幻の願い
空は曇っていて、昼だというのに暗い。道端の草からは緑の匂いがする。
雨の気配がまだ残っているこの街を、ゼノはゆっくりと歩く。
(……この辺りか。)
ゼノは探知を切った。
伸びた草に囲まれた木の家を見て、やがてゼノは足を止めた。
扉を押し、遠慮なく入っていく。
そこには、一人の老人がいた。
ベッドの上で、窓の外を眺めている。
その老人は窓の外を見ながらゼノに話しかけた。
「……誰だね。こんな老いぼれに用があるとは思えないが」
ゼノは口を開く。
「私はゼノ。…強いて言えば、貴方の最期を見届けに来た。」
老人はふっと息を吐いた。
「そうか。私の人生も、終わりか。
……妻が亡くなって、もう数十年経った。毎日が退屈だったが、其方なら良い話し相手になるかもしれぬな。」
「そうであると良いな」
ゼノは淡々と返した。
ゼノは椅子を引っ張り座る。そして辺りを見回した。
タンスの上には写真が飾られている。妻と娘だろうか。その二人だけで写っているものと、若いときの老人と一緒に三人で映っているもの。
老人が咳をした。
「……そういえば、私の名を教えていなかったな。
……ベルノスだ。ベルノスと呼んでくれ」
「分かった。私もゼノでいい。」
ベルノスはふっと笑った。
「ところで、私はいつ死ぬのだろうか?」
「それは私にも分からない。しかし、1週間以内であることは確定している。」
ベルノスが何かを言おうとして咳き込んだ。息をゆっくりと吐く。
「すまない。体調がずっと芳しくなくてな。」
俺はベルノスの目をじっと見ていた。
「……ところでゼノ、其方の旅の経験が聞きたい。どこが一番印象に残った?何が一番美味かったか?彼女はいるのか?」
「彼女はいない」
即座に反応したゼノに、ベルノスは不器用に笑った。
それから話したゼノの経験も、ベルノスは不思議そうに、そしてとても興味深そうに聞いていた。
ベルノス自身のことも話してくれた。昔は軍人だったという。仲間を失いながらも、なんとか戦場を生き抜いたと言っていた。
ベルノスの容態は日に日に悪くなっていった。
「ゴホッ、ゴホッ」
ベルノスは咳き込むことが増え、だんだん起き上がれなくなっていった。
(……そろそろか)
ゼノはベルノスに聞いた。
「なあ、ベルノス、お前は最後にどんな景色が見たい?」
ベルノスは少し考え、息を切らしながら言った。
「……昔見た、夕日だ。仲間と共に見たあの景色は、いつまでも忘れることのないものだ。」
「……そうか。」
ゼノはゆっくりと立ち上がり、魔法陣をイメージする。
「……残光」
その瞬間、淡い光がベルノスを包み、ふわっと景色が変わった。
「……え?」
少し楽に声を出せるようになったベルノスが驚いている。
こんな反応にはもう慣れた。
目の前には、夕暮れが広がっていた。小さく見える家をオレンジ色に染め、燃えているような真っ赤な夕日が光を放っていた。
緑色の草が茂った丘に、二人で存在していた。
「あぁ……!」
ベルノスはゆっくりと涙を流した。
そして、景色が移り変わる。空っぽの家だ。
「……ゼノ、ありがとう。」
ベルノスはゼノの手に触れ、長い時間をかけてそう言った。そして微笑もうとして、その前に瞼が落ちた。
ゼノはしばらくそのままの体勢でいた。やがて冷たい空気を感じると、立ち上がって家を出た。
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辺りは暗闇に包まれているはずが、そこのざわざわとした賑わいがそんなことを忘れさせていた。
ゼノは華やかな街を通り抜け、少し静かになったバーに入った。季節に合わない風鈴が音を立てる。
「あら、いらっしゃい。」
「カクテルを一つ、水割りで。」
「了解。」
マスターと思われる人物が微笑んだ。
ゼノのほかに客は3人程しかいなかった。しかし、ここに顔を出したのが初めてだからか凝視されていた。
「はい、カクテル1つ。」
「ありがとう。」
ゼノはカクテルに口を付けると、マスターに話しかけた。
「この店はいつからやっているんだ?」
「そうね……私が30の時だから、10年は超えているわね。」
マスターはふふ、と笑った。
「お兄さん、マスターは昔すっごく綺麗だったんだよ!」
