祖母は祈る
お線香の匂いは僕を不安にさせる。
僕はすでにいないのかもしれない、抜け殻はもう焼かれてしまったのかもしれない、僕は帰る場所を無くしてこの世界に留まっているのかもしれない。わかっていることをしつこく言われているような感じがする。
廊下に漂うこの匂い。これはどこから流れてきているんだろうか。
前にも後ろにも廊下が続く。前は祖母の部屋に祖父の部屋、後ろは客間に応接間だ。後ろはさっき調べた、客間は確認していないけどそんなところでお線香は炊かないだろう。ということは前だ。
祖母がいるはずだから祖母の部屋から流れてきている可能性が高い。
その部屋はもうすぐそこにある。よく見たらドアが少し開いていて、その隙間から廊下へと流れてきているようだ。
二匹は部屋の前で座った。僕を連れてきたかったのはここか?
祖母の部屋には仏壇がある。そこで僕のことを思っているのだろうか。そうだとしたら僕の写真もそこにあるのか。その写真は僕を偲ぶためのものなのか。それがあったとしたら決定的だ、写真があった瞬間に僕の目的は終わってしまう。
そうなったら僕は本当に、もうこの世に存在しないことになってしまう。そんなことは信じたくもない、信じたくはないけれどそれを受け入れる覚悟もしておかなければならない。
おかしくなりそうだ、悪いほうにばかりいくこの状況に。
ひょっとしてそうなのか、そうだったらどうしよう、今日は何回もそんな事を思った。だけどそれはこの不思議な世界に怖くなって、びっくりして、寂しくなって、ネガティブになってしまった弱い心のせいだ。しかし今回は、今回こそは弱い心のせいとか気のせいとかそんな事は言っていられない。
このドアの先には、祖母の部屋には、見たくはない現実があるかもしれない。
それでも目をそむいてはならないのは現実を見るしかないからだ。逃げられない、避けられない、進むしかない、今日はこればっかりでうんざりだいい加減疲れる。
別にわざわざこの先に行かなくてもいいのかもしれない。自分がどうなったのか、それを知って僕が魂となった原因を解明できるだろうか。それが良い結果だったら原因解明にもより力が入ってはかどるだろう。それがもし悪い結果だったのなら、その時はもう原因なんてどうでもよくなって解明する意味もなくなってしまう。
モチベーションというやつだ。
ここまでどうにか頑張ってこれたのはそれがあったからだ。不安でしかたなく、でも助けてくれる人はいなくて、泣きたいけれど逃げたいけれど歯を食いしばって前へと進んできた。それが僕から消え失せてしまったら、何一つ残らず外へと出てしまったら、僕は前へ進むことをやめてしまってその場所に立ち止まるだろう。もういいいよ僕は充分頑張った、頑張った結果がこれじゃあ何も報われないよ、そんな台詞が出てくるかもしれない。
その逆も考えたい。このドアの先には僕の写真はなくて、僕の抜け殻はこの世にちゃんと存在していて、悪い結果を考えていた自分がバカらしくなって笑う姿を。勿論こっちのほうが断然良いに決まっている。こっちだと僕はまた頑張れる、自分の無事がわかってホッとする。そして一体抜け殻の僕は何処に行ってしまったのかを知りたくなる。できればこの目で見ておきたい、もう少し待っていてくれと寂しがっている僕を励ましたい。
天秤はどちらに傾くのだろう。良いほうか悪いほうか。
手に力が入る。ぎゅっと力拳を作る。ドアと壁の間に空いた隙間を睨む。廊下に漂うこの匂いはやはり僕を不安にさせる。頭を左右に振って不安を振りほどく。これで少しは不安は解消されたか。
僕は祖母の部屋へと歩く。ドアにも壁にもぶつかることはなくすり抜けた。
煙くはないけれどお線香の匂いが充満していそうなほどに匂う。これはこんなにも匂っただろうか、僕が魂だからより匂うのだろうか。
そういえば聞いたことがある、線香は魂を呼ぶらしいということを。
