第8話:泥を這うレッスンの始まり
翌朝、街外れの空き地。
そこには、朝露に濡れた草を踏みしめる三人の姿があった。
一人、激痛の走る腰をさすりながら、
安酒の混じったあくびを噛み殺す中年男・ゼノス。
一人、不安げに自らの指をもじもじと弄び、
小刻みに震える少女・ルルノア。
そしてもう一人、一分の隙もない姿勢で
直立不動を貫く女騎士・カルティアだ。
「――よろしいですか、ゼノス殿。
私はあくまで『ギルド騎士』としての任務を遂行するまでです」
カルティアが、
朝の静寂を切り裂くような鋭い声で釘を刺した。
昨夜の取り乱しぶりが嘘のような、
凛とした横顔である。
「ギルドマスターからも、
ルルノアの護衛を兼ねた『特例訓練』として許可を得ました。
ゆえに、不敬な、あるいは騎士道に反する行いは慎んでいただきたい」
「ああ、分かっている。騎士道、結構じゃないか。
規律、献身、自己研鑽……どれも素晴らしい『素材』だ」
ゼノスは、道端の流木を杖代わりに突き、不敵に笑った。
その瞳は、彼女を騎士としてではなく、
磨き甲斐のある「表現のパーツ」として品定めしている。
(……規律、か。クソ忌々しい響きだ。
その言葉を聞くたびに、正論だけで俺をハメやがったあの野郎――
ゼオのツラが脳裏をよぎりやがる)
ゼノスは心の中で苦い毒を吐いた。
カルティアが「規律」という言葉で自分を縛り、
心を固く閉ざしている様が、
かつての宿敵が作り上げた冷徹な秩序を思い出させて、
無性に腹が立つのだ。
「いいか、カルティア。俺のレッスンで教えるのは、
ただの行儀作法じゃない。
……『アイドルの哲学』だ」
「アイドルの……哲学?」
ルルノアが、首を傾げる。
ゼノスは流木で地面を強く叩いた。
「そうだ。歌うことは、単なる発声練習じゃねえ。
……自分の心に一ミリの嘘もつかず、
世界の理と真っ向からぶつかり合う。
その『剥き出しの自己肯定』を、俺はアイドルと呼ぶ」
ゼノスの視線が、カルティアを射抜く。
「カルティア。お前の強さは『型』だ。
規律を重んじるあまり、
自分の魂までその鎧の中に閉じ込めている」
「……っ。だが、私は騎士だ。感情を律してこその盾……」
「――なら、その『盾』の強度はどうやって決まる?
昨夜、お前の魔力出力が20倍に跳ね上がったのは、
教本通りに動いたからか?」
「……えっ!? 20倍……ですか?」
ルルノアが目を丸くする。
「違う。お前がルルノアを一年前から見守ってきた、その『執念』がリミッターを壊したんだ。
その鎧を脱げ。音と同期し、心臓の鼓動をステップに変えろ」
「アイドルとしての積み重ねは、騎士の修練と同じだ。
一日、一秒。自分を律して肉体を練り上げ、一瞬のステージのために全てを捧げる。
その点において、お前は……誰よりもアイドル(の守護者)に向いている」
「……私が、向いているだと……?」
「ああ。だが、お前にはまだ覚悟が足りん。
自分を律するのは得意だろうが、自分を『解放』する術を知らん」
「まずは基礎だ。ルルノア、カルティア。空き地を二十周。
その後、歌いながら腹筋百回。一音でもブレたら最初からだ」
「えええええええっ!? 二十周に、腹筋百回!?」
「くっ……ふざけるな、そんな訓練が何の役に――」
「――ルルノアの歌を、世界でいちばん美しく響かせるための、揺るぎない土台作りだ。
お前、ルルノアが泥にまみれて特訓するのを、横で黙って見てるつもりか?」
「……っ!!」
カルティアの眉間が跳ねた。
「……言われずとも分かっている!
ルルノアがやるなら、私もやる!
それが……彼女を『一年前から推してきた』者の矜持だ!」
キリッとした騎士の顔のまま、叫ぶ内容は完全にトップオタのそれである。
こうして、過酷なレッスンの火蓋が切られた。
――一時間後。
ルルノアは地面に突っ伏し、荒い息を吐いていた。
「はぁ、はぁ……っ、……もう、お腹が……千切れそうですぅ……」
「情けないぞ、ルルノア……。っ、これ、くらい……
騎士の、訓練に、比べれば……っ! はぁ……はぁ……!」
カルティアもまた、額に大量の汗を浮かべ、
震える足でかろうじて立っていた。
彼女の洗練された銀髪は乱れ、気高い表情は苦悶に歪んでいる。
だが、その瞳には驚きが宿っていた。
(……これは、騎士の特訓と同じ、あるいはそれ以上の密度……。
ただの『遊び』だと思っていたが、ゼノス殿の言う通りだ)
(一音の狂いも許されない集中力と、強靭な体躯を求められる……!
ルルノア……君は、こんなにも過酷な世界へ足を踏み出そうとしているのか……!)
「……甘いな。カルティア、お前の動きはまだ『騎士の拍子』だ。
守るための動きであって、魅せるための動きじゃねえ」
「もっとこう、運命の喉元を掴み取るような、
必死で、かつエレガントなリズムが必要なんだよ」
ゼノスは、かつて魔界で夢見た『方程式』を頭の中で描く。
「休憩は終わりだ。次は、呼吸を合わせてステップを踏む。
カルティア、お前はルルノアの影になれ。
彼女が右へ行くなら、お前は左で彼女の光を受け止めるんだ」
「お前という『盾』があって初めて、センターは安心して光を放てる」
「……ルルノアの、盾……」
カルティアはその言葉を噛み締め、震える足に力を込めた。
騎士としての誇りが、アイドルの守護騎士としての矜持へと塗り替えられていく。
泥にまみれ、汗にまみれる少女と騎士。
おじさんの身体で立ち続けるゼノスもまた、
意識が飛びそうなほどの貧血と腰痛に耐えていた。
だが、その視線の先には、確かに見え始めていた。
月光と盾が、一つの物語として結実する、
その最高の瞬間が。




