三年四組
笑い声が響くこの教室は、僕のクラスだ。
ドアに赤色のペンで落書きがある。何かの数式と、歴史上の人物の名前と、化学式が書かれていた。これは勿論カンニングになる、だからテスト前には必ず消さなくてはいけない。しかしもしかしたら見つからないかもしれないという理由で毎回ここに書かれている。
黒板の横にはお知らせの紙や、クラスの決まりごとなどが、コルクボードに貼ってある。そのまま壁に貼るのはお洒落じゃないと誰かが言って、ホワイトボードは微妙だからコルクボードになった。貼る紙はどのクラスもだいたい同じだけれど、他のクラスよりお洒落に見えてカッコイイ。
しかしコルクボードに紙がいっぱいで貼れなくなったものは、他のクラスと同じように壁に貼る。
黒板には大きな文字で、昼休みだぜ! と書かれてあった。毎回運動部の男子生徒がこれを書いている。昼休みが始まってすぐに昼食より先に書く。だから四時間目の授業でノートを書くのが遅かったら全部書けなくなってしまう。その場合は昼休みだぜと書いたヤツが親切にノートを見せてくれる、しかし文字が汚くて何が書いてあるのかわからない。
教室には何人かのクラスメイトがお昼を食べながら喋っていた。机を寄せて食べるグループ、机はそのままで椅子を動かして食べるグループ、机も椅子も動かさずに食べるヤツも。
僕の机はどこだっただろう、全く思い出せない。
しかし僕の机はすぐにわかる、コルクボードに座席表が貼ってあるから。
僕は座席表を見た。右上のドアに近い机から順番に見ていく。
廊下側は遅刻をした時なんかはすぐに座れるから良いねと友達が言っていた。だから僕はその前にドア開けなきゃいけないしそれでバレるよと言ったら、そこまで考えていなかったとガックリしていた。
廊下側には僕の名前はなかった。僕の名前はモザイクで見えない、この列にはそれはなかった。
その隣りの列を上から順番に見ていく。ない、ない、次もない、一番後ろも。
その隣りの列に目がうつる。この列は教卓の前の列で、ちょうど真ん中の列だ。一番最悪なのは最前列、教卓の目の前。ここに友達の名前があった。うわ最悪だ寝れないサボれないという声が聞こえてきそうで可笑しい。
友達の後ろを見ていく。ない、ない、ない、一番後ろもない。この列でも僕の名前はなかった。
この列の一番後ろは大好きだ。教室がよく見えて、黒板の文字も先生の表情も皆の顔も近くなったような気がするから。
横の列を見たけれどここにも名前はなかった、これで最後は窓側の列だけになった。
窓側は暑かったり寒かったり、季節によって善し悪しが変わる。この今の季節に窓際は地獄だ、容赦なく照りかかる太陽の光は日焼け対策をしなければあっという間に真っ黒だ。女子はこの列嫌だろうけど、一列男女三人ずつ交互に座るから三人は太陽の光と戦わなければならない。
そんな夏には地獄の窓際を上から見ていく。ない、ない、次もない、その次も、ない、最後にモザイクが目に飛び込んできた。
僕の名前は相変わらずわからないけど、そこにはモザイクがあった。座席表の一番隅にモザイクがあった。
僕の席は窓際の一番後ろ。
振り向いて教室の隅へと視線を送る。するとそこには花があった、花瓶に生けてある花だ。
「えっ?」
思わず声を出した。その声はお昼を食べながら大笑いしている女子にかき消されたような気がした。
笑い声が響くなか、僕は僕の席へと歩を進める。花を見ながら進む。
教卓の前を通る、お昼を食べ終えたのか二人とすれ違う、窓から眩しい光が差し込んできた。
カーテンはしてある、しかし外からの風で動くことはない。冷房のほうが涼しいからだ。
窓際を歩く、僕の席が近づいてくる、花がさっきより大きく見える。
足を止めた。僕の席にはやはり花があった、生けてあった。