酔った客の一人が話しかけてきた。
「すぐそこで踊り子として人気を集めててねぇ、行く人みんな足を止めて見入ってたよ!」
「今も綺麗と言いなさいよ。」
「……そうなのか。」
ゼノは適当に相槌を打った。
「俺も見入っちゃってさぁ、それが忘れられなくて今もここに通ってんの!マスターの作るお酒がいつも楽しみで。」
「それ80回は聞いたわ。」
マスターがため息をつく。
「そろそろ帰りなさいよ。娘さんが待っているのでしょう?」
「そうだよ!お前にも見せたいくらいだよ、めっちゃ可愛いんだよ俺の娘。」
「もう黙って帰れ!」
連れらしき人物に引きずられて店を出ていった。
「そういえばマスター、一回消えたって噂になってからまた戻ってきましたよね。黄金の期間なんて言われてましたが。」
「そうね……黄金の期間なんてダサいから嫌だわ。」
「ですよね。」
別の客とマスターが顔を見合わせて笑った。
「いつも来てくれてありがとうございます。そろそろこのバーも閉めようかと思っているんです。」
「えぇ!?どうしてですか!?」
ゼノはカクテルを飲みながら話に耳を傾ける。
「……まあ、長らくやってきたし、そろそろ引き際かと思ったの。」
「……マスターがそう言うなら引き止められませんね。」
やがてその男も帰っていった。
「あら、貴方は帰らないの?」
ゼノが答えようとした瞬間、マスターが目を伏せながら言った。
「貴方、死神でしょう。」
「違う」
いやでも死神のようなものかもしれない、と少しだけ思いが揺れた。
「違うの?ごめんなさいね。」
「いや……私は貴方の最期を見届けに来た者だ」
「死神じゃないの」
「違う」
□
店が終わり、着いて来いと言われた先には家があった。入れと促される。
「私はリリーよ。貴方は?」
「ゼノだ。」
「ゼノ、私店をやめるのは引き際だと思ったから、と言ったでしょう。でも本当は違うの。……持病よ。もう余命わずかなの。だからなのかしら、貴方が入ってきた瞬間、何か違う雰囲気を感じたの。」
「そうか。」
ゼノはリリーに聞いた。
「最後の瞬間には、どんな景色が見たい?」
リリーの瞳が揺らいだ。
「……それは、答えなければならないの?」
「いや、別に。」
聞いたところで何かが変わるわけではない。最後の景色はその者の本心が映し出されるのであって、ゼノが景色をイメージわけではない。ただ話すことがないからそう聞くだけだ。
「ところでゼノ、貴方今夜泊まる場所あるの?」
「ないが私に睡眠は必要ない。」
「そう。」
ゼノは暗闇の中外を歩いた。
□
やがてぴったり1週間が経った。ゼノはリリーに連れられ、森を抜けた。
歩きながらリリーは目を伏せて話す。
「私は昔、踊り子だったと聞いたでしょう?それで、一回消えたという噂があったって。……私には、愛する人がいたの。」
「そうか」
ゼノは太陽の光に目を細めながら聞いた。
「私を女ではなく一人の人間として見てくれた人だった。華やかな街で生きていた私にとって、すごく嬉しかったの。……夢を見ていたわ。私とあの人は、逃げ出した。」
「…………。」
「短い間だったけれど、二人で身を隠して暮らして。あの人は、私が作ったお酒がおいしいって笑ってくれて。……追手はすぐそこまで来ていたわ。でも、私に向けられた矢が、あの人に刺さった。」
「……そうか」
残酷だと思った。
「あの人は、貴方と一緒に暮らせて楽しかった、とかごめんなさい、ありがとう、とか言って。……『生きろ』って!」
「…………。」
「あの人は連れて行かれたわ。今生きているのかすら分からない。でも。」
リリーが立ち止まった。ゼノは顔を上げた。
一面が、紫色に染まっていた。たくさんの花が咲き乱れて、溢れていた。
「あの人と過ごしたこの場所で、最後は死ぬって決めてるの!」
リリーは純粋な笑顔で微笑んだ。
「……残光」
ゼノは小さな声で呟いた。
暖かな光が放たれる。
ゼノはいつの間にか花畑の中心にいた。リリーはもう少し先にいる。
そしてさらに向こうに、一人の男が腕を広げて立っていた。
「……シリウス?」
その男が振り返る。手には花束を持っていた。そしてリリーに微笑んで手を差し伸べる。
「シリウス……!」
リリーが男に駆け寄っていく。リリーが花束を受け取ろうと手を伸ばそうとして、前に倒れた。
