二つの文字
明日香からの挨拶に僕と金髪は答えられなかった。
ある程度覚悟はしていた、準備もしていた、受け入れてるつもりだった。しかしそれらは全部崩れてしまって形は残していない。何故そうなったのか、それは本人を目の前にしているからだ。
明日香のはずがない、これは何かの間違いだ、こんなの全部嘘だとまだ信じていないのかもしれない。
反応がない事におかしいなと首を傾げる明日香。
「聞こえないのかな」
こっちを見ながらそんな事を言ってくる。
そういえばさっきドアを開いていた、電源のスイッチも押していた。明日香は僕と金髪と同じではなかったのだろうか、公園で会った時も屋上で会った時も本来あるはずのものがなかった。夕方になると足元や地面や床に伸びるもの、影が明日香には無かった。だから明日香は僕達と同じように魂になってしまったのだと思っていた。
魂になってしまったら命ある人に声が届かない、そこにある物は触ることができない。そのはずなのに明日香は触っている。いったいどういうことなんだ、魂ではないというのか。
「無視してるの? 傷つくなー」
こっちを見てそんな事を言ってくる。
その笑顔が怖いんだ。何も知らなかったら素直に可愛いと思う、でも知ってしまったからこそその笑顔が可愛いとは思えない。むしろ怖い、笑顔の奥には何があるんだろうどんな表情を隠しているのだろうと考えてしまう。
僕に心を惹かれていた明日香、それは僕にとっては嬉しいことだ。誰かから好意をもたれているのは良いことであり、僕もいつか誰かに心が惹かれる日がくるのだろうかと楽しみにできる。だけどその好意には限度というものがある、それを越えてしまったら気持ち悪くなる。
明日香は僕に対する気持ちが次第に強くなっていったのだろう。初めはすれ違うだけ、次は見つめる、その次は話しかけてみる、そのように少しずつ僕へと近づいてきた。
僕は誰とでも喋るし、誰とでも仲良くしたいと思っている。だから明日香ともその一人として話したのだろう。いつ話したのかは覚えていない、でもいつからかよく話しかけてきたのは記憶にある。その時の明日香には怖さなんて全くなかった。むしろその逆で可愛くてアイドルみたいだった。
「私の気持ちわかってるでしょ?」
こっちを見てそんな事を言ってくる。
ああわかっている、その気持ちは強くて溢れ出しているのもわかる。その気持ちは本当に嬉しい、誰かに呼び出されて心にある思いを伝えられた事があるけどあの感覚に似ている。今から何を言うのか、今から僕に何を伝えるのか、それもわかっている。
でも僕はそれに頷くことはできない。クラスメイトの一人、生徒会の一人、そのようにしか思えないから。好きとか嫌いとかそんな問題じゃなくて、僕の心に明日香はいなかったのだから。本当に好きな人がいたならば記憶を消されてもちゃんと覚えているだろう、僕の心にへばりついているだろう。
それに僕はこの世界を彷徨う魂だ。そんな場合ではなくて、一刻も早く元に戻る手段を探さなくてはならない。
「ねえ、あなたの気持ち教えてよ」
こっちを見てそんな事を言ってくる。
断ったら僕はどうなるのだろうか。この魂は体に戻ることなく消えてしまうのだろうか、天へと昇っていくのだろうか、悪い未来しか出てこない。そうなってしまうのは明日香が僕を魂にしたからなのか。
まだ明日香が僕を魂にしたかどうかわからない、それなのに勝手に犯人扱いしているのは酷いのだろうか。僕に心が惹かれている明日香が僕を魂になんてするはずがない、そう思いたいけど思えない。
心が惹かれているのは確かだ。だから気持ちがわかっているかどうかたずねてきた、だから気持ちを教えてほしいとたのんできた。それなら何故その笑顔をする、その笑顔は怖いんだ。
「喋れないの? だったら指を指してよ」
