家
僕はこの世を彷徨う魂だ。
どこかにこの魂を無くした僕がいるはずだ、体だけになった僕が。だから魂を無くした僕が起きるわけがない、どんなに声をかけようが手を握ろうが願おうが。
再び僕の体へとこの魂が戻れたなら戻りたい、そうしたら抜け殻の体に魂が宿って命が宿る。目を開けて、手足を動かして、僕の方を見ている家族と目を合わせられる。
その時は皆どんな表情をするのだろうか。笑っているのか泣いているのか、僕が戻ってきて喜んでいるのか驚いているのか。目を開けたら、少なくとも悲しむことはなくなるだろう。
最初の一言は何だ、貴方はこういう状況でそうなっていたのよという説明はあるのか、暗い雰囲気だったけれど起きた事で明るくなるのか、どれぐらい目を覚まさなかったのか、後遺症等はないのか、色々考えてしまう。
その角を曲がれば僕の家がある。
しかし心臓のあたりがドキドキしていて痛い。この目で全てを見て、それが例えどんな結果でも受け入れる覚悟だ。だからこそ余計痛くなるのかな。
期待して期待ハズレだったらと思うと期待ばかりできない。どちらの結果でもいいように準備をしておかないといけない。
そりゃ期待通りの方がいい、そっちのほうが簡単だから。でも人生そんなに簡単だとは思えない。今がそうだから、簡単な人生なら僕はこういう状況にいない。
難しいからこそ人は悩み苦しみ藻掻くのだと思う。初めての場所でそこに馴染めるか悩む、環境が変わってなかなか慣れなくて悩む、立ちふさがる難題を乗り越えるために藻掻く。そうやって生きていく、今日のために明日のために未来のために自分のために。
今の僕に今日があるのか、明日があるのか、未来があるのか。それを考えると悩んで苦しんで藻掻くことは無意味な気がする。だって今日も明日も未来も無いかもしれないから。
それでも僕は今という時間がある。今は今しかない、今は直ぐに終わってあっという間に過去になる。
昨日はまだあんな事になるなんて思ってもいなかった、数時間前はまだ大丈夫だと思っていた、数分前はまだ確かにそこにいた、数秒前はまだ輝く笑顔がそこにあった。
そんな後悔はしたくない。
僕は息を吸った。大きく、大きく。そしてゆっくりとはいた。僕の息は空中に混ざっただろう。
胸のあたりをそっと触る。ドキドキしていて、やっぱり痛くって、緊張しているのかなとまた息を吸う。
その角から誰かが曲がってきた。体がビクッとなる。
曲がってくるとは思っていなかったから、今この時間は僕だけの時間で他は時が止まったと思っていたから。でもそんなことはなくて、時なんて止まっていない。
蝉のミンミンという鳴き声が聞こえる、救急車かパトカーのサイレンも聞こえる、この商品は奥様にとってとても大切なモノになるはずですという女性の声が聞こえる、今日も暑いよなでもこれからあの店のかき氷食べに行くんでしょという男女の声が聞こえる。
今のこの時間は僕だけの時間ではない、時は止まることなく動き続けている。
なんだか現実に戻された感じがした。さっきまでは音が聞こえなかったから。集中したら何も聞こえなくなるのと似ていた。
角から曲がってきたのは女性で、二十代か三十代だろうか。真っ白な日傘を差していて太陽の光から体を守っている。
女性は僕の真横を通りすぎ、足音はだんだん遠くなっていった。
時間は止まってくれないし待ってもくれない。今この瞬間も動いている。僕は角を見た、その先にあるのは僕の家だ。
ドキドキしなくてもいい、緊張もしなくていい、普通にいつもどおり家に帰るようにしておけばいい。そしてただいまと言えばいい、返事がなかったら誰もいないし返事があったらそれでいい。
恐れなくていい、まだ僕はここにいるのだから。消えてしまうその時まで悩めばいい、苦しめばいい、藻掻けばいい。
