姉の部屋、僕の部屋
顔を上げてもう一度姉の部屋を見る。
そこは明るくて、心があたたかくなりそうな場所に思えた。夏なのに寒い廊下、夏なのにあたたかそうな姉の部屋、それは何だか不気味なんだけど姉の部屋は優しく包まれそうな気がした。
姉は笑顔で凡人には言えないことをサラっと言ってしまう、それを聞いたら鼻につくと思われても仕方ないムカつくと思われても仕方ない。でもそれを姉はちゃんとわかっていて、ごめんなさいと僕に言った。もっと普通でいたいと言ったことがあった、もう期待されるのは疲れたと言ったこともあった。
それもやっぱり鼻につくのだろうか、そんな事言える人なんてやっぱり凡人ではないのだから。完璧な人は常に完璧を求められて、それはそれで辛いのかもしれない。
だからその反動がたまにある。両手に買い物袋をいっぱい提げて帰ってきたり、夜遅くまで友達と遊んでいたり、物を壊したり、自分を傷つけてしまったり。
そんな姉も見ているから姉も僕と同じなのだと思えた。だからより好きになった、僕の姉として姉弟として姉の弟して家族として。
そういえば僕は家族からあまりプレッシャーがなかった。姉が良い成績を残したから弟であるお前も頑張れ、そんな事を言われた記憶は全くない。しかし外ではそれはあった、近所の人や親戚やその他にも。でも家の中だと平等なんだ、姉も僕も同じなんだ。
僕は明るい姉の部屋へと手を伸ばした。
窓から入ってくる太陽の光が天へと通じる道のような気がして、ここから天へと行けるなら僕は何も思い残すことなく天へ導かれるだろうと思えてきた。大好きな姉の部屋でこの世界を彷徨う魂が解放されるならそれで良いかなと。
姉の姿が頭の中で次々映し出される。僕が生まれて嬉しがる姉、母が僕にばかり構うから頬を膨らませて涙を浮かべている姉、好物のプリンを僕のためにわけてくれた姉、幼稚園の前で僕と手を繋ぐ姉、僕がいじめられていたら助けてくれた姉、先に卒園するから大泣きしている姉、ランドセルを背負った僕を見て一緒に登校できて嬉しい姉、運動会で白組と紅組わかれてしまってどうしても僕と同じ白組になりたい姉、修学旅行で何日か僕に会えないことを寂しがる姉。これが走馬灯というやつなのかな、姉しか出てこないけれど。
そして優しい口調で笑顔で言ったあの日の姉。それを言えたのは僕だけなのかな、父と母にも言っているかもしれないけれどあのあと姉は泣いたから。僕の胸の中で泣いた、Tシャツは涙で濡れた、僕は何も言えなくてただ見ているだけしかできなかった。
あの時何か気の利いたこと言えば良かったのかな。でもなんて言えばいいんだ、何を言えば正しいんだ。ありとあらゆる言葉を考えたけど何も出てこなかった、何を言ったとしても姉を救うことができないのではないかと思ってしまった。頑張ったね、それで救えるなら何回でも言うけどこの問題はそんな単純ではない。
いくら家の中では姉も僕と同じだとしても、完璧というプレッシャーが重く伸し掛るのだ。
父も母も姉に完璧を求めていない。自由にやればいい、自分が好きなように、未来で役に立つならなんでもやりなさい、そういう親だ。
だからどう育てたらあなたの娘さんみたいになれるのと聞かれても困っている。別に家庭教師をつけたり、あれこれと親が選んだ習い事をしてるわけでも口うるさく勉強しなさいと言ったわけでもない。しかし回りはそうは思わない。きっと色んな習い事してるんだわ、寝る間も惜しんで勉強しているに違いない、きっと通ってる学校は何この学校レベル低くて話にならないわって馬鹿にしてるんでしょうね、あることない事言いたい放題言われる。
それに耐えて耐えて、耐え続けてきたらこそ今の姉がある。
僕は手を引いた。
姉の部屋は明るくて、あたたかそうで、優しく包み込んでくれそうだ。ここにいつまでもいたら姉に全部持っていかれそうだ。僕の姉として姉弟として姉の弟して家族として大好きで尊敬している、そしてこのままでは心までもが姉に――。