花の種類はなんなのかさっぱりわからない、しかし今はそんなのどうでもいい、何故僕の席には花があるのかそれが気になる。
花はいろいろ利用できる。鑑賞するため、摘み集めて装飾とする、束ねて花束にしたり組み合わせて輪にして花輪にしたり。冠婚葬祭にも使われたりする。
机の引き出しを見ようとしゃがむ。しかし引き出しには何もない、教科書もノートもお弁当も何も入っていない、空っぽだ。
僕は再び花を見た。この花はひょっとして、そういう意味なのか。
「嘘だ」
そんなことあってたまるか、考えたくはないそんなことは。
「嘘だ嘘だ」
そうだこんなの嘘だよ、この世界は不思議なことばかり起こる、だからきっと悪い夢でも見ているんだ。
「嘘だ嘘だ嘘だ」
夢だとしたら早く起きてくれ、もうこんな夢は見たくない、目を覚まして現実をちゃんと見たい。
僕は言葉にならない言葉を叫んだ、この時だけは笑い声をかき消しただろうけど僕の声は皆には聞こえない。僕の叫び声は僕だけに聞こえて、そして僕を苦しめる。
叫んでも叫んでもそこに花がある、夢ならさっさと消えてほしい、でも消えてくれない。
ここに何かあるとは思っていた、しかしこんな事が待っていたなんて予想できなかった。
これでまた追い詰められたら僕はもう……そう思うと強気になるしかなかった。
暫く叫んで、僕はまた花を見た。
これは現実なのだろうか、それとも夢なのだろうか、しかしそこには花があって僕はこれを受け入れるしかなかった。
中途半端は嫌なんだ、それだけはしたくないんだ、この現状が怖くてしょうがないけどリタイアだけは駄目だ。
僕は走って教室を出た。そのときさっきから笑ている女子をすり抜けた。
廊下に出た、教室にいるよりはマシだと思えた。
とりあえず目的は果たした、僕に何があったのか少しわかった。しかしそうなった経緯はわからない。
次の目的はそれになるだろう、おそらく僕は……あの花はそういうことだっていう意味だろうから。
僕がこうなってしまって家族は悲しんでいるだろう、家族の顔を見たくなってきた。友達は悲しんだだろうか、僕の机に置いていた花を見て悲しむだろうか。
廊下の窓が少し空いていて、優しい風が入ってきた。床に落ちていたプリントが宙に舞った。
僕は窓に寄って、空を見上げた。
青くて綺麗で、その青の中には白い雲が様々な形となって幾つも流れている。あの雲は動物に見える、あっちは食べ物に見える、こっちは――。
「マジあれやばいって、見たほうがいいよ」
「そんなにヤバイものなのかあれは」
「そりゃそうだよ。だってアレだぞ、アレはとにかくヤバイよ」
「じゃあ見てみるよ」
あっちとこっちでは世界が違う、僕は皆の近くにいるけれど遠くにいるような感覚になる。僕はもう皆とは違うんだ、だって僕はもう。
「この前告ったらしいよ、ラインで呼び出して」
「えっ誰が? 誰を?」
「3組のあの子が2組のバスケ部エースに」
「えっそれ本当なの! ちょっとどうなったか早く聞かせて」
僕は一人ぼっちになったみたいで皆の声が聞こえてくるのが寂しくて、辛くて、でも懐かしくも思えてきて。だけどあんまり聞きたくはなくって。
空から目線を下げた。向かい側に建つ一年生の教室がある校舎を見た。
屋上に誰かがいる。フェンス越しにこっちを見ている気がする。
あれは、屋上にいるのは、明日香だ。
僕が唯一見える存在だ。頼りになるのは明日香しかいない、だから僕はちゃんと話さなければならない。僕のことをちゃんと話そう。
体が動いた、しかし目は屋上にいる明日香を見ている。
でも急いであの場所に行きたくて前を向いた。教室や同級生が後ろへと流れていく。僕は走っていた。
何もかもすり抜ける手や体、誰にも聞こえない声、皆から僕という存在が認識されない、僕の机にあった花――――僕はもう、僕はもう……。