僕の足が一歩、また一歩と歩を進める。
いつもは簡単に曲がれる角を、難しくてなかなか曲がれなかった。でも簡単に曲がれた。
曲がった先には青色の屋根があった。この家が僕の家だ、この家に僕の大切な家族がいる。
歩く、ドキドキさせながら歩く。
そして家の前まで来た。三階建ての一軒家だ、見える範囲では電気は消えているようだ誰もいないのだろうか。
門の横には表札があった。しかしモザイクがかかっている。名前がわからない、それは何だか物凄くモヤモヤする。自分がなんていう名前なのか、それがわからないことにこんなにモヤモヤするなんて思わなかった。苗字ぐらいはわかると思っていた。
今更だけど何故モザイクがかかる。僕の名前に何かあるのか、知られてはいけない何かが。だから隠しているのか、そう考えると納得できるような。
いつかは思い出すだろうと思っていた、自分の名前なのだから十年とちょっと僕と共に年をとった名前なのだから。でも未だに思い出せない、名前以外は思い出せることがあるのに。
やはり僕の名前は重要だ、今更だけど。それがわかったら何故隠したのかわかるかもしれない、僕の名前を隠した人が誰なのかわかるかもしれない。
僕は名前を気にしつつも、門をすり抜けてドアの前まで歩いた。門からドアまでは石畳の道になっている。僕は門のほうへと目を向けた。別に良い景色でもなんでもなくて、向かいの家が見えて上を見上げると空が見えて。左を向いたら花に囲まれた庭があって、庭の奥には小さなログハウスが建っていてそこはサウナで父が冬になるとよく使う。右を向いたら駐車場で、そこには外車一台と国産車二台の計三台停めてある。駐車場というかガレージで、普段はシャッターを閉めてあるから三台とも外からは見れない。
車の免許を持っているのは父、母、祖父、祖母の四人だ。僕と姉はまだその年齢ではない。
父は通勤に車を使っている、国産車に乗って会社へと向かう。母は車通勤をあまりしない、朝は混みやすいし仕事が不定期だからだ。母の仕事はデザイナーだ。その世界では有名らしく母がデザインした商品をお店でよく見かける。このデザイン母がやったんだよと自慢したくなるけどわざわざそんな事は言わない。
外車は祖父がよく使っている。何故外車なのか、それはこれもまた彼の一つの趣味だからだ。たまたまお昼を食べに入った喫茶店で仲良くなった人が外車好きで、そこから興味が出てきたみたいだ。ある日の夕食後、皆食べ終わってそれぞれが有意義な時間を楽しもうとした時祖父が突然言い出した、今からちょっとドライブ行こうか車買ったし。皆驚いて、ガレージへと走って、国産車二台の横には誰もが知っている有名なマークが付いた外車がそこにはあった。
そんなわけでうちには三台車がある。この前もう一台買おうかなと言い出して、父は笑っていたけど母はどこに置くんですかと呆れていた。
僕は左を向いて庭を見た。綺麗な花が沢山咲いている。母が毎日手入れをしているからどの花も綺麗なのだろう。この花が母のデザインに活かされているのだろうか。だから花を育てているのだろうか。
僕はドアへと目を向ける。
すり抜けるから鍵はいらないんだけどポケットに手を突っ込んで鍵を取る仕草をしてしまう。しかしポケットには鍵はない。僕はだいたい鞄に鍵を入れる。外ポケットだ。
しかし鞄がない。どうやら学校に置いてきてしまったようだ。どこに置いたのか覚えていないけれど、きっと教室にあるだろう。こうやってここに飛び出してくる前に自分の席に置いたような気がする、あの時は鞄があると邪魔だったから置いたような。
その時家の中からぱりんという音が鳴った。お皿が割れた音だろうか、僕はドアに向かって歩いて行ってすり抜けた。




