第41章:北の咆哮、神速の「最前列」
東の境界でベヒーモスが轟沈したその報は、
瞬時に全軍へ行き渡った。
だが、その勝利に浸る余裕など、
北の境界を目指す別働隊には一秒たりとも存在しなかった。
ただ一人を除いて。
北の境界――
そこは、
吸い込む空気さえもが肺を凍てつかせる死の氷原。
その中心に、それは鎮座していた。
始祖級ケルベロス『冥府の三連首』。
山のような巨躯は氷原に根ざし、動くことはない。
しかし、その三つの巨大な頭部から伸びる首は、
筋肉の塊のような蛇のごとくうねり、
侵入した者を音速の噛み付きで塵に変える。
「……あはは、すごいね。空気が全部、
凍りついちゃってるよ」
吹き荒れる吹雪の中、たった一人、
巨獣の支配領域へと足を踏み出す影があった。
『神速』のアイル。
彼女は、寒さに震えるどころか、
その頬を興奮で上気させていた。
「……聞こえる。もうすぐおじさんが届けてくれる、ルルノアの声。……今までで一番、近くに感じるよ。
ねえ、ルルノア。
君の歌を聴いてると、僕の心臓、
壊れちゃいそうなくらい熱いんだ」
「アイル様。ルルノア様が到着されるまで、拠点でお休みなっていてください。」
北方の軍の兵士がアイルに声をかける。
後方の拠点からは、
クローディアが調整した最高精度の「指向性スピーカー」が、
アイル一人に向けてセッティングされていた。
アイルはエルンストの作戦会議を思い返す。
「バフを受けた兵士は十三英団といえど、
むしろ十三英団ほどの力での限界を超えた反動により、
しばらくは動けなくなることがわかっています。」
「ただ、始祖を倒すごとに魔界も次の手を打ってくる。
その前に始祖を並行して攻略する必要があります。
そのため、今回の作戦は、ルルノアと総合演出のゼノス、技術統括クローディアが、各戦場を後方支援で回っていく。
そして、各主戦力の兵士は、そのバフで一体ずつ落としていくのです。」
――少しだけ、場面は未来へと飛んでいく。
「……きた。」
ルルノアの歌声がアイルの耳に届いた瞬間、
彼女の瞳が黄金色に爆ぜる。
「……っ!?」
氷原の静寂を切り裂き、
ケルベロスの左の首が動いた。
巨体からは想像もできない、
文字通りの「音速」。
巨大な牙。
アイルを肉片に変えようと迫る。
本来なら、十三英団が数人がかりで対処すべき絶望の一撃。
だが、アイルは動かない。
否――動く必要さえなかった。
「……遅いよ」
パキィィィィィィン!!
衝撃音が響いた時には、すでに勝負はついていた。
アイルは一歩も引かず、
ただ『月虹』を抜き放ち、
振るったのみ。
音速を超えて襲いかかった巨獣の牙が、
その根本から綺麗な断面を見せて宙を舞った。
「……今のルルノアの歌は、
僕にとって『時間の進み方』そのものを変えるタクトだ。
みんなには一秒でも、僕には一分に感じる。
……ルルノアが歌ってる間、僕は誰にも負けない。
世界で一番、彼女を愛してる僕が、
一番強くなきゃいけないんだ!」
ガァァァァァァァァ!!
欠損した首を即座に再生させ、
三つの頭が同時に咆哮する。
ベヒーモスが「防御」の絶望なら、
このケルベロスは「暴力」の絶望。
三つの首がそれぞれ異なる周期で、
音速を超える噛み付きを繰り出し、
全方位からアイルを圧殺しようとする。
「あはははは! もっと、もっとおいでよ!
ルルノアの歌が、もっと激しくなっていく!
僕の心臓が、歌に合わせて跳ねてるんだ!!」
アイルの姿が、氷原から消えた。
それはもはや移動ではない。
ルルノアのハイテンポな新曲に合わせ、
アイルという「光」がケルベロスの周囲を乱舞する『演武』だった。
ザシュッ、ザシュッ、ザシュッ!!
三つの首がアイルを捉えようとするたび、
逆にその鼻先や肉が刻まれていく。
たった一人。
数万の軍勢で挑むべき始祖級に対し、
アイルは「推しへの愛」という名の狂気的な魔力ブーストだけで、
環境そのものを支配し返していた。
「あり得ないって?
でも、当然だよ。
僕はルルノアの『一番のファン』なんだから。
……神様が彼女を傷つけようとしたって、
僕がその手を切り落としてあげる」
ケルベロスの足元から、
冥府の炎が噴き出し、
周囲の空間が歪む。
始祖級としての真の力が解放されようとしていた。
アイルは月虹を構え直し、
恍惚とした表情で空を見上げた。
「……聞こえてる。いいサビだね、ルルノア。
……さあ、ここからが本当の『ライブ(殺し合い)』だよ」
氷原が爆ぜ、黄金の閃光と黒い獣が激突する――。
――その光景を、
たったいま、到着した魔導馬車の中で、
ゼノスは魔導映像を通して見ていた。
「アイルのやつ。『ハマってやがる』。
――完全に『沼』に浸かったってところか。」
時はもどる。
東の境界『ベヒーモス』を倒した一行は
次の戦場へ移動していた。
「……北はアイルが待機している。
あとは、南と西だ。
……あの『腐り落ちた鳥』と、
とぐろを巻いた『迷宮』。
……こっちは東みたいに力業じゃいかねえ。」
南の境界――。
そこには、呼吸するだけで肺が焼け落ちるような、
黒い毒煙が満ちた「死の平原」が広がっていた。




