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第18話:鉄錆の関門、名もなき観客たちの日常




藍色の霧が地平線を侵食し始める中、

鉄錆の関門には「死」を前にした独特の静寂と、

それに抗うような微かな生活音が混じり合っていた。


ここは王国の北の端。


華やかな王都の騎士道物語とは無縁の、

泥と錆と、諦念が支配する場所だ。


だが、その停滞した空気を、

たった一人の少女の存在が、

劇的に変えようとしていた。


「……お嬢ちゃん。これ、食いな。

冷めちまうと、この関門の鉄と同じくらい硬くなるよ」


ルルノアに声をかけたのは、

後方支援の炊き出しを担当する女性、マーサだった。


差し出されたのは、少し形がいびつな黒パンと、

刻んだ野菜が踊る温かいスープ。

ルルノアは土嚢の上に腰を下ろしたまま、

それを受け取った。



「ありがとう、マーサさん。……いい匂い」


「礼なんていいよ。

……さっきの歌、驚いたね。

あたしゃ、この関門に十五年いるけど、

あんなに空気が震えるのを聴いたのは初めてだよ。

おかげで、うちのドラ息子を思い出しちまった」


マーサはエプロンで無造作に手を拭きながら、

遠く南の空を、慈しむような目で見つめた。


彼女には、王都近くの田舎に預けている息子がいる。

夫を戦争で亡くし、女手一つで育てるために、

最も危険で最も給金の高い

この関門での炊き出しを志願したのだという。


「あの子、歌が下手でね。

でも、あんたみたいに元気に叫べる男になってほしい。

……生きて、あの子に新しい靴を買ってやるんだ。

それが今のあたしの『戦い』だよ」


マーサが去った後、

今度は一人の若い志願兵が、

ルルノアの元へ歩み寄ってきた。


ロキという名のその少年は、

まだ十六歳。

自分より大きな槍を持て余し、

頬にはあどけなさが残っている。


彼は、首から下げた安物の真鍮のペンダントを、

祈るように握りしめていた。


「ルルノアさん。

……俺、本当は怖くて、

昨日の夜も眠れなかったんです。

でも、さっきの歌を聴いたら、

なんだか……体が勝手に熱くなって。

震えが、止まったんです」


「ロキ君……」


「これ、故郷にいる幼馴染にもらったんです。

『必ず帰ってきて、教会で結婚しよう』って。

……笑っちゃいますよね、こんな時に。

でも、今は不思議と、

彼女の顔を思い出しても泣かずにいられる。

……俺、戦えます。

ルルノアさんの歌が、聴こえている間なら」


ロキは照れくさそうに笑い、

自分の持ち場へと戻っていった。


その背中を見つめるルルノアの隣に、

いつの間にか、黒いロングコートを羽織った男

――ゼノスが立っていた。


「(……『ファン』の人数ただの数字じゃねえ。

こいつらは、ルルノアの熱狂を買い支える『顧客』だ。

一人たりとも、タダで死なせるわけにはいかねえんだよ)」


ゼノスは、読み飽きた地方紙を懐にねじ込み、

周囲を見渡した。


兵舎の片隅では、

何年も連れ添ったという老兵の夫婦が、

互いの甲冑の綻びを直し合っている。


別の場所では、

片脚を失った退役間近の兵士が、

ルルノアの立ち振る舞いを見真似て、

不器用な手拍子の練習をしていた。


そこにあるのは、英雄たちの壮大な叙事詩ではない。


どこにでもある、不格好で、泥臭い「生」の連なりだ。


「……ゼノス殿。瘴気が、一段と濃くなってきました」


カルティアが、銀の盾を静かに鳴らして現れた。


その視線は、

関門の北側に広がる切り立った山脈を射抜いている。

山脈の裂け目から、

太陽を拒絶するような黒い煙が、

じわじわと這い出し始めていた。

 

ゼノスはバルカスとアステリアが

激論を交わしている司令部へと向かった。


机の上には、使い込まれた地図と、

各所の防衛戦力が記されたメモが散乱している。


「バルカス。貴方の隊の若い衆が、

持ち場を離れてルルノアに群がっています。

規律が緩んでいるのではないですか?」


アステリアが、

その長身で威圧するようにバルカスを睨みつける。

彼女の黒い長髪が、冷たい夜風に揺れた。


その潔癖な瞳には、

ルルノアの「歌」という不確定要素が、

戦場の規律を乱す毒に映っているようだった。


(カルティアが所属していた組織なだけはあるな。規律が大好物か。)


「規律で腹は膨れねえよ、アステリア。

……見てみろ。あの震えていたガキどもの目が、

今は据わってやがる。お嬢ちゃんの歌が、

あいつらに『帰る場所』を思い出させたんだ」


バルカスは酒の残った息を吐き、

豪快に笑った。

彼は兵たちに誰よりも厳しかったが、

それは、死者を出したくないという

不器用な愛情の裏返しであることを、

ここにいる兵たちは皆知っている。


いずれは「十三英団」という、

王国最強の十三の騎士に与することにを目指す

若き戦士たちも、

今はまだ、

一人の少女の歌に縋らなければ立っていられない、

未熟な「観客」に過ぎなかった。


「……ゼノス殿。準備を。来ます。」


カルティアが低く呟いた。


その瞬間、関門全体を揺らすような、

腹の底に響く地鳴りが沸き起こった。


ズゥゥゥン……。ズゥゥゥン……。ズゥゥゥン……。


それは巨大な獣の足音ではない。


何万という「死者」が、

一糸乱れぬ絶望的な歩調で、

鉄の盾を叩き鳴らす音だ。

 

北の山脈を飲み込む霧の奥から、

数え切れないほどの赤い瞳が、

蠢きながら関門へと殺到する。


マーサが炊き出しの手を止め、

ロキがペンダントを強く握りしめた。


兵たちの顔から、再び血の気が失われていく。


「ルルノア。……怖いか?」


ゼノスが、震えるルルノアの細い肩に手を置いた。


ルルノアは、真っ白になった指先をぎゅっと握りしめ、

前を見据えた。

 

小さな村で聴いた小鳥の歌。


母が息子に買ってやりたい靴。


青年が幼馴染と交わした、教会の約束。

 

それらすべてを、


「効率」という名の下に踏みにじろうとする軍勢が、


目の前にいる。


「……怖いです。

……でも、歌います。

私、あの子たちが待ってる場所に、

みんなを帰してあげたいから」



ルルノアの瞳に、青白い炎が宿った。


それはアイドルの自覚であり、

一人の人間としての、運命への反逆だった。


「よし。……営業ライブの、時間だ」


地平線の彼方から、

太陽を食いつぶす霧が、関門の第一防壁に接触した。

鉄錆の関門に、史上最悪の、そして最高に熱い「夜」が訪れようとしていた。

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