なんて怖い女性なんだ姉というのは、僕の姉がこんなに怖いとは思わなかった。こんな怖い姉がいたらそりゃ女性が苦手になってしまう。
僕は笑った。僕には姉がいるから、僕には誰よりも頼りになる姉がいるから、だからお姉ちゃん泣かないでね僕は側にちゃんといるんだからさ。
ドアノブに手を伸ばした、そして気づいて止めた。僕は何も触れることができなかったということを。でも今だけはこのドアノブに触れたい、このドアを閉めたい。ドアが開いていたら閉めるのが普通だから。
だから閉めたい。僕はドアノブに再度手を伸ばした。
またすり抜ける、すり抜けて姉の部屋へと手を入れてしまう。そうなったらあたたかな空気が僕を包むんでしまう。そうなったら僕はここで終わるのかもしれない。
手はすり抜けた、いやすり抜けずにドアノブに当たった。僕はびっくりして手をはなして後ずさる。
今触れたよね、すりっとすり抜けなかったよね、思わず誰かに今のことを確認したくなった。しかし横を向いても誰もいない。わかってはいたけれど横を向いたのだ。
何故今、姉の部屋のドアノブを触ることができたんだろう。その理由はわからないけれど、触れるんだったらさっさと閉めてしまおう。
僕はドアノブを掴んで、ドアを閉めた。
これでいい、これで先に進むことができる。僕は自分の部屋へと急いだ。
姉の部屋のせいで忘れそうになっていたけど、廊下は暗くて冷たい空気が漂っている。そうだここは、この場所は夏の暑さを忘れそうな空気が漂っていたんだ。
僕の部屋は姉の部屋の隣。そこには抜け殻となった僕がいて、魂となった僕を待っているはず。
足音が響く、僕だけの足音が静かに響く。
目的地まできた。ドアにはネームプレートなどないけれど、ここは僕の部屋に間違いない。
ノックをしてみたくなった。手を軽く握ってコンコンと、反応がない場合はもう少し強くコンコンと、それでも反応がなければ誰かいますかと言いながらコンコンと。しかし操縦者がいない僕の体はノックをしても反応しないだろう。どうぞとか、はいとか何も声は出ないだろう。
僕が操縦しなければならない、コックピットで僕の足を動かしたり手を動かしたり目を動かしたり鼻を動かしたり。そしてまたいつも通りの生活へと戻らなくては。
姉に会ったら心配かけたことを謝ろう、父と母には親不孝ものでスミマセンと謝ろう、祖父と祖母にも謝ろう。ペットの犬と猫には遊んであげよう。近所の人には元気になった姿を見せよう。学校では先生に、クラスメイトに、後輩に。
このドアの先には僕がいる。僕を待っている僕がいる。
その時窓から太陽の光が差し込んできた。暗くて冷たい空気を漂わせていた廊下が明るくなって、廊下には光の道ができた。
何故急に明るくなったのか、それはこのドアの先にいる僕にさっさと戻りなさいという天からのお告げなのか。だから廊下を明るくする演出をしたのか。
この魂が体に戻るにはどうするのだろう。待っていたら自然と戻るものなのか、それとも双子の兄弟によるお笑いコンビのギャグみたいに上に乗って横にならないとダメなのか。
ドアノブに手を伸ばす。
手はすり抜けた、すり抜けずにドアノブに当たることはなかった。僕はびっくりして手をはなした、つい今さっきは触れたじゃないかそれなのにもう触れないのは何で。
何故さっき、姉の部屋のドアノブは触ることができたんだろう。その理由はわからないけれど、触れないんだったらさっさとすり抜けたほうが良さそうだ。考えても答えは出そうにないから。
僕はドアに向かって歩く。当たることはない、当たってイタタと痛がることもない、手も足も全身すり抜けて自分の部屋へと入った。
ブラインドが閉められていて少し暗い。部屋は片付いていて、この部屋のいつもの状態だった。どこもおかしくはない。
ただベッドの上には誰もいなかった。シーツは汚れもシワもなく綺麗だ。
僕はここにはいないようだ。抜け殻の僕はいない、僕は僕に会えなかった。じゃあ僕はどこに? 僕はどこに連れて行かれた?