景色が変わる。
リリーが花に囲まれていた。息をしていなかった。
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ゼノは細い路地に入っていった。
そこには、一人の少年がいた。ぼんやりと壁に背を預けている。
少年は光を失った目でゼノを見た。
「……お兄さん、誰?」
「ゼノ」
「はは、そういう意味じゃないよ。」
少年はゼノに一歩近付いた。
「お前の夢は何だ?」
「夢?……まずは、美味しいご飯をお腹いっぱい食べることかなぁ。」
「そうか。」
ゼノは少年の目を見た。
「お前の名は?」
「……ルイ。」
「ルイ、私に着いて来い。夢が叶う。」
「えっ、本当?お兄さんに着いて行くよ!」
ルイは目を輝かせた。
ゼノはとりあえず適当な定食屋に入った。
「好きなものを頼め。」
「えぇ……じゃあこれ。」
ルイが指さしたのはハンバーグ定食だった。
「分かった。」
ゼノは焼き魚定食を頼んだ。
「いただきます。」
少年が一口食べた。みるみる顔が明るくなっていく。
「お兄さん、これすっごく美味しい!人生で一番幸せ!」
「そうか。」
その顔を見るのは苦ではなく、口元がほんのわずか緩んでいた。
やがてゼノとルイは定食屋を出た。
「お兄さんありがとう!夢が叶うってとっても嬉しいんだね……!お腹いっぱい食べれるってこんなにも幸せなことなんだね!」
「そうだな。」
ゼノはルイの目を見つめ返した。
「ルイ、お前はどんな景色が見たい?」
「えー?僕ね、お祭りって言うのが見たい!友達のおじさんが言っていたんだけどね、にぎやかで、楽しいんだって!そのおじさん、死んじゃったけど。」
「祭りなら今からでも見に行けるが。」
ルイは首を振った。
「僕、体が弱いんだ。だからあんまり遠くには行けない。」
ルイは弱々しく笑った。
「……ルイは今何歳だ?」
「分かんない。でも、5年は経ってるよ。」
ルイはうつむいた。
「僕はずっと孤児で、本当はご飯があるだけでも幸せなことなんだ。これ以上良いことがあったら、どんな不幸が待ってるのか、って怖くなっちゃう。」
ルイの目から光が消えた。
「……そうか。では、1週間だけルイと一緒にいてもいいか?」
「いいよ。それくらいなら。」
ゼノは、ここでルイを医者に見せることもできた。しかしそうしなかったのは、『死』の運命を変えることは許されないと知っていたからだ。
それから3日後、ルイが血を吐いた。ゼノは医者のもとへ連れて行った。そして、ベッドに寝かせた。
ルイが咳き込む。体温が急激に下がっていた。
「お兄さん、僕すごく眠いなぁ。寝てもいい?ここって安全?」
「ああ。」
ゼノはルイの手を握った。
「残光」
景色が変わった。
ゼノとルイは、海を見ていた。広くて、青くて、空との境界線が滲んでいて、綺麗だと思った。
ああそうか、この少年は海が見たかったのだ。
ルイはきらきらとした目で海を見ていた。
「……友達だったおじさんにね、海ってすっごく広くて、青くて、見てると気分が良いんだって教えてもらったの。その通りだね!」
景色が消えた。しかし、残像が青い。
ルイが瞼を半分閉じていた。
「お兄さん、ありがとう。お兄さんの魔法って、素敵だね!お兄さんの夢も、叶うと良いね。」
ゼノははっとした。私の夢。私の見たい景色は何なのだろう。
「……ルイ。安らかに眠れ。」
ルイは頷いて、瞼を完全に閉じた。
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それからもゼノの旅は続いた。何百年も各国を渡り歩き、数えきれない人の最期を見送った。そのぶん景色を見た。
ゼノは少しずつ力を失っていった。この力を授けられたときは永遠だと思っていたのに、どんどん体力が衰えていった。背格好はそのままだった。
いつからだろうか、とゼノはふと思う。いつから、この容姿で自分の時が止まってしまったのか。ゼノはもう覚えていなかった。
ゼノはいつの間にか荒野にいた。前も後ろも、右も左も同じ景色が続いている。空はやはり、曇っていた。
このときも冬だった。びゅうと吹いてくる風が冷たい。こんな感覚はゼノにとって久しぶりだった。
