目を閉じて見えたもの
「すぐに否定したらよかったんじゃないの?」
「ホントそうだよ」
「なら何故しなかったの」
「できなかったんだ」
「できなかった?」
「明日香のあの表情を見ると怖くて否定できなかった」
「君にも怖いものがあるんだね」
「あの時の明日香は怖かった」
「どんな顔だったの?」
「誰かを憎んでいるような、今にも誰かを殺してしまいそうなぐらい恐ろしくて、そしてそんな自分が可哀相で悲しくて、そしてそれがだんだん面白くなってきて喜びさえも出てきた顔かな」
なんなんだその表情は、想像できない。いや想像してもその表情は僕の頭の中で再現できない。それぐらい複雑な、それぐらい様々な顔をしたのだろうか。言うなれば喜怒哀楽がいっぺんにやってきたということなのだろうか。喜んで怒って哀しんで楽しんで。
「だから俺は動けなかった、何も言えなかった、否定なんてできない逃げることもできない」
そんな表情を見せる明日香を想像できない。明日香は可愛い、だから学校内でも人気があって他校の生徒からも評判は良かった。思い出したけど、門の前で他校の男子生徒が明日香の出待ちをしている姿を何回も見たことがある。出待ちをしている他校の男子生徒に可愛い笑顔で対応する明日香、その姿を見たらそんな表情とは遠い所にいると思うしかない。しかし金髪はその表情を見せられて、命令に従うしかなった。
「新井先生は?」
「俺と同じだよ。怖くて動けなかった」
「そうか……」
「蛇に睨まれた蛙だよ」
金髪は震えている。
「もう俺は喰われるんだ、丸呑みにされて俺がその空腹を満たすんだ、そうやって終わるんだこの命は。捕食されるのはこういう気分なのかとわかった気がした」
その時のことを思い出しているのだろうか。
「だから何もできなかった。頷くしかなかった」
額から汗が出ている。
「俺は明日香の命令でお前に何かをしようとしていた」
「それは何?」
「それは思い出せない」
「……そっか」
「でも想像はできる」
「うん」
「明日香があんな顔を見せるぐらい、俺を使って何かをしようと思うぐらい、それぐらいお前のことを」
「……」
「憎んでいた」
その言葉は静かなホールに寂しく響いた。
空を染める茜色の光がこの場所を包んで暖かいはずなのに、黒くて暗い夜が顔をひょこっと覗かせたような空気が流れて肌寒い。光があたる場所では影が伸びて巨人のように大きくなっている。その巨人もいずれは夜に覆い被されてその一部となる。やがて夜は全てを覆い被せて光を消し去り、真っ暗で何も見えない暗闇の世界へと招待する。人を闇に招いて、心までもが黒く染まってしまう。
夜になると人は光を灯す。ランプにマッチを擦って、スイッチを押して部屋を、薪をくべて。そうすると明るくなって前が見える、後ろも見える。右も左も上も下も。自分の顔がハッキリわかる。真っ暗ではなくなる、暗闇ではなくなる、光が導いてくれる。
「明日香が僕を……」
「そうとしか思えない。あの顔は憎しみの顔だ」
「何で僕を……」
「それはわからない。思い当たることはないの?」
「……さあ、わからない。僕は明日香に憎まれるようなことはしていない」
「そっか」
「でも明日香は僕を憎んでいる。何故、どうして、何で」
僕は目を閉じた。目を閉じたことによって何も見えなくなった。夕日が明るいのはわかる。思い出そう、封を閉められた記憶をどうにかこうにかこじ開けよう、そうしないと何もわからない。思い出したら何故そうなったかがわかる、どうしてそんな事になったのかもわかる、何でこんな事になってしまったのかわかる。今だよ、記憶が帰ってくるのは。
何も見えない中から、僕が現れた。そこにいる僕は確かに僕で、僕は僕を見ている。
僕は制服姿で、下を見て何か考えている。いったい何を考えているのだろう。難しい顔をしている、何をそんなに考えているのだろう。すると制服姿の僕の回りが光った。その光は机を現して、筆箱や時計を、クラスメイトも担任も、僕のクラスがそこに現れた。
皆制服姿で下を見て何かを考えている。机の上には何かの紙が置かれていた。その紙には様々な問題が書かれていた。黒板には何も書かれていない。壁には時間割も、学校からのお知らせも、席順の紙も全部なかった。
そうかこれはテストだ。中間か期末、どちらかわからないけれどこれはテストだ。僕はそのテストをやっている光景を真上から見ている。皆の頭が見える、皆のテスト用紙が見える。
テストを受けている僕はシャーペンを机に置いていた。解答用紙と問題用紙を見て、そして無言で頷いている。もう全て問題を解いたのだろう、そして間違っているところはないか見落としはないかと見直しをしているのだろう。黒板の真上に掛かる時計を見ると、まだ時間に余裕があった。
窓側の僕の席には花が活けてある花瓶はなかった。
金髪は欠伸をしていた。目を擦って目が真っ赤になっている。不良の金髪にとってはテストは何よりもつまらないだろう。シンとしているから騒げないし、サボってもどうせ後でやらないといけないし、勉強をしていないから問題がわかるはずもなくカンニングしようと横を伺うけど担任の目が光る。解答用紙を覗いてみると殆ど間違っていた。
明日香もいた。廊下側の一番後ろの席だ。明日香もシャーペンを机に置いていた、解答用紙は隠れていて見えない。見直しをしているのだろう、問題用紙と解答用紙を何回も見比べている。指で問題文をなぞる、口を動かして問題を読んでいる。そして目を見開いて、シャーペンの横に置いていた消しゴムを取ろうとした。取ろうとしたら消しゴムは手からはなれて、床へと落ちていった。
するとそれを丁度見ていた担任が、明日香のもとへと歩いてきた。明日香は床に落ちた消しゴムを睨んでいる。担任は消しゴムを掴むと、机にそっと置いて歩いて行った。明日香は深呼吸をして、消しゴムを掴んで解答用紙に書かれていた文字を消した。そして口を動かしながら、そこに文字を書いた。ヨシと静かに呟いた。
金髪は担任に何かを言われていた。カンニングは駄目でしょ、そんなんしてねーよ、じゃあポケットに隠した紙を出しなさい、そんな紙ねーよそんなセコイことしねーよ。どうやら金髪は明日香が落とした消しゴムを担任が拾いにいっている間に、用意したカンニングペーパーでカンニングしようとしていたらしい。それが担任に見つかって急いでポケットに隠したみたいだ。まあいいでしょう再テストしてもらいますから、何で二回もテストしないといけないんだよ、不正をしたんですから当たり前です、だからそんな事してないってば。静かな教室にはそれがいつもよりうるさく聞こえる。
うるさいなと金髪のほうを見る生徒が何人かいた。すると担任は不自然な動作はカンニングになりますよ、テストに集中してくださいと言った。金髪のほうを見ていた生徒は慌ててテスト用紙と睨めっこした。
迷惑がかかることはやめてください、わかったよ悪かったよほらカンニングペーパー、これは預かっておきます、でもカンニングはしてないよその前に見つかったから。
その様子を僕は見ていなかった、金髪と席が近いから一番うるさいはずなのに。テストに集中しているのだ、問題用紙に入り込んで外からの音を遮断しているのだ。いつもこうなのだろうか僕は、自分ではわからない初めて知った。友達からは言われた事があったけどあまり気にしていなかった。
明日香は金髪を見ていた。そしてハッとして、テスト用紙と再び睨めっこした。口を動かして問題文を読む、指で問題文をなぞる、その動作に焦りがあった。解答用紙はまだ全部埋まってはいなかった。