そう言って明日香はチョークを掴んだ。赤色のチョークで好きと書いた。可愛い丸字だ、字のまわりには花を描いたり動物を描いたり全体的に可愛くまとめた。
赤色のチョークを置くと、よく使う白色のチョークを掴んだ。そして力を入れて、黒板のあの嫌な音を教室に響かせながら嫌いと雑に書いた。それだけ書くとチョークを置いた。字のまわりには何も描かない。
黒板の左側に好き、黒板の右側には嫌い。その二つの文字が僕のことを待っている。
「私は待つわよ」
こっちを見てそんな事を言ってくる。
「いつまでも」
明日香は笑顔を崩すことなく、その顔で適当な椅子へと座って僕からの答えを待っている。
待つと言った、いつまでもと言った。怖いから待たなくていい、僕には時間が無いのだからいつまでも待たせるのは無理だ。待たなくていいと思う自分と待たせるのは無理だと思う自分が頭の中に現れる。
何をそんなに怖がっているのだ、ここは慎重になったほうがいいよ、さっさと決めてしまえお前には時間がない、まだ時間はあります焦っては正常な判断ができません。交互に喋りだす。
もし犯人だったらアイツはお前をこんな状態にした酷いやつなんだよ、もし犯人だったら何をするのか全く想像できません、断ってやれよそれでスッキリするじゃないか、断ったら逆上するかもしれませんそうなったらどうなるのやら。交互に喋りだす。
どうする、どうすれば正しいんだ、どうやったら正解なんだ。自分の心に嘘をついてもここを切り抜けるために左を指すのか、自分の思いを正直に伝えてさっさと終わらせるために右を指すのか。
好きと嫌い、一方は明日香にとってとても嬉しいことでありもう一方は明日香にとってとても悲しいことである。好きと嫌い、どっちを選んでも僕にとってはよくないことが起きる、そんな気がする。好きと嫌い、可愛い丸字で書かれているまわりには可愛い動物が、黒板のあの嫌な音を教室に響かせながら書いた雑な字でまわりには何も書かれていない。
好きと嫌い好きと嫌い。その言葉を心で何回も声に出してみる。
そんな事をしても良い答えは出そうにないけど、そうでもしないと耐えられない。もし運良くたまたま、良い答えが出たらその時は逃さずに手に取る。だから心で声に出す。
「なあ」
金髪が明日香に聞こえないように小声で言った。
「なに?」
「犯人はもう明日香で確定なの?」
今はそれどころではない。それも重要なのだけど、今は黒板に書かれたモノに対して答えなくてはならない。その答えによっては明日香はどこかへ行ってしまうかもしれない、僕の前から消えて何もわからないまま時間がきて僕は消えてしまうかもしれない。そうなるのが一番最悪だ。
「それよりどうすればいいかな」
「好きか嫌いか?」
「そう」
「これを告白と捉えるなら自分の心に正直になって答えたほうがいいよ」
「それなら話は早いけど」
「でもこれを告白と捉えなかったら難しいね」
「そうなんだ」
黒板に書かれた好きと嫌いの文字。明日香は私の気持ちわかってるのかと言った、あなたの気持ち教えてと言った。告白と捉えるなら簡単だ、でもそうじゃなかったら……。
これがもし、恋愛における好きと嫌いじゃなかったら。これがもし、その文字通り好きか嫌いかという質問だったら。もしそうならこれは明日香の事が人として好きなのか嫌いなのかという二択だとしたら。
好き、それは明日香のことが人して好きであるということ。嫌い、それは明日香のことが人として嫌いであるということ。そういうことであれば嫌いとは、その人に対して全否定するということになる。顔も声も、髪型も服装も、好きな本も好きな音楽も、同じ場所にいるということが同じ学校で同じ学年でクラスメイトということが、空気を吸っているのが何かを食べているのが、生きているのが存在そのものが。その全てを否定することになる。