だが必ずしもそうだとは限らない。花の香りや香水などさまざまな香りを持つ新しい線香も増えていて、部屋の臭い消しや芳香剤・ヒーリンググッズとしての使用法もある。だから一概にそうだとは言えない。単なる臭い消しに、ヒーリングに、お線香を焚いているだけかもしれない。
祖母はそこに座っていた。正座をしている、姿勢が良い。目を閉じて手のひらを合わせている。その前には仏壇があった。
僕はそこで祖母から、仏壇から目を放す。
そこに答えはある。そこに現実がある。そこにある物が僕の人生を決める。
天秤がどちらに傾くのかわからない。今は右へ左へと揺れていて落ち着きがない。この揺れがおさまった時はどちらかに傾くだろう。
その時は僕の運命も決まるのだろう。
祖母は目を閉じて手を合わせながら仏壇の前で正座している。僕はその姿を力強く握った手を少し震わせながら見ている。
部屋は静かで時計の音しか聞こえない。祖母はまるで息をしていないみたいに静かだ。僕は大きく息を吸っている。
もう気が狂ってしまいそうだ。さっさと見てしまったほうが楽になれるだろう、良い意味でも悪い意味でも。ここに来た目的は僕を捜すためだ、だったらそこに僕の写真が飾ってあるのか飾っていないのかを見るのもその目的には必要ははずだ。もう見よう、いつまでも見ないでおこうという選択肢だってあるけど。
考えれば考えるほど辛くなってしまう。余計なことを考え、無駄なことを考え、悪い方へと考えてしまう。それなら馬鹿みたいに考えてしまう前に見たらいいんだ。何も難しいことではない、ただそこに僕の写真が有るのか無いのかを確認するだけだ。
僕は顔を上げた。僕の目には祖母が映る、仏壇が映る、そして写真は。
「どうかあの子を助けてください、あの子は私の大切な孫なんです」
そこに僕の写真はなかった。どうやら最悪の自体は回避されているらしい。なら僕はどこにいるんだろう。仏壇には僕の写真ではなくモノクロの写真があって、そこには誰かが映っていた。白い歯を見せてにこりと笑っている。祖母の兄弟だろうか、親だろうか。
「孫は何も悪くないのです。ただ巻き込まれただけなんです」
えっおばあちゃん、今なんて? 巻き込まれたと言ったような気がする。僕の写真がなかったのがひとまず嬉しくてあまり聞いていなかった。
僕は何かに巻き込まれて魂となっているのか、それは一体どういうことなんだ。巻き込まれたとはどういう意味だ。自分で自分を殺すわけはない、そんなの痛いし怖いし父や母や皆を悲しませるだけだから。だからそれは絶対にないと思っていた。そうか巻き込まれたのか、だから僕はこの世を彷徨っていたのか。
「おばあちゃんが祈るから大丈夫。あなたは強い子よ、そして賢くて可愛くて気配りができて……。良いところは沢山あるんだから」
祖母の目から涙が溢れた。頬を伝っている。
「あなたが目を覚まさなくなってから、この家は光がなくなったみたいに暗いの。朝だって昼だって、天気がよくてもいくら明るくても。皆の心は真っ暗なの」
祖母は震えていた。その後ろ姿は小さかった。
「この声がもしあなたに届いているのなら、早くおばあちゃんのもとに、家族のもとに戻ってきてまた可愛い顔を見せてちょうだい。あなたの顔を見たら皆の心に光が射し込むと思うから」
祖母の表情は見ないでおこう。きっと涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
「いつまで出かけているのよ、もう門限はとっくに過ぎているわよ。お母さんに見つかったら鬼のような怖い顔で怒られるよ。でもそうなった時はおばあちゃんが助けるけどね」
僕の表情も見せないでおこう。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだから。