やがてゼノは荒野の真ん中で膝をついた。手が震えている。ああ、今まで見送ってきた人たちもこんな気持ちだったのだろうかとゼノはぼんやりと思った。
景色が変わった後の人々の表情を思い描く。ゼノは相手に死の恐怖を与える存在だったというのに、最期は誰だってゼノに微笑んでくれた。ゼノはそれがなぜか分からない。
そろそろ火が消える。ゼノの命の灯が。人間だと胸を張って言えないこの体が、もうすぐ朽ちていく。
ゼノは一人だった。どこまでも孤独で、でも辛くはなかった。それなのに、今だけは感じたことのない感情が芽生えている。胸を押さえた。
どうせ最期なら。どうせ最期なら、賭けでもしてみようか。
あの魔法が、自分にも通用するのかどうか。
ゼノは目を閉じた。
「……残光」
ゼノは目を開けた。なんだ、何も変わらないじゃないかと思って、次の瞬間には目を見開いた。それは、忘れ去っていた記憶。
「ゼノ?どうしたの?」
華奢な女性が振り向く。
「ゼノ、そこでぼんやり立ってどうしたんだよ。さては、昨日の魔力検査が悪かったんだな?気に病むなよ、俺が小さいときなんか何も表示されなかったからな!」
「自慢みたいに言うなよ!」
「でも俺は好きだぜ、人が死ぬときに見たい景色を映し出す魔法。」
景色が変わっていた。店のような場所に、酒樽を持った男たちが豪快に笑って座っている。
「あ……」
記憶がよみがえる。そうだ、母と常連客だ。どこか懐かしい気持ちになる。
また景色が変わった。
「ゼノ、お前天才だよ!私はこの年でこんなに早く魔法が使えなかったよ。」
「さすがミレイさんの息子だ!」
「でしょ?」
「お前誰だよ!」
「はははっ!」
自分の周りに人が集まり、わいわいと騒ぐ。でも嫌ではなかった。嬉しかったのかもしれない。
さらに景色が変わる。
目の前は、赤で染まっていた。ごうという、炎が燃える音。
冬だった。
「母さん……?アルバート……ミシェルも!」
炎の下には、人が死んだ目をして倒れていた。かすかに息はあるのか、ないのか。
「ねえ……ねえ!返事をしてよ!」
炎の音だけが響く。ひゅうっとそばで息を吸う音がした。
「ゼノ……」
母さん、と呼ぶ自分の声が情けない。
「ゼノ、逃げて。もう、ここはダメだわ。行きなさい。」
「でも……!」
「生きなさい!」
渾身の力を振り絞って母が言った。
「……俺も、ゼノといれて楽しかった」
「守ってやれなくて、ごめんな。」
「愛してるわ」
自分の視界が傾く。滲んで、揺れる。
ごめんなさい、と細く、震えた声がした。ゼノだった。
ごめんなさい、俺に治癒魔法が使えたなら、もっと早く帰ってきてたら、ごめんなさい、ごめんなさい。
ゼノは一歩、二歩と後ろに下がった。
せめて、せめて最後にできるのは。
「……残光!」
かすかな光が炎を遮る。やがて、ゼノの前に目に追えない速さでたくさんの走馬灯、いや誰かが見たかった景色が流れた。
「あ……あああああああああああ!」
ゼノが叫ぶ。これは、忘れられなくて、忘れたくなかった記憶。
体がふわっと浮いた。
「ゼノ?」
「おいゼノ、大丈夫か?」
顔を上げると、夕食の準備をしていた母と、常連の仲間のアルバート、ミシェル、そしてアイリーンも。
「もー、悪い夢を見たみたいな顔しちゃって。」
「今日もたくさん食って大きくなれよ!」
頭を撫でられる。悪い夢。そうか、悪い夢だ。
みんなが笑顔で、笑い声が絶えなくて、ああ、そうだ。
私は、みんなと笑顔で一緒にいたかったんだ。
それが、幻の願いだ。
なぜ触れられるのかも、こんなにも夢が長く続いているのかも分からない。でも、目から涙が溢れる。
「え、マジでどうした!?」
「大丈夫か?」
「……ごめんなさい、ごめんなさいっ……!」
ゼノは涙を拭う。
「俺が、俺のせいでみんなは……!」
「いいんだよ、そんなこと。」
「ゼノのせいじゃないよ。」
「ありがとうな、最期に俺たちに魔法使ってくれて。」
「貴方が生きてくれてよかった。」
たくさんのあたたかい言葉。みんなの笑顔。
ああ、そうだ。私が見たかったのは、この景色だ。
ゼノは輪に飛び込んでいく。
後ろ姿と景色を隠すように、炎が燃えた。
ゼノはもう目を開かない。でも、その表情は、幸せで満ちていた。
遠くの山に、鳥の一声が響いた。




