッっとしている感覚はないのだけど友達や先生によくそう言われるからそうなのかと納得した。
誰かに声をかけなければ、しかし皆お腹を空かしていて今はパンやおにぎりにしか興味がない。周りが見えていない目だ。
あそこに歩いているのはクラスメイトの女子二人だ。彼女たちなら僕に気づいてくれるだろう、早退した僕がここにいたら何でここにいるのと話しかけてくるに違いない。
僕は二人のもとに近づく。
「ねえ、何買う?」
「んーフルーツ系がいいよね、何だか爽やかな感じするし」
二人は購買部で何を買うか話し合っているようだ。
「柑橘系が爽やかってイメージだね」
「蜜柑とか檸檬とか? うん、それにしよう」
真後ろまできた、あとは話しかけるだけだ。騒がしいこの場所だけどこの距離なら聞こえるだろう。
またおじいさんやおばあさんの時みたいに僕の声が聞こえなかったら、この大勢いる中から僕の声や姿を聞くことや見えることができる人を捜さなければいけないのだろう。
それは骨が折れそうだけど、僕は頑張るしかないのだ。
「新メニューって何だろう?」
僕も購買部で何かを買いますという雰囲気で話しかけてみた。
「私は何にしようかな、ねえ何が良いと思う?」
「そんなん言われてもなー、何が食べたいのか教えて」
あれ、二人には聞こえなかったのだろうか。もう一度同じことを言ってみた。
「んーチョコ系かな」
「チョコだったらチョコクリームパンとチョココルネがオススメだよ」
まだ聞こえていないみたいだ、おかしいなこんなに近くで話しかけているのに。今度は大声を出してみた。
「なんかソレはチョコがたっぷりそうで重そうだなー」
「一つだけチョコにしたら良いじゃん」
どうやら僕の声はこの二人には聞こえないようだ。こんなにも大きな声を出しているのに、こんなにも近くで声を出しているのに。
僕は少し目の前が真っ白になった。しかしすぐに元に戻ると、僕はクラスメイトや先輩や後輩がいないかどうかを見回した。
そこにいるのは、そこらへんにるのは僕にとってはその他大勢の生徒たちだ。皆楽しそうにしている、皆笑っていたりふざけたりしている。
僕は見回すのをやめた。先に進むのを止めるのは一番やっちゃいけない、しかし僕だけがこんな思いをするのは耐えられない。頭ではわかっいるけど気持ちが追いつかない。
急にとてつもなく不安になってきた。
不安だけど再び見回す、誰でもいいからそこにいてくれ、そう願いながら。何故いつもは呼んでもいないのに、願ってもいないのに僕の前に現れるのに今は誰もいないんだ。どうでもいい時に姿を現して、必要なときにはいない、おかしいだろうそんなの。
僕は頭を左右に動かしている、人の流れが激しくて見落としがあるかもしれない。だから右を向いたり、左を向いたり、また右を向いてまた左を向く。
だんだん首や頭が痛くなってきた時、僕の視界に飛び込んできたのは後輩の男子生徒だった。
僕は後輩のもとへと駆け寄る。そして後輩の名前を呼んで肩を軽く叩こうと後輩の肩へと手を伸ばす。しかし手は、後輩の肩をすり抜けて何もない宙を掴んだ。
「お前今日早弁してなかったっけ? まだ食うのかよ」
「だってさ、朝レンあったらお腹空くんだよ。だからパンやらおにぎりやら買わなきゃ保たない」
「運動部は皆そうなの? 文化部はそんなんないなー」
「お前は漫画・小説研究部だから頭は使いそうだけどな。そういえばさ――」
後輩は僕に気づかない、触れないし聞こえない、また不安が広がる。
もう誰でもいい、誰でもいいから気づいてほしい。誰か僕の声を聞いてくれ、お願いだから僕の声が届いてくれ、そうじゃなきゃ不安に押しつぶされそうだ。
僕は叫んだ、大きく口を開けて、両手は握りこぶしで、腰に力を入れて踏ん張って。ここにいる誰もの耳に聞こえるような大きな声で、ただ叫んでホール中に僕の声を響かせたかった。
しかし声は響かなくて、誰一人として僕の存在には気づいていなくて、声は騒がしい声と足音に消された。